通りすがりの論理 [雑感]
反原発系ブログのコメント欄を見てると、いわゆる「荒らし」とは微妙に異なり、「通りすがり」と称して、「原発推進論・容認論」「放射能安全論」を妙に「真面目に」展開する人間がいる。
最初は「いずれ原発は段階的に廃止すべきですが」とか「あなたのおっしゃっていることは分かりますが、僕の話も聞いてください」みたいに、礼儀正しく切り出してくる。
そして「感情的にならずに、論理的に考えれば、、、」と話が進み、「原発を止めれば電気代が上がる」とか「国内産業が空洞化する」とか「CO2が」とか、あるいは「戦争よりも原発のリスクを選んだ」とか、もっともらしい、そして聞き飽きた「理由」を一通り展開する。
アルバイト工作員なのか単なるおせっかいなのか分からないが、もしかしたら顔が見えないのをいいことに、適当に反原発を「とっちめて」憂さ晴らししてるだけなのかもしれない。
「また工作員か?」「何でわざわざこんなところでコメントするんだ?」と誰かが突っ込む。
するとだんだんくだけた調子になって来て、
「こっちが『議論』しようとしているのに、人の話を聞こうともしない。工作員でも何でもないのに見ず知らずの他人を『安全デマ』とか『バカ』とか口汚くののしるような人間に、反原発などできるはずがない」とか「あなたたちは(と誰か一人の発言を十把一絡げにして)、いつもそうだ。こっちが『論理的に』話そうとしてるのに、すぐ感情的になって、まともに議論もできない。このブログはためになるが、コメントをしてる人間は程度が低い。カルトだ」とか、罵倒し始める。
そういうブログ荒らしのマニュアルみたいなのがあるのだろうか?
この手のコメントはあまり前後の文脈など関係なく、ふと思いついたように書き込まれる。
おそらく彼らはブログ自体をまともに読んでいないし、何か気に入らない記事を探し出して、機械的に突っかかってるに過ぎないのだろう。
だから「通りすがり」と名乗るわけだ。
ちょっと通りかかってチラ見しただけだが、「俺は頭がいいから」あっと言う間ににその主張の「論理的な間違い」を見切ったので、老婆心からそれを親切に指摘してあげているつもりらしい。
「あなたが反原発であるのはただ『感情的に反発しているだけ』だから、私のように『論理的に』『総合的に』『全体として』判断すれば、放射能なんてそこまで恐がる必要はないし、『全原発即時廃炉』なんて非現実的、分かるでしょう?」
そんな「正しいのは常に俺だけだ」みたいなぶしつけな一言で「議論」が成立するはずもないから、やがて罵り合いはエスカレートする。
まったくの一方通行で、「インタラクティブ」とはほど遠い。
結局ネットの「ヴァーチャルな」コミュニケーションなど幻影で、最初から破綻してるのだ。
現実世界で、あいさつもなしに瞬間的な言葉のやり取りでもって「事態が動く」ことなどないだろう。時には向かい合った相手の「感情」にも配慮した「気遣い」や「言い方」が、話の内容以上に重要になる。
そして、ブログというのも、ある意味、一つのコミュニティーみたいなもので、そこにはブログ主と同じ思い、「感情」を共有した人々が集まっているわけで、コメントする人たちの間には、時間をかけてそれなりの「空気」みたいなのが出来上がってくる。
彼らが気に入らないのは、その馴れ合いの感情的な「空気」なのだ。
気の合う仲間同士集まって何が悪い?と思うが、彼らはそれが許せない。
なぜか?
彼らはおそらく、ネット空間と自分の脳内空間を混同してしまって、ネットを何か、「論理と客観性のみで構成された知的理想郷」のように、自分の思考様式に合わせて都合よく解釈している。
だから、その自分が考える通りに、ネットはあらゆる対立する意見に対して平等に開かれていなければならない。
「閉じたコミュニティー」を作ることはその理念に反する。すべてはオープンに、感情を排して、明確な言葉でやり取りされなければならない。
そうすれば、現実世界と比べ物にならないぐらいのスピードでお互いを理解し、やがて万人にとって最適な真実に至るはずだ。
そうだろう?俺のどこが間違っている?
