自閉症スペクトラム [育児]

以前「心の中のエコノミー」という記事で「発達障害」と呼ばれるものについて書いた。もう少し考えてみる。

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日曜日、遅い朝食を食べていたら子供の友達が遊びに来た。

「ご飯食べてるからちょっと待ってて」と言ったのだが、うちの子は待ち切れない感じで席を立って遊ぼうとする。

「ほら、ご飯終わってからだよ」と諭して食べさせた。

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だいたいうちの子は「あ、そうだ!」と思いついたことがあれば食事中でもよく席を立つ。例えば「あの絵本に何て書いてあったっけ?」と絵本見たり、外で何か音がすれば「あれ何?」と見に行ったり。

「食事中は席立たないよ」と一応言うが、そういってる親だって醤油取りに行ったり携帯メール気にしたり時々「席を立つ」ことはあるのだ。

これは食事に限ったことではない。料理したり仕事したり掃除したりしてる時でも「あ、そう言えば、、、」と「思いついて中断する」ことは多々ある。

むしろ例えば「今日ゴミの日だからゴミ先に出しておこう」なんて言う時は、忘れないうちに「料理の途中でゴミ出しする」なんてことだってあるだろうし、「ゴミ出し忘れるよりは思いついた時にすぐやった方がいい」という場合もある。

大人はそういう「プライオリティー」を経験や計画を通じて決定できる。

つまり「いつもはやっちゃだめだけど今は特別やってもいい」みたいな「例外」を自分で決めることがある。

子供はこういうことができない。思いついたら食事そっちのけで遊んでしまったりする。

そして「もう食べない」と途中で食べるの止めたくせに、散々遊んだ後で「お腹空いた」と言ったりする。

だから「食べる時にきちんと食べる」「食事中は食事に集中する」ということは必要だし、それをやらずに放っておいて思いついたことを思いついたままにやってはいけないという「自己規制」を学ぶことは大切だと思う。

ここで問題となるのは「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」ということなのだが、多くの親はそこで「しつけ」と称して「思いついたことをやってはいけない」と命令してしまう。

「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」
「思いついたことをやってはいけない」

この二つの間には「主体的判断」と「命令に従う」という違いがあり、その間の溝はおそろしく深いが、その「溝の深さ」に無自覚な親がたくさんいるのは、自分が「命令されて育ってきた」せいだと思う。

ご飯の途中で席を立つ子供は「多動ではない」。

それが多動なら「子供は全員多動」なのだが、親自身が「しつけの呪縛」にがんじがらめになっているからその「多動」が気になって気になって仕方がない。

「子供だもん、そりゃ動きたいよな」と平然とできない。

「なんでこの子は動いてばかりいるのだろう?」と悩んでしまう。

「厳しさ」が足りないのか?と思ってさらに「しつけ」はエスカレートして、いつの間にか親の「怒り」は容認され、時には「引っぱたく」ことさえも許容されるようになる。

実際僕の周りの家族でも「食事の時は『絶対』最後まで食べさせる」とか「出したもの食べなかったら食事を抜く」とか当たり前のようにやっている親もいる。

それ「ソフトな虐待」でしょう、と思うのだが。

ところがそれでも「嫌なものは嫌!」という「こだわり」を見せる子供たちがいて、そういった子たちが早急に「自閉症スペクトラム」という「障害」に認定され、親子共々「訓育」されようとしている。

もちろん「本当にADHDである」「本当にアスペルガーである」「本当に自閉症である」という場合があるから、子供の様子を見てそこは親が見極めるしかないのは事実だが、「自閉症スペクトラム」という概念にはその「悩む親」を精神医学という権威に従属させて、やがて「反抗分子」となりそうな人間が持つ強い独立性の「芽」を早期に摘み取って、資本主義システムに機械的に「適応」させるためのプログラム的意味合いがある(と僕は思っている)。

