「ある」と言ってはいけない放射能問題 [被曝]

「福島の人々にありもしない放射能問題をぶつける活動家たち」という記事を読んだ。

やっぱり放射能問題ってのは「危険か?危険じゃないか?」っていう問題じゃなくて、

「権力の命令を一般市民が奴隷としてどう受け入れるか?」

みたいな行政問題なんだなと改めて思った。

少し笑ってしまったんだけど、福島の国道清掃ボランティアについて「子どもがセシウムを吸い込む“被ばくイベント”が福島で決行された」という見出しで女性週刊誌が記事を書いたらしく、このライターはけしからんと思って弁護士に聞いたのだそうだ。するとこんな解説が返ってきたと言う。
「どんなに小さな量でも、このイベントでちょっとは追加的にセシウムを吸い込んだり、被ばくしたりしたでしょうからねえ……、被ばくイベントという表現は間違いとはいえないですよね……。原発事故によって、放射能に汚されたというのも事実ですし……」
、、、正論だと思う。

そしてこのライター自身も、
低線量被ばく問題は難しい。福島の被ばく量が先述の通り小さかったとしても、数十年後の晩発性障害を現時点で完全に言い切ることはできない。
福島の被ばくはチェルノブイリに比べケタ違いに小さい。とくに内部被ばくはあったとしてもごくわずかでゼロに近い。将来、事故由来の晩発性障害が起きる可能性はかなり低い。
と「微量ながら被害が出るかもしれない」と、一応「危険である」ことは認めている。

つまり「放射能問題はある」ってことだと思う。

だからその上でこの人の主張としては、

「ちょっとぐらいは危ないかもしれないけど『すごく危ない』とか言うな!」

みたいな話なんだと思う。

「原発事故で日本は大変なことになった。もう終わりだ」

と言うのに対して「もう『終わり』とか言うな!どこがどう終わってるんだ?」とか

「健康被害が出る。阿鼻叫喚の地獄だ」

「阿鼻叫喚はいつ始まるんですか?」とか

「危険なのはそうだけど『言い方が悪い』」

みたいな話なんだ。

例えば、暴行事件の被害者が

「あの犯人は絶対許せない。私は人生を台無しにされた」

と言ったとして、

「はあ?人生台無しにされた?もっと悲惨な人いっぱいいるよ」とか

仕事で大失敗した人が

「俺はもうダメだ。生きて行けない」

と言ったら

「はあ?生きてるでしょう。死ぬの?いつ?」

とか言う感覚だと思う。でもなかなかそういうことは言わないでしょう。

放射能の問題は「いつ、どこで、だれが、どのような健康被害が出るか分からない」という「完全に言い切ることはできないことの不安」にあるわけだから、そこで

「どうなるか分からないから不安だ」

と言うのは何も異常なことではないと思うのだが、

その人に向かって、

「どうなるか分からないんだから不安だとか言うな」

みたいな感じなんだ。

でもそれもなかなか言いづらいから「原子力緊急事態」を解除しないんだろう。これが継続している限りどんなに不安に思おうが「20ミリシーベルト許容するしかないよ。受け入れる?受け入れない?」みたいな2択に究極的には持ち込むことができる。

「放射能は危険だ!」と誰かが言ったところで「危険だよ。だけど緊急事態だから。しょうがないから。受け入れるの?受け入れないの?」という話にしかならない。

つまりこの「原子力緊急事態」の中では「多少の放射能は目をつぶろう」という話なんだろうけど、「放射能は危険である」ことは未だに原子炉に近づけず作業員がフル防護装備で仕事してるのを見れば明らかだから「危険である」ことはどうしても認めざるを得ない。

だから「放射能に多少は目をつぶりましょう。それに薄まればそんなに危険ではないですよ」ぐらいの落とし所を目指しているし、実際そういった説明によって国民の大半は「ただちに影響はない=安全だ」ぐらいの短絡思考で「まあしょうがないか」と納得してるんだと思う。

だから「みんな緊急事態で我慢してるんだからイチイチ気にさわること言うな!」と言うことなら「まあ、それもそうだね」と思う。

しかしそれなら「ありもしない放射能問題」ではないだろう。「あるんだけどあんまり大きい声で『ある』って言ったらダメな放射能問題」だと思う。


「放射能は薄まればたいしたことない」という信仰 [被曝]

ここ数日低線量被ばくについて考えて来て、

遅ればせながら、ようやく今回の福島原発事故による放射能問題の核心に気が付いた。

何で今まで気が付かなかったんだろう?

それは「放射能は危険か?危険じゃないか?」の議論じゃないんだ。

原発推進派だって放射能たいしたことない派だって、

「放射能は危険です」

とはっきり言うのだ。

問題の核心は、

「低線量被ばくによる健康被害は存在するか?しないか?」

であり、

国はそれを、

「存在しない」

と疑いを持たずに断言しているのだ。

それはもはや「信仰」みたいなもので、この低線量被ばく問題は、「科学論争」ではなく、その信仰対象を巡るほとんど「宗教戦争」に近いものなんだと思う。

僕は今まで、

・低線量被ばくは危険であることは国も電力会社も分かっている

・それを認めれば、広大な地域を避難区域にしなければならず、その補償によって国家が崩壊してしまう

・しかし加害者にとって幸いなことに、低線量被ばくと健康被害の因果関係は科学的に証明できない。

・それをいいことに、国は自己保身のために腹を決めて「低線量被ばくによる健康被害は考えにくい」と意図的に嘘を突き通すことにした。

、、、そんな風に考えてきた。

さらにその結果として健康被害が全国で平均化すれば、福島だけが突出することもなくなるから、補償を最小に抑えることができる、と。

そして多くの反原発派はそう考えていると思う。

だからネット上で「国はバカだ」「国は国民の健康よりも経済を優先した」「国民の命を犠牲にして自分たちの利益を守った」「国は嘘をついている」「電力会社、官僚、政治家、御用学者は悪を認識しながら、ごまかせると踏んで犯罪行為を続けている」と国を責め続けてきたのだ。

