放射能てんでんこ [雑感]

2011年3月11日、地震があった時、僕のいた場所も恐ろしい揺れだったけど、建物が倒壊するほどではなかったので、正直「ああ、助かった」と思った。そして「震源はどこだ?」と東北の両親のことを心配した。

妻の働いてる場所も、子どもの幼稚園も、10kmぐらい離れたところにあったのだが、似たような揺れだと思ったからそれほど心配しなかったし、一旦自宅に戻って幼稚園に向かったのは1時間後ぐらいだ。

しかし、三陸での津波の被害を考えると、まず真っ先に子どもを迎えに行くべきだったと反省している。

防災の教え、命救った 釜石「津波てんでんこ」生かす 小中学生、高台へ一目散(北海道新聞 2011/03/27 06:55)

津波からの避難判断、防災科教材に 兵庫・舞子高(神戸新聞 2011/04/30 15:20)

この「津波」の話には学ぶべきことがたくさんある。そして、感動的ですらある。

釜石市は昭和三陸地震(1933年=昭和8年)やチリ地震(60年)などの津波で大きな被害を受けた。市内の各小中学校は津波を経験した高齢者の講演会などを開いたり、当時の映像を見せたりして津波の恐ろしさを教えてきた。釜石東中の場合、平均して週1時間を防災教育に充て、年3回避難訓練を行っている

生徒は毎年、神戸市で防災の取り組みを発表する「ぼうさい甲子園」に参加し、2年連続で優秀賞を受賞している。

要するに、過去の津波の教訓を絶対に忘れずに、いつ役に立つかも分からない「訓練」を毎年繰り返して来た結果、この中学生たちは、その「万に一つの」災害時に、全員津波を逃れることができた

この「全員」ということに特に注目してほしい。

しかも、ただ逃げただけではない。

地震が起きると、生徒は避難口確保のために窓を開け、机の下にもぐる。揺れが収まった後、「自主的に」校庭に飛び出し、

先生の指示も待たずに」高台に向かって走り出す。

そこへ隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。

(中学3年生岡田茉南花さんの話。『小学生の手を引っ張って、泣きながら高台を目指した。すごい速さで津波が迫り家がのまれるのが見え、必死で走った』)

子供たちは普段の防災訓練で使っている高台へ向かう。

しかしそこで生徒の中から「土砂崩れが危ない」の声が上がり、さらに高台の福祉施設へ。

避難を終えた途端、眼下に津波が見えたため、生徒らは小学生の手を引き施設の高齢者を抱えながら、より高いところにある峠を目指して駆けた

学校から1キロも走っていた

教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人に加えて、施設の高齢者全員の無事が確認できた。

その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた

これは「奇跡」と呼んでいいだろうが、それは偶然起きたわけではない。

訓練、過去の津波の教訓、先生の指導、そして生徒の「自主判断」が、必然的に呼び起こしたものだ。

彼らは、自治体が作る防災マニュアルやハザードマップを思い描いて、「ここなら安全でしょう?」などとは思わなかった。

「マニュアルなんて役に立たない。自分で判断しろ」つまり「津波てんでんこ」の教えが、生徒に「染み付いていた」んだと思う。

これは結果論だし、「勝手に判断」してパニックになる場合だってある。防災マニュアル通りに避難して救われる人だっているだろう。

だから、それを「運が良かったんだよ」と切り捨てることができる人は、人に言われたことを信じて「運任せ」にすればいいと思う。

それでも、助かる可能性はある。

しかし「全員が救われた」理由を良く考えた方がいい。

それは個々の主体性なしにはあり得なかっただろう。

生き残るのなんてどうせ運だから、どうすることもできない、まあなるようになるさ、なんて最初から諦めて努力しない人は、「確率論」に身を委ねることで、自分の怠け癖を肯定する

しかし、実際にそこに「死」が迫って来たら、それでも「確率論」を唱えていられるだろうか? おそらく、パニックを起こして逃げ惑うだろう。

ではこの中学校の先生と生徒はどうしたか?

「なるようにしかならない」なんて諦めていたか?

逆だ。

「全員」助かろうとした

「全員生き残るために」全力を尽くした。

そしてそのためにはそれぞれが自力で逃げるしかないから、日頃の「訓練」でその「主体性」を鍛えた。

それが、全体の生存確率を限りなく100%に近づけ、結果、たしかに「全員生き残った」のだ。

ここに集約された人間の「生きる」エネルギーを考えてほしい。

数字なんてどこにも入り込んでないだろう。

「てんでんこ」という言葉は、その定義にあるように「自分だけが生き残るために、各自勝手に逃げる」という意味ではないと思う。

むしろ、「全員助かる」ために、個が最大限に主体性を発揮するということだ。

覆って、放射能はどうだ?

「放射能の恐ろしさ」を伝える話に、人は耳を傾けているだろうか? 国や東電が垂れ流している「放射能ハザードマップ」や「内部被ばくマニュアル」を無批判に信用していないだろうか? 「みんな大丈夫だと思ってるんだから大丈夫だろう」と呑気に構えていないだろうか?

そして繰り返される「偉い人が決めた」「科学的データに基づいた」非主体的な言葉

「どうせ人は死ぬ」「どうせ3人に1人はガンになる」「どうせ交通事故のリスクと変わらない」「病気になったって原因の特定はできない」「全員死ぬ訳じゃない」「1人2人死んでもしょうがない

もうネガティブな諦念に呪い殺されそうにならないか?

だから逆なのだ。

「生きる」「生きたい」「絶対に生きてやる」

その直観に従い、自分と家族「全員」の命を守るために、誰かの指示など待たずに、緊急事態の今こそ、日々主体的に判断するべきだ。

そうすれば、きっとより多くの人が健康でいられるだろう。

「放射能てんでんこ」を僕はそう解釈する。



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