子供があっち行ったりこっち行ったりするのはその「並外れた好奇心」のせいだが、その「好奇心」こそが権力にとって面倒な「批判力」の原点なのだ。

だからそこを早いうちに潰しておきたい。

「精神科」という権力装置に縛り付けることで「治療費」を巻き上げ、親の思考と財布から二十三重に「搾取」する。子供の脳みそにレッテルを貼って従順な「畜群」を効率的に作り出す。

植民地はもはや地理的な侵略を意味せず、その「軍事作戦」は人間の心へと展開している。

「支配」されようとしているのは目に見える環境ではなく、人間の不可視の内面だ。

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発達障害には生得的気質に由来する「先天的なもの」と、親のしつけや環境から後天的に生じる「二次障害」がある。もちろんそれが併発する場合もあるだろうし、仮に先天的なものがあっても生育がうまく行けば二次障害は防げる可能性もある。

ここで僕が問題にしているのは「二次障害」の方で、それは将来的には「鬱病」「統合失調症」「解離性障害」はては「人格障害」の原因となる。

ではその「二次障害」の原因はどこにあるのか?

それは「子供」にあるのか?

否。「なんでこの子は、、、」と悩んでしまう親にあるのだと思う。

その親がなぜ「悩む」のか?なぜ子供の多動が「気になって気になって仕方ない」のか?

それは「自分がよい親として認められたいから」だろう。

一体「誰」に認められたいのか?

それが「システム」なのだ。

親が欲しているのは「子供の健全な成長」ではなく、むしろその成長をネタにした「親自身の社会的認証」である。

だから、子供の「多動」のせいでその認証を疎外されそうな親が、「病院」という「権威」に連れて行くことで「この子は自閉症スペクトラムです」という「お墨付き」をもらい、「私のせいではない」と「安堵したい」と思っている。

つまり

「この子が多動なのは『親のせい』ではなく『病気のせい』なのだ」
「この子が出来が悪いのは『親のせい』ではなく『脳機能障害』なのだ」

と思うことで「自分という原因」から目をそらし、それを「子供」へ押し付けて、日々自分を苛む子育ての苦痛を取り除く。

自分は「正しい」と証明して「早く楽に」なりたいから病院に駆け込むのだ。

ここにはぐちゃぐちゃに入り組んだ資本主義システムと人間心理の「倒錯した欲望」の依存関係がある。

ずっと子供は「動きまくっていた」し、そんなもの「元気だなー」で片付けられて来た。

動き回る子供は周囲の大人や兄妹のやっていることを「見よう見まね」で模倣して「だんだん自分一人でできるように」なった。

そういう親密なコミュニティー環境に欠けた「核家族的密室」で「精神の病」を真っ先にわずらうのは、「子育ての責任」を一手に引き受けてきた「母親」だろう。

それはかつては差別的に「ヒステリー」、今ならさしずめ「育児ノイローゼ」と呼ばれ、日本に限らず「近代国家」の中で必然的に生じてきた「ひずみ」である。

その「ゆがみ」が子供にも「しつけ」を通じて受け継がれる。

ずっと放ったらかしにされてきたその「ゆがみ」を、今度は「精神科のお医者さん」が矯正してあげましょうと忍び寄って来て、金づるにしようとする。

薬漬けにして儲ける現代医療が心にも施され、現代人は「家族という牢獄」から順次「社会という監獄」に収監される。

日本だろうが欧米だろうが関係ない。

近代と資本主義は「人間を畜群にするため」に、その最小単位の洗脳装置として「家族という神話」をでっち上げた来たのだ。

ここでゴードン先生の言葉を思い出してみよう。

「間違っているのはいつだって親であり、子供は常に正しい」

そうではないか?

