だんだん大人になる [育児]
子供はたしかに「大人になる」。
しかしある日突然大人になるわけでもない。
一体いつから大人になるのか?
そう考えるのも面倒なので、
「子供だって一人前の大人だ」
とか何とか、思いっきり端折って都合良く育児責任を放棄して幼年期から子供に抱え切れない「精神的重荷」を背負わせる親もいる(ネグレクト)。
正確には子供は「だんだん大人になる」のだが、この「だんだん」の部分に注意を払う大人は稀だと思う。
なぜなら、その推移、グラデーションの中に当の大人も入ってしまうから、威厳でもって子供を支配下に置こうとする親には都合が悪い。
混ざり加減は異なるが、自分の中には「子供」がいて、子供の中には「大人」がいる。
子育てを通じて親の中に残る「子供」はだんだん薄れていく。
子供の中の大半を占める「子供」はだんだん「大人」に入れ替わっていく。
そこには心的な相互作用があるのだから、そのインタラクションに即興的に反応できるか否かで親の才覚が問われる。
それができない(それを『楽しめない』と言ってもいい)親が自分を「一人前」として偽装する。
化けの皮がはがれるのが恐いから、子供の前で虚勢を張る。
マニュアルを読んで自己正当化を図る。
自分の不手際で子供が泣きわめくと、その落ち度を子供に押し付けるために怒る。
自分で自分に腹を立てながら怒りの矛先を子供に向けてストレス解消しているわけだし、
本人もうっすら気が付いているのだから申し訳ない気持ちに苛まされる。
にもかかわらずそれを続けるのはあまりに利己的で非人間的で胸が痛むので、未熟な親が自己保身のために集団となり「しつけ」という言い訳を大義のごとくでっち上げて、責任逃れの「総仕上げ」をした。
家庭内暴力というのは「胸が痛まない人」がする「しつけ」で、「胸が痛む人」は「しつけ」に便乗して子供に日々「言葉の暴力」をふるう。
「どうしてそういうことをする?」
「自分が何をやっているか分かるのか?」
「何度言ったら分かるんだ?」
「なんでできない?」
「ちゃんとやりなさい!」
「さっき言ったよね?約束したよね?」
「言うこと聞かないともうやらないよ!いい?」
「あ~あ、、、もう、なんで?、、、」
うっかりすると簡単に口を突いて出てしまうこれら「答えられない問い」をボディ・ブローのように毎日浴びせられ続けると、子供の心の真ん中には取り返しのつかない空虚が生じる。
「親は常に正しく、自分は常に間違っている」
ほとんど意識しない形でそう考えるようになる。
「自己否定」というのは、自我という岩盤の上にポタポタ滴り落ちる水滴によって長い時間をかけて穿たれた凹みのようなものだ。
要するに「取り返しがつかない」。
------
子供は「だんだん」大人になる。
「時間がかかる」と分かっていれば、人は諦めてのんびり構えるだろう。
「カッとなる」のはさっさと面倒な育児を終わらせて「自分の時間」を取り戻したいと思っている親の側の問題だ。
怒りというのはどんな形であれ(それが『ため息』であっても)子供にとっては「暴力」なのである。
しかしある日突然大人になるわけでもない。
一体いつから大人になるのか?
そう考えるのも面倒なので、
「子供だって一人前の大人だ」
とか何とか、思いっきり端折って都合良く育児責任を放棄して幼年期から子供に抱え切れない「精神的重荷」を背負わせる親もいる(ネグレクト)。
正確には子供は「だんだん大人になる」のだが、この「だんだん」の部分に注意を払う大人は稀だと思う。
なぜなら、その推移、グラデーションの中に当の大人も入ってしまうから、威厳でもって子供を支配下に置こうとする親には都合が悪い。
混ざり加減は異なるが、自分の中には「子供」がいて、子供の中には「大人」がいる。
子育てを通じて親の中に残る「子供」はだんだん薄れていく。
子供の中の大半を占める「子供」はだんだん「大人」に入れ替わっていく。
そこには心的な相互作用があるのだから、そのインタラクションに即興的に反応できるか否かで親の才覚が問われる。
それができない(それを『楽しめない』と言ってもいい)親が自分を「一人前」として偽装する。
化けの皮がはがれるのが恐いから、子供の前で虚勢を張る。
マニュアルを読んで自己正当化を図る。
自分の不手際で子供が泣きわめくと、その落ち度を子供に押し付けるために怒る。
自分で自分に腹を立てながら怒りの矛先を子供に向けてストレス解消しているわけだし、
本人もうっすら気が付いているのだから申し訳ない気持ちに苛まされる。
にもかかわらずそれを続けるのはあまりに利己的で非人間的で胸が痛むので、未熟な親が自己保身のために集団となり「しつけ」という言い訳を大義のごとくでっち上げて、責任逃れの「総仕上げ」をした。
家庭内暴力というのは「胸が痛まない人」がする「しつけ」で、「胸が痛む人」は「しつけ」に便乗して子供に日々「言葉の暴力」をふるう。
「どうしてそういうことをする?」
「自分が何をやっているか分かるのか?」
「何度言ったら分かるんだ?」
「なんでできない?」
「ちゃんとやりなさい!」
「さっき言ったよね?約束したよね?」
「言うこと聞かないともうやらないよ!いい?」
「あ~あ、、、もう、なんで?、、、」
うっかりすると簡単に口を突いて出てしまうこれら「答えられない問い」をボディ・ブローのように毎日浴びせられ続けると、子供の心の真ん中には取り返しのつかない空虚が生じる。
「親は常に正しく、自分は常に間違っている」
ほとんど意識しない形でそう考えるようになる。
「自己否定」というのは、自我という岩盤の上にポタポタ滴り落ちる水滴によって長い時間をかけて穿たれた凹みのようなものだ。
要するに「取り返しがつかない」。
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子供は「だんだん」大人になる。
「時間がかかる」と分かっていれば、人は諦めてのんびり構えるだろう。
「カッとなる」のはさっさと面倒な育児を終わらせて「自分の時間」を取り戻したいと思っている親の側の問題だ。
怒りというのはどんな形であれ(それが『ため息』であっても)子供にとっては「暴力」なのである。
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