子供と幸福 [雑感]

あるブログで(男性のブログ主だが)、

「俺は(放射能から)子供を守りたいだけだ」

というような記事を書いていた。

「なるほど」としか僕は思わなかったが、それに対して「ネット何とか」みたいな人たちが総攻撃をしていた。

その中で、ちょっと紳士っぽく振る舞ってる人がいて、僕がいつも想定しているいわゆる保守・容認派の「本音」みたいなのが惜しげもなく披露されてて、ちょっとうれしくなってしまったので引用・要約してみる。

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「子供を守る」とは立派な志だが、保守と左翼は観点が違う。
一概には言えないが、
保守は国家国益の観点
左翼は個人私益の観点
がベースにある。
要するに「子供を守る」考え方が違うから議論は平行線。
あなたやあなたの家族が平穏無事に暮らしていられるのも、社会インフラと国家の安定があってこそ。
自分の子供を守っていたらいつの間にか国家がボロボロでは後の祭り
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いやあ分かりやすい。あまりに分かりやすすぎて、多くの人が「そんな単純なものじゃないだろう」と反論したくなるかもしれない。

だけど国家観や人間観なんてのは、一般人にしてみれば「大それたもの」で、保守的だろうが左翼的だろうが、意外に「ざっくりと」していて、「何となくそう考えている」ぐらいの人が多いと思う。

おそらく元々、家庭環境や成長する過程で何らかの影響を受けて、頭の中に漠然とした思考の「根っこ」が出来上がっていて、それが例えば原発事故のような破局的な出来事に遭遇して自分の人生観が問われた時に、その考え方の「方向性」や「傾向」に準じて、急激に一つの思想へと「収れん」する。

「私は命が一番大切」
「いや、そうは言っても金がなければどうにもならない」

みたいな思い付きレベルから、だんだん情報を集めていくうちに、イモヅル式に、

方や、原発事故は史上最悪>放射能危険>子供>家族>命>反原発>小出先生>ECRR

方や、原発事故たいしたことなかった>放射能安全>社会的自己>国民>国家>経済>原発容認>中川先生>ICRP

みたいに、信用する識者もデータも、とにかくその出発点を補強するように二股に分かれて、しまいには全く相容れない人生観を「むき出し」にしてしまう。

こうなるともうお互い理解できない。

反原発の人が「なぜ命より経済なんだ?理解できない」と言うと、

このコメントの人のように「なぜ経済より命なんだ?理解できない」と言うのだ。

「命なかったらお金なんて無意味だろう」と言うと

「お金がなかったら命だって守れないだろう」

「子供を守らなかったら国家だって潰れてしまうだろう」と言うと、

「国家が潰れたら子供だって守れないだろう」

「卵が先だ」

「いや鶏が先だ」

と禅問答みたくなる。

でも、僕なりにこの対立を俯瞰すると、

これは男の「観念論」で、観念である限り、ディベートと同じで知識や情報の多寡によって「勝ち負け」なんてどうにでもなる。

それにネット上では相手が誰かも分からないのだから、ますますその観念は実体を伴わずに空転する。

(そして僕も男で、ネット上の議論をさらに『俯瞰』しようと試みているわけだから、これもまた観念論なのだが)

しかし、そこでこのコメント者は「決着」を付けようとして、「国益」と「私益」を持ち出している。「ベネフィット」の観点から論じる時点で、それはすでに『男の視点』で、自分の土俵に相手を引き込もうとしているんだと思う。

つまり、「あらゆる物事は、『利益』を基準に判断される」という経済原則みたいなものを、本当に「あらゆる物事」に適用可能であると、信じている。

これは資本主義の一つの「信仰」なのだが、現実的に今の世の中男性中心社会で、そこでは効力を持つから、「それのどこが間違っている?」と全く疑う機会を持たない。

でも子供を守るのは「ベネフィット」ではない

しかし、そう言ってみたところで、この手の「男」には「全く分からない」

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今ふと思い出したのは、もう一つどこか反原発系のサイトのコメント欄で、