「何をバカな、、、」とこの命題に強烈な違和感を覚える親は、一度「自分の心の病」について考えた方がいいだろう。






子供を助けない人 [育児]

人生うまく行くことばかりじゃないから、たまには愚痴を言いたくなる時もある。

仕事で失敗をした。わざわざ足を運んだ店が休業日だった。雨の日に車で水をかけられた。お金を落とした。

悪いことは重なったりするから友人や家族を相手に「本当にもううんざりだよ」と嘆く。

みんな同情してくれるだろう。「それは大変だったね。まあ今日は酒でも飲んで忘れなよ」とか。

だけど「ものすごく仕事のできる人」がやって来て、

「なんでそんな失敗する?この間もやり方教えたよね?定休日なんて前もって調べるでしょう?水たまりの横ぼーっと歩いてたから水かけられたんでしょう?金なんて落とすなよー、ただの不注意でしょう?いつも言ってるよね?」

とか言って来たらどうする?

それも繰り返し繰り返し。

この「ものすごく仕事のできる人」というのが、子供に対する「親」だ。

そりゃそうだろう。親は子供の何十倍も歳とってて仕事なんてできるに決まってるのだ。

それが子供という「仕事のできない不注意で失敗ばかりしてる人」を見つけて、

ぐうの音も出ないほど「コテンパンに」やっつけるのが、いわゆる「しつけ」と呼ばれているやつだ。

自分だって同じ「仕事で失敗して不運続きの人」みたいなものだから、それなら同情して

「大変だったな。まあ気にするな。ゆっくり休みな」

とか言ってあげればいいのに、まるで「自分がやられたから誰かにやらずにはいられない」みたいに子供を標的にする。

いや、大人だったら「愚痴」を言えるからまだいい。

子供はそれがうまく言えないから「これ食べたくない!」とか別なところで発散しているのに、

それをガチで捉えて「なんだ!その言い方は!」とかやられたら、

子供は何も言えずにただただ耐え忍ぶしかなくなる。

「おまえさあ、、何回言ったら仕事できるようになる?」

と上司からグダグダ説教され続けたら鬱病になるだろう。

それと同じ気持ちに子供がなっているのがなぜ分からないのだろう?

子供は同じ人間で、大人と同じ「心」を持っているのに、「特別打たれ強い」とか「何も気にしない」とか「ぼーっとしてるだけ」とでも思っているのだろうか?

事実は全く逆で「大人以上に打たれ弱く細かい言葉のニュアンスに一喜一憂し深く考え続けている」のに。

そうやって心の根っこが形成され、それが一生の思考の土台になるというのに。

きっと親自身がそうやって説教されて育てられ、学校でも会社でも説教されて来たから、今度は家庭で「弱者」を見つけてそれに八つ当たりするのだろう。

そんなイライラした親にとって「しつけ」はただの免罪符なのだ。

子供は道に迷って途方にくれて泣いているのに、

「だから道に迷うなって言っただろう?泣けばいいってもんじゃない!」

と突き放す。

「困っている人は助けて上げなさい」とか言いながら、

「困っている我が子は助けない」

一体どこからそんな都合のいい自分中心の「ルール」が生まれてくるのだろう?

親にもし「免許」が必要なら、大抵の親が一斉に「免停」になるんじゃないだろうか?




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ダブル・バインド覚え書き [育児]

今朝妻と車で一緒に出かけることにしたので、妻が洗濯物を終わるまでパソコンで仕事しながら待っていた。

「そろそろ行く」と言いながら妻は一度外に出た。

僕はトイレに入った。

そうしたら妻が玄関から「あれ?どこ?どこ行ったの?」と言っている。

僕はトイレの中にいるから返事をしなかった。居間に30秒ぐらい前までいた人間が「いない」とすれば「トイレ」か「洗面所」ぐらいしかない。それぐらい分かるだろう、と。

僕が部屋に戻ると玄関から入って来た妻が「どこ行ってたの?」と聞く。

「え?どこって、、、トイレだけど」

「何で返事しないの?」

「え?何でトイレから返事する?」

「、、、」(返事ぐらいしてくれたっていいでしょう?という感じの沈黙)

「じゃあ何で呼んだの?」

「え?いや、、、ただ呼んだだけ」

「じゃあ別に返事しなくてもいいじゃん。何で『返事しなかった俺』を責める?」

「、、、」(納得いかなさそう)