しかし、彼らは「嘘なんてついていない」んだ。

それどころか、

「低線量被ばくによる健康被害は存在しないと、心の底から信じている」

そこなんだ。

その「一点」だ。

それを「心の底」から認めてしまえば、後は霧が晴れるように、さーっと目の前に道が開ける。

己を苛み続けた忌まわしい原発事故が忘却の彼方に消え失せ、まるで絶望的な病から回復した後の歓喜が全身を包むように、未来へ向かう意気揚々とした活力がみなぎってくる。

この放射能不安からの解放。

原発災禍における自己啓発。

全てをひっくり返す魔法の信念。

見えない原子核の不確定性に捕われた心の「解脱プロセス」。

それらのカギがそこにある。

さあ、唱えろ。マントラのごとく何度も、何度も繰り返して、心の中で叫べ。

低線量被ばくによる健康被害は存在しない、、、低線量被ばくによる健康被害は存在しない、、、低線量被ばくによる健康被害は存在しない、、、

低線量被ばくによる健康被害は存在しない!

何度でも言う。

それは「存在しない!」

「存在しないんだよ!!」

ああ! 俺はとうとう救われた! 俺には何も起きない!

そして俺の家族にも! どこにも! 誰にも! 何も起きない!

全ては今まで通り、あるがままの輝きに満ちている。

生きること、このすばらしさ。

命万歳!

そうだ、だから、何も恐れるものはない。

「存在しないもの」を怖がってどうする?

がれきも、食品も、広げれば広げるほど、薄めれば薄めるほど、

それは「消える!」

消えて「なくなる!」

だから、広げよう。

そうだ、薄めよう。

100ベクレル/kgの食べ物を、一人で全部、一度に食べることなんてないだろう?

それだってたいしたことないのに、それを100人で10gずつ分けたらどうなる?

たった1ベクレルだ。

つまり「0」だ。

福島原発から1日2.4億ベクレル漏れてるって?

なーに、それがもし日本中にばらまかれたって、日本人全員で分ければ、一人当たりたった2ベクレルじゃないか?

つまり「0」だ!

誰も苦しまないし、誰もそれが原因で病気になんてならない、、、そしてみんなが幸せになれるんだ、、、。

え?

「0」じゃないだろうって?

君はまだ分からないのかい?

だまされていたんだよ、俺たちは!

いいかい、見てみろ、地球誕生から46億年、生命が生まれてから35億年、世界中放射線に満ちあふれて、俺たちはその中で、「放射能まみれ」で生きて来たんだ!

そこで耐え抜く力を備えているからこそ、今ここに俺たちは存在するわけだ。

つまりこういうことさ。放射能なんて、水や塩と同じなんだ。

君の体の70%が水で出来ていて、その0.85%が塩分だ。

水分も塩分も生きるために絶対に必要だが、だからといって1度に100リットルや100kgの塩を摂取したら、そりゃ人間は死んでしまうさ。

だけど、1日に必要な量、例えば塩が1.5gだとして、そこで0.001gあるいは0.01g多く料理に使って、1.501g食べたからと言って、病気になるかい? ならないだろう?

水を1日に1リットル飲むのと、1.01リットル飲むので、何か違いがあるかい?

それと一緒さ、低線量被ばくってのは。

さらに言うなら、人体には元々放射性カリウムが6000ベクレル存在して細胞を破壊しているんだ。それでも細胞は自己修復するし、傷ついたDNAだって日々修復される機能を人間は持っているんだ。

まあガンになる時はなるだろうが、そればかりは運命、「神のみぞ知る」ってとこだ。

そこにセシウムが「数ベクレル」増えたからって、一体何が起きるっていう?

「何も起きない」

それが答え。

低線量被ばくなんて存在しないってのはそういうこと。

つまり人間が細胞レベルで認識し得る世界の限界において、

それは「0」なんだよ!

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もちろん本当の「嘘つき」や影の「悪人」は存在するのだろうが、こういった洗脳のような「安全神話」を官僚や政治家や国民の多くが信じ切って、心理的に「共有」して、国家全体が動いているんだと思う。

いや、「神話」とかじゃないな。

中途半端に合理的な、ご都合主義的効率主義、、、「立場主義的」思考というか、、、

おそらく個人的には勤勉に、0.0001のリスクが存在することを割り出しても、立場上「0」がよければ「0」にして、それを信じることができる。

全身に分散して存在し、細胞の自己修復機能とバランスを取っている自然由来の放射性カリウムと、臓器のある一カ所に蓄積して、集中的に周辺細胞やDNAを破壊し続ける人口放射性核種であるセシウムの違いを認識しても、立場を守るためだったら、都合良く主張をアレンジして疑念を取っ払い、「同じです」と断定できる「軽やかな」思考。

人類史上最悪の原発事故を経験したにもかかわらず、未来のためにそれを直視し、反省し、変革を遂げるための意志を継続することができない、幼児的な「こらえ性」のなさ。

「忘れること」を信条に、今ここの刹那的享楽に耽溺することでしか生を実感できない消費者的心性。

極めて日本人的思考が、この低線量被ばく問題に如実に表れている。

やはりそれを「改宗」させることは極めて難しいだろう。

だから、己の身は己で守る。

そして今まで通り、家族を第一に考えることにする。




低線量被ばくは放射能問題の核心 [被曝]