「それなのに、、、」と彼らは言う。
「それなのにこいつらと来たら、コソコソと徒党を組んで、陰で一方的にただ感情で原発の悪口言って、放射能デマ垂れ流しやがって、おまえらみたいなのが逆に健全な段階的脱原発をはばんでいるんだ。それに普通の人(あるいはB層)が読んで不必要に不安になったらどうするんだ? おまえら何も分かってない。ブログ主だって本当は俺と同じ『正しい情報』を望んでいるはずなのに、このままじゃダメになってしまう。だから、俺が言わなければ、、、」
奇妙な正義感に駆られて、その実ただ「俺」を押し付けんがために、一方的に「説得」しにかかる。
当然誰も耳を貸さない。
なんでおまえらは俺の言うことが分からないんだ? おまえらはバカか? 論理的に物事が考えられないのか?
そしてぶち切れ、ストーカーじみた攻撃を執拗に仕掛け始める。
おいおい、と思う。
そんな「開かれた世界」、おまえのその「閉じた頭の中」にしかないだろう。
世界中が俺の頭の中に入って、俺の論理で話が通じれば、この世界は全て丸く収まる、とでも言いたいのか。
(ネットを介して、俺の頭とみんなの頭が論理でL.C.L.みたいに溶け合って、か? 人類補完計画じゃあるまいし)
だが、むしろそれは言い訳に過ぎない。主たる目的は「気に入らない相手の怒りを引き出して、それを根拠に己の憂さを晴らすこと」なのだから、そのために当の自分をも欺く「猿芝居」を打って、最初から開くつもりもない議論を一方的にふっかけてくるのだ。
(悲しいほど非生産的なニヒリズムだが、ある種の自傷行為と同じで、絶望の際で生を確認しているのだろう)
-------
ところで、この自己完結型の「論理」は、官僚や原子力推進派の思考と似ている。
現実に原発が爆発してなお、頭の中の「安心・安全」を胸を張って振りまくことができる彼らは、ネットどころか「この世の通りすがり」なのだろう。
最初は「いずれ原発は段階的に廃止すべきですが」とか「あなたのおっしゃっていることは分かりますが、僕の話も聞いてください」みたいに、礼儀正しく切り出してくる。
そして「感情的にならずに、論理的に考えれば、、、」と話が進み、「原発を止めれば電気代が上がる」とか「国内産業が空洞化する」とか「CO2が」とか、あるいは「戦争よりも原発のリスクを選んだ」とか、もっともらしい、そして聞き飽きた「理由」を一通り展開する。
アルバイト工作員なのか単なるおせっかいなのか分からないが、もしかしたら顔が見えないのをいいことに、適当に反原発を「とっちめて」憂さ晴らししてるだけなのかもしれない。
「また工作員か?」「何でわざわざこんなところでコメントするんだ?」と誰かが突っ込む。
するとだんだんくだけた調子になって来て、
「こっちが『議論』しようとしているのに、人の話を聞こうともしない。工作員でも何でもないのに見ず知らずの他人を『安全デマ』とか『バカ』とか口汚くののしるような人間に、反原発などできるはずがない」とか「あなたたちは(と誰か一人の発言を十把一絡げにして)、いつもそうだ。こっちが『論理的に』話そうとしてるのに、すぐ感情的になって、まともに議論もできない。このブログはためになるが、コメントをしてる人間は程度が低い。カルトだ」とか、罵倒し始める。
そういうブログ荒らしのマニュアルみたいなのがあるのだろうか?