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妻がなんで「納得いかない」のか謎なのだが、説明すると訳分からなくなるのでここに書き記す。

立場を逆にして考えてみる。

さっきまでテーブルについていた妻がいないなら僕は「ああトイレか洗面所だな」と思う。だから用事がなければ声をかけないと思う。

だけど、もしかしたら何か聞こうと思って「おーい、あれ?どこ?」みたいに言う可能性もある。

だけど、そこで僕は「あ、いないのか。トイレ?まあいいや。後で聞こう」みたいに思う。

それで妻が部屋に戻って来たら「あのさ」と話をする。

つまり「返事しようがしまいがどっちでもいい」と思う。

「返事しなければならない」としたら、それは「急用」の場合だと思う。

「早く出かけなきゃ」とか「ゴミ収集車来たからゴミ出して!」とかすぐに伝達しなきゃならないことがあれば、返事がない場合「ねえ?どうしたの?どこ?いるの?」みたいに繰り返し聞くと思う。

だから、僕はトイレの中にいて、妻の「どこ?」という声を聞いた時、「ああ、何か用事あるのかな」と一瞬思ったけど「即答」はしない。

意識はしてないけど「もし急用なら繰り返し呼ぶはずだ」と思って「とりあえず黙ってた」んだと思う。

そしてそのまま結局呼ばれなかったから「ああ、たいしたことじゃなかったんだな」と思ってそのまま忘れてしまった。

部屋に戻った時「どこ行ってたの?」と聞かれることも別におかしくないと思う。

僕は聞かないけど、聞かれたら「トイレ」と答えるし実際そう答えている。

だけどそこで「何で返事しなかった?」と言われると訳分からなくなる。

そこで僕はほとんど意識しない形でトイレの中での思考を思い返す。

そこで僕は別に「緊急性はなかった」と思っている。

それを長々と説明したとすると、

「何?いや急な用事だったら何回も呼ばれるだろうから、一回しか呼ばれなかったから返事しなかっただけだけど、何か用事あったの?」

となる。

仮にそう説明したとしたら、妻は「別に用事なかった」と言うだろう。

するとそれでも僕は「じゃあ何で返事する必要ある?」と思う。

だけど、そういうことすら瞬間的にまったく意識してないから、

「じゃあ別に返事しなくてもいいでしょう?」と思わず口から出てしまう。

この「一言」が妻にしてみると、

「何で返事しなきゃならないんだ?」みたいなすごい傲慢な言い方に聞こえるんだと思う。

「用事ないのに、おまえは何で呼んだんだ?」みたいな。

するとそれに対して「それぐらいで何怒ってるの?」みたいに「不満顔」になる。

「いや別に怒ってないから」と僕は「返事しなかった正当性」を説明する。

だけどなんかおかしい。

「何で返事しなかった俺を責める?」

すると妻は「別に責めてるわけじゃない。ただ返事してほしかっただけだ」みたいに言うんだろう。

このやり取りのおかしなところは、僕は「何となく返事しなかった」だけで、何も「返事したくなかった」とか「返事しなくたっていいだろう」とか言ってるわけじゃないのに、なぜか妻にはそういう風に捉えられるということだ。

だけど「なんで返事しなかった?」と妻が聞くのは奇妙な質問だと思う。

僕はそれにほとんど答えられない。

返事する理由もないし返事しない理由もない。何となく「そうなっただけ」のことじゃないのか?