「自分の子供は自分で守る」みたいにある女性が発言したら、

海外在住とかいう妙に冷めた男が、

「子供が失われたら、またどんどん産めばいいんです」

とこれまた教え諭すように言う。

「おまえの一体『どこ』から、何をどうやって産み出すんだ?」

と突っ込みを入れたくなってしまった。

他人事どころかまるで「神」の視点のように語る男というのはいるし、そんなのはお母さん方にコメントでボコボコにされてるんだけど、そういう人はその人の「観念」「脳内」では、本気でそう思っているんだと思う。

「え?俺のどこ間違ってるの?正論言ってるよね?」って感じだろう。

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この部分を読み返して、ふと思ったのは、「神」というのは一つの観念であり、子供を産むのは観念ではないんだと思う。神が何かを「産み出す」なんてことはできない。それは神を「擬人化」している。子供を産み出すのは「女」にしかできない。それを一般論化してしまい、「産めよ増やせよ」なんて言えること自体が、「超越論的な」「男」の視点なんだ。
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もう一つ思い出した。

徴兵制か何かを巡る議論で、「命が大切」みたいに語る人に対して誰か(これは女性だった)が、

「命も大切だが、それ以上に重要なものがある。愛国心=国家>人間なのです」

と書いていた。

こういう等号、不等号でもって、「記号」として「命」や「人間」を捉えられてしまう人というのは、もう頭の中がそれで決定しているから、どんなに語っても、その記号自体を粉砕することはできない。

「そうだと言ったら、そうなの!」としかならないだろう。

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たぶん、官僚や政治家や東電社員もそれぐらい頭が肉体を離れて、はるか天空からまるでゲームのように国家や企業の「戦略」を練っている。もしくは、外科手術か精密工学の「オペレーション」のように、自分が一つの機械として作動することに酔いしれている。

「情熱を胸に秘めながら、その己をすら客体視するこの冷徹かつ精巧な俺の『理性』」

とでも思っているのだろう。

(こうやって多くの男は自分の『お勉強のできる頭の良さ』である『悟性』を、軽々しく『理性』と勘違いしているが、それは理性を見下している。理性はもっと高貴で、人間の認識の頂点に君臨し、早々手に入れられるものではないーーーそう言いたいところだが、本当のところは、人はまず最初に『理性』を手に入れている。そしてそれを悟性で抑え付けている。『理性』が恐いから。)

そこでは人も子供も出産も個人も全部数値や統計に変換されて、それを処理してコスト管理して業績を上げるっていうのが、もう人格そのものになっている。

むしろ、モニターの前の肉体を持つ自分なんか消し去って、資本主義ゲームの中のキャラクターに自己投影して、スコアを上げれば上げるほど、その才能は認められ、「社会的」には存在を肯定される。

そこではその価値を「正当化=justify」するのは、「利益=benefit」だけなんだ。

そして今の時代、男性女性関係なく、ほとんど全ての人間が、そのマネーゲームに参加せざるを得ないわけだから、その生き方のどこが悪い?資本主義以外に何がある?それが人間の作り出した究極の社会システムじゃないのか?きれいごと言って貧乏になってどうする?と思って自己肯定する人は多いのだ。

だけど、今僕たちが守ろうとしてる「子供」ってのは、やがて社会体の歯車の一つとしてカウントされることを必然と見做すような、そんな観念上の存在じゃないだろう。

本当に僕は、男だけれど、このことを口酸っぱくして何度でも言いたい。

「子供」ってのは、唯一無二なんだ。

女性にしてみれば自分が全身全霊かけて産んだ命で、それが一生のうちのある特別な時間に、二度と繰り返せないたった一度の経験として、その肉体に刻まれた記憶となって、もう何者にも代え難い「わが子」と共に、永遠に自己の内にあり続ける、そんな存在なんですよ。