昨日書いた某「大学教員」の低線量被ばくとタバコの話は、原発事故直後から盛んに繰り返されて来た放射能安全派の紋切り型の例えだ。

そして、この例え話が意味を持つとすれば、

「東日本全体がタバコの煙でもくもくになっちゃった」

っていう状況を想定しているわけだから、「放射能たいしたことない」という安全派の人たちも、多かれ少なかれ原発事故によって、

「健康に影響を及ぼす可能性のある危険な放射能が広範囲に拡散した」

という事実は認めているんだと思う。

漏れて広がっちゃった、だけど

「薄まってるから大丈夫」って話をしたいのだ。

つまり、

原発推進派や容認派、放射能安全派の主張は、

「放射能は安全」ってことじゃない。

薄まれば安全」ってことなんだ。

「放射能」それ自体の問題で言えば、「危ない」んだ。

これはもう誰もが認めざるを得ない事実で、そうであるから原発の格納容器も原発作業員の防護服や防護マスクも存在する。

そしてこの点は原発推進派も安全派も認めているんだ。

反原発派はそこを取り違えてよく安全派にたいして、

「放射能が安全だ安全だって言うなら、福島原発の原子炉の中覗いてこい」

とか

「福島原発の隣に住んでみろ」

と言うが、すると彼らは、

「は?原発敷地内は危険って言ってますけど何か?」とすっとぼけるのだ。

放射能は「ごっそりまとまって存在すれば恐ろしい」わけで、

「薄まればたいしたことなくなる」っていうのが原発推進派の「錦の御旗」なんだ。

(それと同じで『食品汚染たいしたことないって言うなら600万ベクレル食ってみろ』とかも的外れな要求だ。むしろ安全派でなくても日本人のほとんどが近所のスーパーで普通に食材を選んで食っているのだから、彼らの『薄まれば安全』という主張は、日本中で日々実践されていることになる)

彼らの主張の大前提は「低線量被ばくは存在しない」ということだから、それは絶対にあってはならない。

試しに思考実験のつもりで、その大前提に立ってみよう。

とても恐ろしい展開になることが分かる。

「薄まればたいしたことなくなる」とするなら、がれき拡散も食品流通も何も問題ないどころか、逆に、拡散した方が日本はどんどん「安全になる」

「薄まっても何か問題が起きるんじゃないか?」と微塵でも思ったら、「ちょっと様子見た方がいいかも」と拡散を躊躇する。

しかし「薄めれば無害。薄めれば放射能は少なくとも人間の健康に影響を与えるレベルでは存在しなくなる」と確信するなら、「薄めよう、広げよう、除染しよう、食べて応援しよう」は汚染を広げるどころか、汚染を限りなく無害化していることになる。

これは僕が考えていた政府の態度、

「ごめん、どうすることもできないから、経済を優先して健康被害がちょっと出るの我慢して100ベクレル以下の食品流通させて補償しないようにして、がれき処理で業者儲けさせてくれ」

っていうのと全く別だ。

むしろ、拡散させることで後ろめたさを感じるどころか、

「日本をきれいにして、より安全にしている」と善行を施しているつもりなのだ。

つまり、もっとタチが悪い。

「薄まれば安心」という立場の人にすれば、危ないのは「濃い放射能がたっぷりある」強制移住区域の中だけで、その外であれば怖いものは何もない。

福島も関東も危険なものは限りなく元々「0」に近く、薄めれば薄めるほど完全に「0」になるのだから、もう「どんどん、どんどん拡散すればいい」ということになる。

「薄まっても危険」と考える人にすれば、怖いものは日本中にあふれ、それが福島原発に近くなればなるほど増大する。

だから「もっとも危険な場所である福島原発に全てを封じ込めろ」という主張になる。

まったく真逆の「確信」が、この原発事故、放射能に対する態度をまっぷたつに分けている。

低線量被ばくこそが今回の原発事故による放射能問題の核心だと思う。




低線量被ばくに備える [被曝]

あるブログコメント欄より。

「低線量放射線の健康影響については専門家の間でも論争がある」というコメントに対する某「大学教員」のコメント。

・(低線量被ばくの影響はほとんどないのだが)自称専門家が議論を吹っかけ続ければ、一応「専門家の間で論争になっている」という形にすることが出来る

・低線量被爆の議論は、タバコを1日100本吸ったら肺癌になることが疫学調査で認められているとして、1日1本ならどうなるか?という議論と同じ話

・日焼けは紫外線による細胞死だから、大量の日焼けは避ける必要はある。しかし1日3分外出するか10分外出するかで揉めている人がいたら「そんな細かいことは気にしなくていい」と言う

・福島の避難勧奨地域以外の放射線量の増加はそういうレベルである

だそうだ。

原発事故さえなければ、ごもっとも、と思ったかもしれない。

だけど国も東電も原発事故を起こしてどうすることもできなくなって、そこで「放射能気にするな」と行政判断せざるを得なかったわけだから、それを擁護する「科学」って一体何?と思う。

(子供はタバコ吸わないだろう、、、とか)

だから、このコメントにも低線量被ばくの「可能性」は暗に示されているわけで、僕はやはり対策を取ると思う。

この例え話で言うなら、

「1日1本のタバコ」も断固吸わない。

そして子供に「1秒でも」副流煙を浴びせない。

必要以上の日焼けは避けるし、日差しが強い日は子供にも日焼け止めクリームを塗り、長袖シャツを着せる。

別に対策でも何でもなく、ごく当たり前に日常的にやっていることをする。

しかし、この「大学教員」が想定している状況はもっと特殊なんだな。

また例え話を借りれば、

福島の一部がタバコ工場の大火災を起こしてニコチンまみれになって、そこから「副流煙」が流れて広大な地域を覆っているとする。

もうどうやったってその煙の中で生活するしかない。

するとそこで初めて「1日1本ぐらいタバコ吸っても死なない」みたいな話になる。

これを東京の人間が、「あの副流煙でみんな死ぬ。子供は特に危ない」と言ったとすると、

それに対する逆切れが出てくる。

「東京だって大気汚染で肺がんリスクは変わらない。子供もたくさん住んでるだろう。そこで1本2本のタバコ気にしてもしょうがない」みたいな。

そういう状況にみんなが巻き込まれて、もうみんな諦めて「吸うしかないか?」となっている時に、

「いや、俺は1本も吸わんし、1秒も子供に吸い込ません」と躍起になってる僕みたいな人間がいると、

「自分だけ助かろうとするのか!いやならここから出て行け!」

と村八分みたいなことになる。

この「大学教員」の例え話はそういった汚染状況に住まざるを得ない大量の人々を前提にしていて、その中で「1本も吸わん」と意気込んでる人間をたしなめているんだと思う。

「意味ないよ」とか「どこも同じぐらい汚れてるから無理するな」と。

だけど、統計上0.1%とか0.001%とか「健康被害のリスク」は上昇しているんだろうから、リスクを取り除くためにはむしろそこから逃げ出したり、可能な限り汚染されていない食品を選んだ方が、科学的には「正しい」ことになるんじゃないか?