もし何かそこでそれを「なぜしなかった?」と確認する必要があるなら、

「聞いたんだから、答えなければならない」という強制的な考えがあるからだと思う。

たぶんそうなんだろう。

だけど「何となく聞いた」のだとしたらこっちだって「何となく答えなかった」としか言いようがない。

「ただ呼んだだけだけど、答えないのはおかしい」

と言うなら、この構図は「ダブル・バインド」になる。

つまり「アクションを起こす側」が「受け取る相手の態度」をあらかじめ想定して、そこから外れると「NG」になってしまう。

「おーい」と子供を呼んで「何?」と子供が近づいて来たら「呼んでみただけ」と言う。

「おーい」と子供を呼んで「どうせ呼んでみただけだろう」と子供が思って黙っていると「なんで返事しない?」と言う。

「なに?」と子供が答えると「いや、いるならいいんだ。呼ばれたら返事しなさい」とか。

なぜこういうことが起きるかと言うと、本当に単純に相手を「支配する」という感覚、その確認作業なんだと思う。

それにしてもなぜそんなことをしなければならないのだろう?

やはり謎だ。

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こんなこと書いていて家に帰ったら何だか妻が不機嫌そうにしている。

どうも「宿題やったら?」みたいに妻が言ったことに子供が返事しなくて、それが何度も続いたから「私のこと無視してる」と怒っている。

「いや、子供は『無視』とか意図的にやらないでしょう?自分が怒って命令したんじゃないの?」みたいに言ったらますます怒る。

「宿題やらないとまた寝るの遅くなるよ」とかプレッシャーかけないで、一緒にしばらく遊んでから「さあ宿題やろう」と明るく言うとか工夫すればいいのに。

僕は子供と一緒に宿題やったけど、途中で「何でこんなことやんなきゃいけないんだよー!」みたいにひっくり返ってぐずる。

今日は習い事も行ったしいろいろ面白くないこともあったのかもしれない。

大人だってそういう日はあるし何となく「返事したくない」時だってあるだろう。

そんな時に「聞いてるの?返事は?なんで返事しない?無視してるの?」とか畳み掛けられると「何回も言わないで!」と自分だってキレるはずだ。

子供はそういう時でさえ「今日おもしろくないから返事したくない」とか言えないのだ。仮に言ったとしても今度は「人が聞いてる時は返事するの!」とさらに怒られるだろう。

それでひっくり返って「どうせ僕が悪いんでしょう?『今日の人生』全部僕が悪いんでしょう?」と「自己否定の見本」みたいに自分を責める。

僕が「そんなことないよ。全然何も悪くないよ」となだめると妻が寝室から飛び出して来て「ごめんね」と謝った。

良くないって分かっててなんで「ダブル・バインド」(怒らせてなぐさめる)にしなきゃならないんだろう?

謎だ。



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だんだん大人になる [育児]

子供はたしかに「大人になる」。

しかしある日突然大人になるわけでもない。

一体いつから大人になるのか?

そう考えるのも面倒なので、

「子供だって一人前の大人だ」

とか何とか、思いっきり端折って都合良く育児責任を放棄して幼年期から子供に抱え切れない「精神的重荷」を背負わせる親もいる(ネグレクト)。

正確には子供は「だんだん大人になる」のだが、この「だんだん」の部分に注意を払う大人は稀だと思う。

なぜなら、その推移、グラデーションの中に当の大人も入ってしまうから、威厳でもって子供を支配下に置こうとする親には都合が悪い。

混ざり加減は異なるが、自分の中には「子供」がいて、子供の中には「大人」がいる。

子育てを通じて親の中に残る「子供」はだんだん薄れていく。

子供の中の大半を占める「子供」はだんだん「大人」に入れ替わっていく。

そこには心的な相互作用があるのだから、そのインタラクションに即興的に反応できるか否かで親の才覚が問われる。

それができない(それを『楽しめない』と言ってもいい)親が自分を「一人前」として偽装する。

化けの皮がはがれるのが恐いから、子供の前で虚勢を張る。

マニュアルを読んで自己正当化を図る。

自分の不手際で子供が泣きわめくと、その落ち度を子供に押し付けるために怒る。

自分で自分に腹を立てながら怒りの矛先を子供に向けてストレス解消しているわけだし、

本人もうっすら気が付いているのだから申し訳ない気持ちに苛まされる。

にもかかわらずそれを続けるのはあまりに利己的で非人間的で胸が痛むので、未熟な親が自己保身のために集団となり「しつけ」という言い訳を大義のごとくでっち上げて、責任逃れの「総仕上げ」をした。