「存在なんですよ」なんて言ったけど、正確には僕には「そういった存在ではなかろうか?」としか言いようがない。

この感覚はおそらく男には理解不能なものであろう、と僕は想像する。

そういった個人の内面的な価値を理解できないから、子供を未熟な社会的コマみたいに一般化して考えて、「また産めばいい」とか心ないことが言えるのだろう。

「放射脳は親のエゴを子供に押し付けている」
「社会のために喜んで自分を犠牲にする精神は、親が子供にしつけるもの」
「社会貢献によって子供の価値は測られる」

そういった反ー反原発派のよく聞く言葉も根っこは同じだ。

「社会的ルールこそが何よりも優先すべきもの」と教え込まれて来た自分の考えを「正しい」と思うためには、その同じ尺度で、自分の子供も他人の子供も比べて「優劣」を付けるような「社会」が必要だもの。

そういう「競争社会」がなくなったら困るし、それを良しとする自分を肯定できなくなる。

だから、その「社会」「公」に敵対する、「個」「私」を主張するような輩は全力で排除したい。

自分の子供の「価値」なんて測る必要などないと思うのだが、この人たちは「測りたい」。「測って数字にしないと分からない」、その価値が。

子供を愛するのに理由など必要ない。ただそのものとして、ありのままの全てが、肯定されているはずなのに、「愛するための理由」がほしい。

何か成績表みたいなのとか、習い事たくさんしてるとか、いい学校入ったとか、そういう「誰の目にも明らかな順番」や「賞状」がないと、子供を愛せないし、幸せと感じることができない。

なぜなら(ここが重要だが)、

「自分がそうだった」

(そうやって親に愛されてきた)から。

ここが僕にはまったく理解できない。

もちろん、そういう「競争心」っていうのは、それは人間のリビドーの表れだから、それ自体としては否定しない。むしろ社会を成立させるためには、絶対必要だと思う。

僕が言いたいのは、そういった「結果」や「ベネフィット」を基準にした価値判断が、「子供の価値」「子供を愛する心」とは根源的には無関係だと言うことだ。

そんなもの取り払って、ただただ、子供を愛すること。

それが冒頭のブログ主の「子供を守りたい」という言葉になるんだと思う。

母親や父親が唯一無二の存在として子供を絶対的に受け入れる時、子供もまた自己の存在を、自分の命を、自分が生を受けた意味を、全て肯定することができるわけだし、その無償の「愛」を享受することが、生の根源的なエネルギーの奔流となって、その死に至るまで自己を貫いていくだろう。

それはおそらく何者にも代え難い「幸福」なんだと思う。

本当はだから、人間の幸福ってのは無償なはずなんだ。

そして、その無償の幸福に対する悦びが、人を人との結び付きへと、他者への繋がりへと、社会へと、そして自らが強くあらんと欲し、弱者を慈しむことへと、無償に駆り立てて行く(これが本来の『絆』だろう)。

つまり、鼻の頭に「金(かね)」という人参ぶら下げて競争社会で他人を蹴落として成り上がって、その暁に手に入れる物質的豊かさなんてよりもはるか以前に、人はまず「幸福」でなければならないし、本来そうであるはずなのだ。

だから、ここで母親が言う「子供」ってのは、もう何にも増して、一度きりの自分の人生に与えられた(神が授けたもうた、と言ったっていい)純粋な結晶のごとき、「幸福そのもの」なんだ。

その幸福から出発して、それが永遠に続くように努力することが、本来「生きる」ことであるはずなのに(だから、そのために相互扶助システムである社会は構築される)、いつのまにか、その「社会システムのために」人が生きなければならないと強制される。

学校で、家庭で、繰り返し「教育」され、人々はそれを当たり前のこととして、あるいは「しょうがないこと」として、受け入れるようになる。

やがて男がそのシステムの全権を掌握すると、その「速やかな運営」のためには、この「母性」が合理性や効率化の邪魔になる(特に戦争において、個人的愛情など足枷にしかならない)。

だから、まずその「幸福」を奪って、人は生まれながらに不幸であるかのような錯覚を植え付けるのだ。

(これはキリスト教の『原罪』や性のタブー視にも繋がるだろう)

そして、人は幸福を勝ち取るために、社会的に成功し、その過程において自分を犠牲にしなければならないということを、まるで人間の「本性」だ、みたいに言い始める。

これこそ基本的人権に対する冒涜じゃないのか?

子供は幸福に「なる」のではない。

子供こそが「幸福」なのだ。



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