それにいつもそうだが「ガン」に影響を限定するけど、「ガン」を1人過剰発生させるリスクがあるなら、それ以外に数人数十人が「肺炎」や「ぜんそく」を発症するリスクもあるのではないか?

それを「意味がないから気にするな」っていうのは、そこに「留まらざるを得ない住民」に対して国や自治体がする行政的なカウンセリングみたいな話で、科学とは別なのだ。

だけどおかしいのは、その事故が自然災害と同じで「しょうがない」と諦めなければいけない話になっていて、大火災を起こした工場の責任を問わないことだ。

原因がすり替えら得れて認識がずれまくって、「気にする」「気にしない」で住民同士の対立が激化する。

「低線量被ばくは存在しない」と主張する人は、「気にする人」を攻撃する時は、「この放射脳め!とっちめてやる!」とまるで自警団のように勇ましいのに、東電の責任問題になると「専門家におまかせします」と途端に小さくなる。

被害者のケアと事故責任の追求は同時に行われなければならないのに、「もう原発事故のことは考えるな」と言わんばかりのその「慰め」は、原子力産業や電力会社を擁護しているとしか思えない。



カリウムとセシウム [被曝]

体内にカリウム40という放射性物質があってそれで内部被曝してるから、ちょっとぐらいセシウム食ってもも恐くないみたいな話を聞く。

例えば、

日本原子力文化振興財団発行「エッ!こんなところに放射線」

こういうのを見ると、

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カリウム40という自然放射性物質は、ふつうのカリウムに0.0117パーセント混在している。

1日に白米300グラム、魚、牛肉、牛乳、ホウレンソウを各200グラムずつ食べると仮定すると、1日に約100ベクレルのカリウム40を食べる。

人間の体の中には自然由来の放射性カリウム40が、67ベクレル/kg、成人一人60kgの体内におよそ4000ベクレル存在していて、その体内被曝線量は、年間約0.2ミリシーベルトになる。

大気圏内核実験が行われていた1960年代中ごろでは、1人1日分の食事の中にストロンチウム90は0.5ベクレル、セシウム137は1~2ベクレルほど入っていた。

1996年の調査では1人1日分の食事の中には、ストロンチウム90とセシウム137がそれぞれ0.05および0.04ベクレルという水準だった。

人体内セシウム137の量は、1960年代には一人当たり500~600ベクレルにも達した

核実験の頻度が激減したのにしたがって、体内量も減少、一人当たり20ベクレルくらいのレベルが続いていたが、1986年チェルノブイリ事故の直後に少し上昇し、体内量が60ベクレルまで高まった

現在は、再び20ベクレルに戻っている。

現在でも私たちは、毎日セシウム137を約0.19ベクレルほど食べている。これによる被ばく線量は、年間0.9マイクロシーベルトくらい

体内にあるセシウム137のレベルが、各年代の食物に含まれるセシウム137のレベルの増減によって変わるのは、人体への吸収もよいかわりに、体外への排出も比較的早いから。

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などなど。

一体何を言いたいのか? という感じだ。

人体内に自然に存在する放射性カリウムは、大人で4000ベクレルで安定している。入ったら入った分出て行く。何百万年と時間をかけて、身体がそのように作られたということだ。

そこに人工放射性核種のセシウムが、60年代だったら500ベクレル上乗せされて、原発事故前でも20ベクレルぐらい存在していた、と言いたいのだろう。

それなら、福島原発事故で、そこにさらに「上積み」されるわけだ。

それに1ベクレルというのは放射性物質1個が1秒間に出す放射線の数だから、半減期が違えば、1ベクレルに含まれる原子核の個数も変わってくる。

セシウム137の半減期は30年で、カリウム40は12億年だから、

セシウム137は1/40000000の個数で、カリウム40と同じベクレル値になる。

1ベクレルのセシウム137の個数は、1ベクレルのカリウム40の1/40000000になる。

だから10億個のセシウム137原子は、10億個のカリウム40原子の40000000倍の放射線を出す。

放射能安全派は、放射性カリウムと放射性セシウムを「全く同じもの」として扱いたいようだが、

これは「同じ」なのか?

まあ百歩譲って、1ベクレルのセシウム137と1ベクレルのカリウム40は「同じ放射線量だ」とする。

(馬鹿げているが、『同じ放射線量だから、同じ1ベクレルで、同じ影響を身体に与えるであろう』と人間が決めただけの話だ)

ではそれでその放射性セシウムについて、ベクレル値以外も「全て」分かっているのか?

そんな量子論的な雲のような存在をつかまえて、「カリウムとセシウムは一緒だ」なんて断言できるのか?

何となく似てるし、漏れて吸い込んだセシウムどうすることもできないから、「似てるということにしよう」ってだけだろう。

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人間の身体なんて、人智を超えたところでバランスを保つ、一つの宇宙のごとき有機体じゃないか。

カリウム40が出す放射線に対しては、DNAの自己修復機能が働くとして、そこに「異物」として原子レベルで入り込んだセシウムを、その免疫系統が何事もないかのように処理するなんて、どうやって分析するのだ?

単純に「分からない」だろう。

「分からないから、何も起きないということにしよう」と言うなら、それは科学でも何でもなく、ただの「行政判断」だ。

放射能安全派というのは、国だ経済だ安全保障だとでかいことばかり言って、とにかく「人間の身体」をなめてると思う。


以下参考サイト。

カリウム40による内部被曝との比較による安全デマ

自然放射線を理解する ―私設原子力情報室

セシウム137とカリウム40 ―私設原子力情報室

放射性カリウムとその意味を考える

煙草1本の被曝量はバナナ20kg分?