この手のコメントはあまり前後の文脈など関係なく、ふと思いついたように書き込まれる。
おそらく彼らはブログ自体をまともに読んでいないし、何か気に入らない記事を探し出して、機械的に突っかかってるに過ぎないのだろう。
だから「通りすがり」と名乗るわけだ。
ちょっと通りかかってチラ見しただけだが、「俺は頭がいいから」あっと言う間ににその主張の「論理的な間違い」を見切ったので、老婆心からそれを親切に指摘してあげているつもりらしい。
「あなたが反原発であるのはただ『感情的に反発しているだけ』だから、私のように『論理的に』『総合的に』『全体として』判断すれば、放射能なんてそこまで恐がる必要はないし、『全原発即時廃炉』なんて非現実的、分かるでしょう?」
そんな「正しいのは常に俺だけだ」みたいなぶしつけな一言で「議論」が成立するはずもないから、やがて罵り合いはエスカレートする。
まったくの一方通行で、「インタラクティブ」とはほど遠い。
結局ネットの「ヴァーチャルな」コミュニケーションなど幻影で、最初から破綻してるのだ。
現実世界で、あいさつもなしに瞬間的な言葉のやり取りでもって「事態が動く」ことなどないだろう。時には向かい合った相手の「感情」にも配慮した「気遣い」や「言い方」が、話の内容以上に重要になる。
そして、ブログというのも、ある意味、一つのコミュニティーみたいなもので、そこにはブログ主と同じ思い、「感情」を共有した人々が集まっているわけで、コメントする人たちの間には、時間をかけてそれなりの「空気」みたいなのが出来上がってくる。
彼らが気に入らないのは、その馴れ合いの感情的な「空気」なのだ。
気の合う仲間同士集まって何が悪い?と思うが、彼らはそれが許せない。
なぜか?
彼らはおそらく、ネット空間と自分の脳内空間を混同してしまって、ネットを何か、「論理と客観性のみで構成された知的理想郷」のように、自分の思考様式に合わせて都合よく解釈している。
だから、その自分が考える通りに、ネットはあらゆる対立する意見に対して平等に開かれていなければならない。
「閉じたコミュニティー」を作ることはその理念に反する。すべてはオープンに、感情を排して、明確な言葉でやり取りされなければならない。
そうすれば、現実世界と比べ物にならないぐらいのスピードでお互いを理解し、やがて万人にとって最適な真実に至るはずだ。
そうだろう?俺のどこが間違っている?
「それなのに、、、」と彼らは言う。
「それなのにこいつらと来たら、コソコソと徒党を組んで、陰で一方的にただ感情で原発の悪口言って、放射能デマ垂れ流しやがって、おまえらみたいなのが逆に健全な段階的脱原発をはばんでいるんだ。それに普通の人(あるいはB層)が読んで不必要に不安になったらどうするんだ? おまえら何も分かってない。ブログ主だって本当は俺と同じ『正しい情報』を望んでいるはずなのに、このままじゃダメになってしまう。だから、俺が言わなければ、、、」
奇妙な正義感に駆られて、その実ただ「俺」を押し付けんがために、一方的に「説得」しにかかる。
当然誰も耳を貸さない。
なんでおまえらは俺の言うことが分からないんだ? おまえらはバカか? 論理的に物事が考えられないのか?
そしてぶち切れ、ストーカーじみた攻撃を執拗に仕掛け始める。
おいおい、と思う。
そんな「開かれた世界」、おまえのその「閉じた頭の中」にしかないだろう。
世界中が俺の頭の中に入って、俺の論理で話が通じれば、この世界は全て丸く収まる、とでも言いたいのか。
(ネットを介して、俺の頭とみんなの頭が論理でL.C.L.みたいに溶け合って、か? 人類補完計画じゃあるまいし)
だが、むしろそれは言い訳に過ぎない。主たる目的は「気に入らない相手の怒りを引き出して、それを根拠に己の憂さを晴らすこと」なのだから、そのために当の自分をも欺く「猿芝居」を打って、最初から開くつもりもない議論を一方的にふっかけてくるのだ。
(悲しいほど非生産的なニヒリズムだが、ある種の自傷行為と同じで、絶望の際で生を確認しているのだろう)
-------
ところで、この自己完結型の「論理」は、官僚や原子力推進派の思考と似ている。
現実に原発が爆発してなお、頭の中の「安心・安全」を胸を張って振りまくことができる彼らは、ネットどころか「この世の通りすがり」なのだろう。
2013-02-04 04:34
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