家庭内暴力というのは「胸が痛まない人」がする「しつけ」で、「胸が痛む人」は「しつけ」に便乗して子供に日々「言葉の暴力」をふるう。

「どうしてそういうことをする?」

「自分が何をやっているか分かるのか?」

「何度言ったら分かるんだ?」

「なんでできない?」

「ちゃんとやりなさい!」

「さっき言ったよね?約束したよね?」

「言うこと聞かないともうやらないよ!いい?」

「あ~あ、、、もう、なんで?、、、」

うっかりすると簡単に口を突いて出てしまうこれら「答えられない問い」をボディ・ブローのように毎日浴びせられ続けると、子供の心の真ん中には取り返しのつかない空虚が生じる。

「親は常に正しく、自分は常に間違っている」

ほとんど意識しない形でそう考えるようになる。

「自己否定」というのは、自我という岩盤の上にポタポタ滴り落ちる水滴によって長い時間をかけて穿たれた凹みのようなものだ。

要するに「取り返しがつかない」。

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子供は「だんだん」大人になる。

「時間がかかる」と分かっていれば、人は諦めてのんびり構えるだろう。

「カッとなる」のはさっさと面倒な育児を終わらせて「自分の時間」を取り戻したいと思っている親の側の問題だ。

怒りというのはどんな形であれ(それが『ため息』であっても)子供にとっては「暴力」なのである。



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「遊ぶ」ということが意味するもの [育児]


僕が子供と遊んでいると妻が「不機嫌」になることがある。

しかし逆に自分のことを考えると、妻が子供とべたべたしていれば何か近づきがたい感じがして「ちょっとあんまりくすぐったりばっかりしないでよ」みたいに苦言を呈して自分の仕事をやってることもあるのだから「お互い様」という感じもする。

妻にとって子供と「遊ぶ」ということは「親密になる」みたいな感じなんだと思う。

だからチューしたりくすぐったりばかりして「二人の世界に閉じこもる」。

これが「遊び」であるならそこには誰も入れないし、父親だって仲間外れになるから「もう赤ちゃんじゃないんだから」みたいにチクリと言いたくもなる。

父親にとって「遊ぶ」ことは子供を「外の世界」に開かせてあげることだから、「ごっこ遊び」や「工作」や「連想ゲーム」をやっているし、その時僕は「言葉」を多用する。

それは「ゲーム」だから参加自由だし、「家族以外の他者」だって一緒にできる「遊び」だ。

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だから僕の「遊び」と妻の「遊び」は相容れない。

妻が「遊んでる」時には僕は「面白くない」わけだから、妻にしてみれば、

「私が遊んでる時あなたは不機嫌なんだから、私もあなたが遊んでる時に不機嫌になって何が悪い?だから私だって勝手に自分のやりたいことやる」みたいな認識になるんだと思う。

一見これは「正論」で「対称」に見える。

だけど「二人だけの世界」に父親は入れないが「ゲーム」なら母親は参加することができる。

だから「平等」を求めるなら母親が「譲歩」するしかないように見える。

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しかし考えてみれば「母親が子供とくっつきたい、一体になりたいという感覚」は、かつて自分の体の中で子供と一体だった「母親固有のもの」だと思う。

父親はその「一体感」に対する欲求そのものがない。父親は生物学的に出産など不可能なのだからそんなものあるはずがない。

つまりこの父親と母親の「遊び」に対する「認識の非対称性」の根拠は「生物学的な非対称性」にあることになる。

いつも思うのだが、子供の出自についてここまで「さかのぼられる」と男は何も言えなくなる。

(ここまで『遡行』して育児分担してるのは家だけのことなのだろうか? 例えば僕は『皿洗い』や『おむつ洗い』についても『こんなこと出産に比べれば屁でもないんだ』というある種『原罪』にも似た『負い目』を感じながら粛々とやっていた。しかしこのあいだたまたま『父親3人だけ』で飲んだ時、他の二人が『俺なんて生まれてからずっと子供の風呂入れてるんですよ』とか『子供の送り迎えは必ずやる』みたいなことをいかにも『育児貢献してる』かのように満足げに話していて『ええ!?』と思ってしまった。『うそ?そんなことで評価してもらえんの?だって出産してないってことは借金1000万背負ってどんなに家事やっても50万ぐらいしか返せないようなもんですよ?』と訴えたが『はあ?』という感じだった)