放射能は運命を狂わせる [被曝]

原発避難の男性、都内で孤独死…死後1か月
東京電力福島第一原発事故で、東京都江東区の国家公務員宿舎「東雲しののめ住宅」に避難していた福島県郡山市の無職男性(49)が孤独死していたことが、都などへの取材でわかった。男性には持病があり、病死とみられる。(2013年1月31日07時46分 読売新聞)

このニュースに対してのコメント欄で興味深いやりとりがあった。
11年11月末に自主避難してきた それまでずっと被爆していたんだよね。何の病気で死んだんだろうか?
投稿記事に「男性には持病があり、病死とみられる。」と書いてありますよ。「持病」なんだから、放射能の影響ではないでしょう。「放射能障害」なんて持病はないと思うが。どんな詭弁を使っても、何とかして放射能の影響に結び付けたいらしい。そろそろ諦めたらどうでしょう。
持病があるなら当然、放射能吸い込みによる持病の増長が考慮されるべきですよ。 死の灰と呼ばれるものが日本全域を襲っているのですからね。
それでは、その孤独死された人が、実は放射能障害のためであると言う診察結果があるんですか。それなら、持病で死んだ人は、皆、放射能吸い込みで死んだと言うことになる。その人の死に、放射能がまったく無関係とは言えないと私も思う。0.0001パーセントくらいはその人の病気を後押しして死に至らしめたことはあるかも知れない。持病で死ぬ時期が放射能のために0.001秒ほど早まるなどと言うことは、絶対に無いとは絶対に言えない。だからこの人も放射能で死んだのだ。そう言うことが絶対に出来ないとは、絶対に言えない。

ここで難癖を付けている人は、前も似たような「健康被害」の話題に対して、似たようなケチをつけていた。

以下。
では、中村勘三郎さんも、小沢昭一さんも、放射能の犠牲者ですね、小沢さんは前立腺ガンだったそうです。それは事実だが、その死にいたる最後のひと押しが放射能だったかも知れない。原発事故がなければ、あと0.01秒くらい長く生きていたと言えないとは決して言えない。笹子峠のトンネル崩落事故も、放射能の影響が全くないとは言い切れない。放射能のチリの重さが最後のひと押しになって、天井が落ちた。原発事故が無ければ、崩落するまであと0.01秒くらい持ちこたえたかもしれないということが、絶対に言えないとは言えない。お互いに気を付けましょう。

これに対するコメントが面白かった。

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この人は「時間」感覚や原因・結果の関係を正しく認識できない病気、障害でしょう、興味深い。

> 天井が落ちた。原発事故が無ければ、崩落するまであと0.01秒くらい持ちこたえたかもしれないということが、絶対に言えないとは言えない。

→崩落が遅くなったとしても別の人が犠牲になるだけです。

> 中村勘三郎さんも、小沢正一さんも、放射能の犠牲者ですね、小沢さんは前立腺ガンだったそうです。それは事実だが、その死にいたる最後のひと押しが放射能だったかも知れない。原発事故がなければ、あと0.01秒くらい長く生きていたと言えないとは決して言えない。

無意識のうちに放射能を「最後(最期?)のひと押し」と限定しているのかもしれないが、「最初の」や「途中の」放射能の影響を認知できないのだろう。だから0.01秒しか長生きできないと思ってしまうのだろうね。
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僕はこの「『最初の』や『途中の』放射能の影響」がずっと気になってたのだが、今日、何となくその意味することのイメージをつかめた。

つまり、多くの人は、放射能の影響を何か「定量的に」考えているんだと思う。

普通の物理法則と同じように、致死量にさえ至らなければ(例えば100ミリシーベルト以下の被ばくであれば)、何も起きないか、起きたとしても「ほんの少しだけ」(例えば0.0001%)、ガンが増えるとか死ぬべき人の死期が早まるとかしか考えてない。

このケチつけてる人も「放射能のチリの重さ」とまるでその物理的な「質量」が原因であるかのように表現している。

ところが、実際の放射能の影響は、この0.0001%の影響が、「量子論的に」(つまりロシアンルーレットのように)、あらゆる人に現れる可能性があるんだと思う。

つまり、持病や元々の因子に対して「最後の一押し」をするのではなく、健康な人への「最初の一押し」となって、あらゆる病気を発症させる可能性があるのだ。

内部被ばくが深刻になると、放射線が体内の水と局所的に反応してヒドロキシラジカル(=活性酸素)を過剰に生成する。それを抗酸化酵素が分解することができなくなれば、細胞内小器官(ミトコンドリアや小胞体・ゴルジ体)が損傷し、様々な病気を引き起こす。

また放射線や、細胞核内で発生したラジカルがDNAと結合してDNA鎖を切断した場合、二重らせんの一方だけであれば、DNAポリメラーゼが修復するが、同じ位置で2本のDNA鎖が切断されると異常DNAとなり、それがガンの「出発点」となる。

これが放射能の健康被害に「閾値無し」ということだろう。

その人の生活習慣とか因子に関係なく、原子レベルの不可知の領域で身体に影響を与える。だから、細胞分裂の盛んな子供や妊婦は絶対に被ばくを避けなければならない。

放射能がその運命を狂わせるからだ。




意見書 「今、福島の子どもたちに何が起こっているのか?」 [被曝]

意見書「今、福島の子どもたちに何が起こっているのか?」松崎道幸(深川市立病院内科・医学博士)2012年5月12日より

うーむ。なぜだ。何が起きているんだ。

やっぱり、3号機の揮発した燃料棒のせいか、2号機のドライベントのせいか、とにかく公表されてるセシウム放出量とは別の核種が拡散したとしか思えない。

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空間線量と内部被ばく [被曝]

妻が、

「空間線量が高いところには行けない。内部被ばくする」

みたいに言うのだが、これは半分当たってて、半分間違ってると思う。

以下、個人的な考察として。

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内部被ばくに関して、僕が一番危ないと思ってるのは、福島原発爆発直後のプルーム(放射能雲)だ。

あれだけは絶対やばかった。

あんなものを、これだけ大量の数千万人の人間が喰らったのは、人類史上初めてだろう。

その影響は必ず出る。これは、空間線量とも土壌汚染とも関係ない。

「あのプルーム」を吸い込んで内部被ばくしたことによる健康被害は、いずれ「必ず」出てくる。

ただ、それは、内分泌系の障害や心疾患となって現れて、「放射能が原因とは特定できない」と簡単に言い逃れできることが分かっているから、「プルーム吸い込んでもたいしたことない」と原発推進側は繰り返しているだけだ。

しかし、福島原発事故では、幸いにも、このプルームはほとんど海側に流れ、内陸も短時間で通り過ぎた。

これが全部陸側に流れてたら急性放射性障害が出て、どうにも隠蔽しようがなくなっていたかもしれない。

だけど、今だってきっと影響は出ているし、これからも少しずつ影響は出るだろう。

それが「チェルノブイリほどではない」と言っても、100人死んだ事故と比較して10人しか死なないから良かった、と言うようなものだ。

しかも、この時SPEEDIで拡散予測出来ていたのだから、「屋内退避」さえ呼びかければ、その重大な被ばくを人びとは避けることができた。

それをやらなかった東電、政府の罪は重いし、僕は絶対に許せない。

関東圏まで「屋内退避勧告」することは、すなわち「恐ろしい原発事故が起きた」ことを日本全体に知らしめることになるし、その衝撃によって、原子力そのものが否定されることは目に見えている。

だから、「原発事故たいしたことなかった」という印象を作り出すために、東日本全体の被ばくを引き換えにした。

枝野が原発爆発後を振り返って、

「東京でも避難が必要になる『悪魔の連鎖』が起きるおそれがあると思った。そうならないよう押さえ込まなければいけないと考えていた」

とか言ったけど、この「悪魔の連鎖」ってのは、国民にパニックが広がって、それが「悪魔的に連鎖して、原子力が否定される」っていう、枝野の無意識が言語化してしまったものだから、その連鎖が起きないように、パニックを抑えて原子力を守るために、黙って国民を被ばくさせた、ってことだと思う。

それでも幸いだったのだ。

チェルノブイリでは、このプルームの噴出が、むき出しになった炉心と黒鉛火災によって、一週間続いた。その中をプリピャチの人たちは無防備でバスに乗り込み、30km圏内の農民は家畜と一緒に徒歩で避難した。

だから、その「初期被ばくの差」は出ると思う。

空気の中に、ほとんど「物質としては捉えられない『核』が浮遊している」という状況ほど恐ろしいものはない。

「被ばくなんてCTとたいして変わらない」とかいう詭弁が通用する次元ではない。放射線が身体を通り過ぎるのではなく、体内に放射能核種がダイレクトに入ってくるという、人類がそう簡単には体験することのない状態なのだ。

だから『屋内退避』『雨戸を閉める』『換気扇を回さない』『マスクをする』『肌を露出しない』なんて原子力災害時の基本だし、NHKでさえ、3月12日にはそう言ってただろう。

「絶対に吸ってはいけない」「家の中に入れてはいけない」「身体に付着させてはいけない」ものが放射能であり、プルームこそが、もっとも簡単に身体に、家の中に、侵入する。

では、今の空間線量の元になっているガンマ線を出している放射性物質はどういう状態にあるか?

福島原発事故による土壌汚染は、大気中にあるものが延々と降り積もったというより、雨で一気に地表に落ちて、土壌沈着したもので、ベラルーシやウクライナの汚染より、さらに遠く離れた南ドイツの汚染に近い。(3月15日のプルームは一気に通り過ぎ、3月21日は雨で土壌沈着した)

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雨で落ちたセシウムを「ウェットポジション」と言うらしく、その時は水に溶けているから浮遊しにくくなっている。

つまり、空間線量は雨が降ったことで一気に上がるのだが、大気中の濃度は逆に低くなる。

(以下、日本分析センターの放射性物質大気中濃度と気象庁のデータを比較してみる。3月20日から21日は雨が降ってなかったので、大気中の濃度は高い。しかし、21-22日に雨が降ると大気中濃度が下がっている。不気味なのは、雨が弱まった3月23日に、ヨウ素の濃度が上がっていること。新たなプルームが来たということか?)

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さらに時間が経って放射性物質が地面に染み込むと、他の物質と結合するからますます再浮遊はしにくくなる。

そしてセシウムは水に溶けた状態で濃縮して行くから、局所的にホットスポットができる。

空間線量は何十倍にもなるが、これはいわば「ウェットポジション」のセシウムだから、吸い込むことはほとんどない。

僕もはっきりとは分からない。だけど、たぶん「核」として浮遊している状態がもっとも危険であり、それが水分子なり他の分子と結合すると、性質がむしろ「物質」に近くなるのではないか?と思うのだ。

だからこの段階で問題になる内部被ばくは呼吸によるものではなく、その土壌中のセシウムを吸い上げた作物を食べることによるものだから、今は食品に最大の注意を払わなければならない。

もちろん「空間線量が高くても、汚染なんてたいしたことない」とか言うつもりは全くない。

原発事故から1年5ヶ月経っても、関東の空間線量は平常時の4、5倍はあるだろう。

それはもう建物の中も外も変わらないし、場所によっては数十倍になっているような吹き溜まりもあるだろう。

それが24時間365日だ。校庭で遊ぶ子どもは、ガンマ線に加えて最大1m飛ぶベータ線を肌に受けている。

ベータ線は皮膚の表面で止まるなどと言うが、これも嘘で、本当は真皮にまで達する

その環境はやっぱり「放射能汚染」されていると思う。

だから、僕たちは関東を離れた。

ただ、現段階では「一番恐ろしいプルームから放射能を吸い込むような内部被ばくの恐れはほとんどないだろう」と言っているだけだ。

しかし、日本分析センターの放射性物質の降下物測定を見ると、

2012/4/2 ~ 2012/4/9 セシウム134=23 セシウム137=34
2012/7/9 ~ 2012/7/17 セシウム134=26 セシウム137=44
2012/7/30 ~ 2012/8/6 セシウム134=16 セシウム137=24