男は『出産』によって返済し切れない負債を抱えてしまった。

しかし子供とは触れ合いたい。

そのために「ゲーム」とか「言葉遊び」という手段は有効だし、実際子供はそういう「遊び」が「大好き」だ。

それに母親とくっついているだけでは飽きてしまうだろう。

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するとある時点で子供と両親の関係の持ち方の「比率」が少しずつ入れ替わっていくんだと思う。

最初は子供は「母親とおっぱいで結びついている」から父親は泣いてる時に抱っこ変わってあげるぐらいしかできない。

だけど子供も成長して言葉を覚えて、幼稚園、小学校と上がっていくと、「社会性」を身につけるために「ゲーム」や「言葉遊び」が必要になるし子供もそれを楽しむようになる。

この「ゲーム」とか「言葉」というのをある種の「男性性」と考えてみよう。

(人にももちろんよるだろうし、論理的思考が得意な女性とかくっつきたい父親だっているだろう。だけど『父親は出産できない』という非対称性は以前として残るから、それを埋め合わせるために『論理』や『言語』に価値を見出す思考を『男性性』と仮に考える)

するとこの「移行期」において、母親は「おっぱいをあげて満足する」とか「くっついて安心する」みたいなスキンシップによるコミュニケーションから「頭脳的コミュニケーション」にシフトして行く必要に迫られる。

父親は「待ってました!」とばかり「ほら見てみろ、どんどん俺になついていくぞ」と得意になってその「ゲーム」や「言葉遊び」や「スポーツ」をやるかもしれない。

ここで母親が劣勢に立たされると「ぐぬぬ、負けるものか」と今度は「教育」にエネルギーを注ぐようになる。

あるいはこのタイミングで母親は自分を見失って「育児ノイローゼ」や「うつ」になるかもしれない。

その移行期の迷いや不安から目をそらす救済措置が、親子共々資本主義の競争原理に組み込んでいくための「早期教育」で、だからその意味でそれは子供のためというより「母親の父親化」のための下準備なんだと思う。

父親が仕事で「不在」なのだから、母親がやるしかないだろうという考えもあるし、「教育」を通じて「母性」を抑圧して、母親を「社会化」する意味もある。

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ここで僕には一つの疑問が湧く。

つまり、人間の生命を根源的に突き動かしているエネルギーの証である、あの「一体感」はどこへ行ってしまうのだろう?と。

それは「早々」捨て去られるべきものなのだろうか?

たしかに生まれて来た赤ん坊は、いくら母親と一体だったからと言って、母子二人の世界に閉じこもって生きて行くことはできない。

人は社会化されなければ生きて行けないのだから「社会」だって人間生命の一つの表れなのだ。

だけど子供にとって母親が与える安心感は何者にも代え難いものだろう。

人は子供から大人になる。

そこには「移行」がある。

だから、その「移行期間」をどう過ごすか?なんだと思う。

そこではもちろん夫婦の間でも、子供との間でも、衝突があるんだと思う。

母親が子育ての全権を握ったり父親が暴君のように振る舞ったりするのは、その「衝突」を回避する(生じないようにする)ための古い家族モデルなんだ。

親は「自分たち固有の問題」に向き合わずに、理想やマニュアルに振り回されたり逆に家父長制に閉じ込められたり、それでがんじがらめになって怒りを爆発させたり子供の不満を無理矢理抑え付けたりするんだけど、最後のしわ寄せは子供に行く。

そしてその「ツケ」は必ず将来子供が成長した時に「反抗期」として帰って来るだろうし、最悪生涯に渡ってアダルト・チルドレンや人格障害といった症候として現れる。

それは「復讐」であるからより取り返しのつかない手ひどいダメージを親はくらう。

なぜ問題を「先延ばし」するのだろう?