と最近になってもまだ出ている。これは単位がメガベクレル/平方kmだから、セシウム合算で50〜70ベクレル/平方メートルぐらい時々降り積もっているのだ。

しかし大気浮遊じんは0だから、一体それはどこから飛んで来たのか?と思う。

大気中では検出されなくても、それが一週間野ざらしになった検出器に堆積すると、検出されるのだろう。

たぶんホコリにくっついているんだろうから、プルームとは別だとは思う。

それが風で地面から舞い上がったのか、焼却場から出ているのか、あるいは福島から飛んで来たのか分からない。

しかし未だに、関東で「時折、うっすらと、検出限界以下で」放射性物質は舞っているのだ。

だから、妻の言ったことに照らして言えば、

「空間線量が高いから、常に呼吸で内部被ばくするというわけではない」が、

「空間線量が高い場所は、セシウムの再浮遊が起きて、吸い込む可能性がある」

ということだろう。

これを爆発直後のプルームと比較して「たいしたことない」って思うなら、勝手に吸い込めばいいと思う。

もうタバコ100本吸ったからあと1本ぐらい変わらないと言うなら吸えばいい。

僕は少なくとも自分の子どもには吸い込ませない。

そのためにやれることはやる。



反原発を勧めるための覚え書き [被曝]

人は他人に言われたことをやるのが嫌なのだ。

人に指示されたくない。

それは大人も子どもも一緒で、

例えば3、4歳の子どもに「○○ちゃん、お片づけしなさい!」なんて言おうものなら、

素直に片付けるどころか、とたんにぶっ散らかしたりする。

(この場合、命令した方が悪いのに、それに歯向かった子どもを『しつけ』と称して引っぱたいたりさらに激昂して『服従』させる人がいる。そして無理矢理『良い子』に仕立てるわけだが、その鬱屈した『恨み』が10年後思春期に家庭内暴力として爆発することもある)

例えば妻が夫に「これ片付けてよ」とか言う。

夫が「今やるよ」と答えていつまでもやらない。妻がキレて「ちょっとさっきから何回も言ってるでしょう?何でやらないの!?」なんて言うと、「あああ!だから今からやろうと思ってたのに!もうやる気なくなった!」と夫の方が逆切れする。

おかしな話だ。

おそらく自分1人だったら、気が向いた時にすんなり片付けて、それで終わりだろう。

「命令された」というだけで、まるで自分が操られているような気になって、それで「やりたくなくなる」。

逆に、「自分から始めた」ことはいつまでも徹底的にやったりする。

そんな時に、「いつまでやってるの!こっち手伝ってよ!」などと怒鳴られたりしたら、今度は「絶対にやめない」。もうたいしてやりたくもないのに、ひたすらに「やめない」。

こうなってくると、もう「やりたい」とか「やりたくない」とかの主体的な意志の問題よりも、ただ他人に対して自分の「自律性」を示すために「意地を張っている」だけとも言える。

ある意味「かすかな自由」を感じているんだと思う。

だけど、こういう小さな意地や反抗が、意外に自分の一生の傾向を決めることだってある。

「あの時あの人にこう言われたから今の自分がある」なんてそういう例だと思う(たぶん、『占い』なんかも、親とか夫とか言われるのではなく、『第三者の助言』であることが重要なのだ)。

そうやってずっとさかのぼっていくと、「自分のやりたいこと」なんて、元々どこからやって来たのか、結構曖昧だ。たまたま何かの拍子に自分の中に入り込んだ「他人の欲望」だったり、反面教師と思いながら、結局一番大きい影響を与えているのが自分の親の価値観だったりする。

だからみんなアイデンティティーに悩む。だって、「自分の意志」なのか「他人が自分に望んでること」なのか、そんな区別なかなか付かないからだ。

いずれにせよ、そんな意志の混濁状態があって、「人に言われる」とか「人に指図される」なんて言うのは学校や会社の中だけで十分だから、それ以外の日常では、できれば何でも「自分の意志」で始めたい。

それが「正しい」とか「正しくない」とかよりも、「自分で始める」ことが重要なのだ。

だから、例え「放射能を気にする」ということが「正しい」ことだとしても、それを「他人から主張される」と、

自分がそれを知らなければ知らないほど、人から「自分と子どもの命にかかわることなのに、おまえはそんなことも知らないのか?」と言われて、バカにされたような気分になる。同時にそれを知らなかったせいでまるで「君たち死ぬよ」と告知を受けたような感じになる。

カチンと来て、何とか「今までの無知な自分」を正当化して「自分を立て直そう」とする。「放射能は危険」と御丁寧に「教えてくれた」「上から目線」の相手の「あら探し」を始める。すると案外簡単に「自然放射線と変わらない」とか「レントゲンと一緒」とか「体内カリウム4000ベクレル」とか「バナナ食って内部被ばくしてる」とか、反論に持ってこいの素材がテレビから新聞からうじゃうじゃ見つかる。それにどうも「死ぬのは10万人に1人ぐらいで、他の死因と区別がつかない」らしい。

「なんだ。思ったよりたいしたことないじゃないか」

と、一時的にゆらいだ「自律性」を取り戻すために、反撃に転じる。

放射能が危険か危険じゃないかよりも、ただ他人に言われたのが気に入らないのだ。

そうなるともう手に負えない。ある種「精神のリバウンド現象」みたいなのが起きて、相手の揚げ足を取れば取るほど、「自己が確立」していく「悦び」を覚える。

とにかく相手を打ち負かす。そうすれば「自分」を取り戻せる。

おまえのせいで、俺は一瞬自分を責め、自信を失いかかった。だけど、何だ、そんなおまえだって「たいして分かってない」じゃないか。俺とたいして変わらなかったじゃないか。それなのに、俺のことを「見下し」やがって。そのせいで俺はあやうく自分を見失いそうになった。俺は間違っていたかもしれないが、おまえだって間違っているんだ。それなのに「おまえの正しさ」を俺に押しつけやがって。結局おまえだって、そうやって他人を利用して、「自分の正しさ」を確認しようとしていただけじゃないか。「偽善者」め。それなら今度は逆に俺がおまえを利用してやる。おまえの正しさなんていい加減なもんだ。それで正しいって言うなら、俺だって正しいさ。それに見てみろ世の中を。おまえと同じ考えのやつがどれだけいる?みんな俺の方と一緒じゃないか。それどころかその道の偉い先生たちが何十年もかかって導きだした「結論」があるんだ。それを「正しさ」と呼ばないで何が正しいと言う?小出だってバズビーだってバンダジェフスキーだって世間には認められてないだろう?単なる「エゴ」の垂れ流しだ。悔しかったらICRP勧告書き換えてみろってんだ。正しいってのは「みんなが正しいって思ってること」なんだ。世界とその歴史が証明するもの、それこそが正真正銘の「正しさ」なんだよ!

こうやって決着がつく。

相手は説得されるどころか逆に意固地になって、「放射能たいしたことない」という思いは以前よりも強くなった。

単に「気にも止めていなかったこと」が、今回の件でむしろ「積極的に気にしないこと」として自分の意志で選択され、その結果それがアイデンティティーの一部となってしまった。

「放射能を気にするアイツの言いなりになってたまるか。放射能を気にしない私こそが、私なのだ!

モヤモヤと漂っていた「お気楽な気分」が、「カチンときたせいで」、反動的な「意志」としてギュッと収縮し、自我になった。

あなたが「望んだもの」は退けられ、あなたが「望まないもの」が選ばれた。

もともとどちらでも良かったのだ。

ところが「あなたが望んだ」まさにそのせいで、「あなたが望まないもの」が重要な意味を持ってしまう。

つまり、「片付けろ」と言われたから「ぶっ散らかした」のだ。

、、、ミッションは失敗に終わった。

だから、「放射能の話」をする時は気をつけた方がいい。

「なんで片付けないの!まったく!」

そう言わずに、

「一緒にお片付けしようか?良い子だねー」

と言わなければならない。

(いやはや、何とも、、、人間というこの「幼稚な存在」、、、。)

僕だったらまずこう言う。

「10万人に1人ぐらいガンになったり、それ以外でも心臓病とかになったりする。俺たちは30年ぐらいで死んでもいいけど、子どもはまだ30歳とか40歳だからなあ。セシウムを100食ったとして99は出てくけど、1残ってそれが蓄積されるからね。俺はなるべく気をつけるよ」(『絶対』とかいう言葉を使わない。これはあくまで『さぐり』だから)

それで相手の反応を見る。

「10万人に1人ぐらい気にしてもしょうがないだろう?子どもだってまさか大丈夫だよ」

こう答える人には何を言っても無駄だと思う。

僕がここで「気をつけよう」と言っているのは、日本が国を上げて容認しているその「10万人に1人の犠牲」に対してであって、それ以外に理由はない。

それを相手は「気にしない(容認する)」と答えたのである。

そして僕は「10万人に1人の確率」以外、その不安を証明するデータも情報も持っていないのだから、これ以上相手を説得しようもなく、その一言で結論は出ている。

そこで(前から言ってることだけど)もう一つ質問してもいい。

「日本に放射能のせいで『人が住めない場所』ができちゃったね」

相手はどう答えるか。

「まあ、かわいそうだけどしょうがないよね」

こう来たらもうそこで話は終わりだ。

「絶対に許せない。起きてはいけないことが起きた。これからまた別な場所で同じことが起きれば、自分だって強制避難しなければならなくなる」

せめてこれぐらいの想像力を働かせて欲しい。そういう目で今回の原発事故を見ていないのならば、これから反原発の立場を貫くのは難しいだろう。

「しょうがない」で片付けられる規模の問題ではない

僕は、まずそこを納得してもらいたい。

だから、結局は確率的にしか語れない「放射能の危険」を訴えて、反原発的イデオロギーで人間の傾向を無理矢理ねじ曲げて一気に全体を変えようとするよりは、今回の「事件」で世界のあり方を考え直した人が、それぞれ「自律」して、繋がって、緩やかな「コミュニティー」を作り、その態度を身近なところから拡大させていった方が、これからの脱原発にとっても有効であるように思う。

あまり良い例えではないが、みんなが占い師みたいに、他人に語りかければいいのだ。






年間被ばく限度量1ミリシーベルト [被曝]

日本国憲法第二十五条

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

今、公衆衛生は低下、減衰してます。

ところで、よく言われる年間被ばく限度1ミリシーベルトは法律で決められている、というのは、どこに書いてあるのか。調べると、ややこしい。

原子力基本法

第20条 - 放射線障害の防止
放射性物質及び放射線発生装置に係る製造、販売、使用、測定等に対する規制その他保安及び保健上の措置を法律で定める

その法律がこっちらしい。

放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律施行規則

第十二条の三  文部科学大臣又は登録認証機関は、設計認証又は特定設計認証の申請があつた場合において、当該申請に係る設計並びに使用、保管及び運搬に関する条件が、それぞれ文部科学省令で定める放射線に係る安全性の確保のための技術上の基準に適合していると認めるときは、設計認証又は特定設計認証をしなければならない

何かよくわからないな。

第十四条の三  放射性同位元素装備機器の放射線障害防止のための機能を有する部分の設計(当該設計に合致することの確認の方法を含む。)に係る法第十二条の三第一項 の文部科学省令で定める技術上の基準は、次のとおりとする。
一  申請に係る放射性同位元素装備機器の放射線障害防止のための機能を有する部分の設計が次に掲げる基準に適合していることが、その試作品により確認されていること。
イ 設計認証の申請に係る放射性同位元素装備機器にあつては、当該放射性同位元素装備機器を、当該申請に係る使用、保管及び運搬に関する条件に従つて取り扱うとき、外部被ばく(外部放射線に被ばくすることをいう。以下同じ。)による線量が、文部科学大臣が定める線量限度以下であること

とあるから、別の文部科学省の書類を見なければならない。

文部科学省「設計認証等に関する技術上の基準に係る細目を定める告示」

第一条(外部被ばくに係る線量限度)
放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律施行規則 (以下「規則」という。)第十四条の三第一項第一号イの文部科学大臣が定める線量限度は、実効線量が一年間につき一ミリシーベルトとする

するとやっぱり書いてあった。

法律で決めてあったのだ。(しかし一般公衆被ばく限度というのはまた別にあるのかもしれない)

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