夫婦も子供も早いところ「衝突」して話し合う習慣を身につけた方がいい。

そして一緒に遊び、笑う。

民主的な家族を目指すとはそういうことだ。








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子供に本音と建前を教える [育児]

レストランでエスニック風チキンみたいなのを食べて、お店の人が「いかがでしたか?」と聞いた。

僕らはもちろん「おいしかったです」と答えたが、子供は「おいしいようなおいしくないような」と言った。

店の人は笑顔のまま行ってしまったが、妻はその後子供に真顔で「そういうこと言っちゃだめだよ」と言った。

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僕はちょっと違和感を感じて「いや、そういう意味じゃないんじゃないか?」と思い、

「〇〇、この味あんまり好きじゃなかった?だけど『おいしくない』って言ったら、作ってくれた人がっかりするでしょう?だから、そういう時は言わない方がいいよ」

と言った。子供はちょっとすねた。

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僕は「だめ」という言葉をあまり使わないようにしているし、「だめ」と言ったら、だいたい「なんでだめなのか?」を説明する。

(『だめ!』とすぐ言うのは母親の特徴だと思う。まあそれは『子供にケガしてほしくない』とか『親のしつけがなってない子供と思われたくない』とかいろんな思いがあるのだろうが)

それで「おいしくないなんてお店の人に言っちゃダメだよ」というのは、ある意味子供には矛盾することなんだ。

まず第一に子どもは味としてたしかに「おいしいような、おいしくないような」と思ったんだと思う。

だから素直に「味の感想」を述べたのだと思う。

その場合それを「言ってはいけない」と言うならそういったマナーなり礼儀作法があるから「建前」として言ってはいけないということだと思う。

そしてそれは「自分の本心」ではなく「相手の立場に立って考えたら」という前提を必要とする。

こういう「人の身になる」という思考は子供にはなかなか難しい、というかほぼ不可能だと思う。

自分の主体もあいまいなところで「人のためを思う」などできるはずもなく、もしできるとすればそれは「パターン」として覚えるということだと思う。

つまりお店に行って味を聞かれたら「とりあえずおいしいと言えばいい」「おいしいと言っておけば怒られない」という具合に。

だけどここでもう一つ考える。

日頃「嘘を付いてはいけない」とか「本当のことを言いなさい」とか「正直に言いなさい」とか子供に言っていないだろうか?

(現実と想像の区別がついてない子供に『嘘か本当か』と追求することにはあまり意味がないのだが)

また「この料理の味どう?」「学校の授業どうだった?」「この本読んでどう思った?」とか感想を求めることもあるだろう。

そういった時には正直に「おいしくない」「つまらなかった」「楽しくなかった」と言うべきだろう。

つまりある時には「正直に言う」しある時には「正直に言ってはいけない」ということを子供は了解していなければならない。

この「ある時に」というのが曲者で、それが「状況」であり「場の空気」であり、子供がまだ持ち合わせていない主体的判断に関わっている。

親はだから「言ってはいけない」「やってはいけない」と「命令」を下すよりは、「それを言ったら他の人ががっかりするよ」とか具体的な状況を説明してあげた方がいいんだと思う。

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あと子どもが「おいしいようなおいしくないような」と子どもなりに自分の味覚の「微妙さ」を表現したことを僕はむしろうれしく思ったし、それは「マナーとして言ってはいけない」というのはちょっと違うと思う。

「僕クミンって苦手なんだけど、このチキンはおいしいですね」とか何とか、自分の本音を匂わせながら相手も立てるみたいな微妙な言い方をすることだってある。

実際「味を楽しむ」ってそういう相反するものがどう組み合わさっているかそのバランスの問題だと思うし、味を見極めるための「センス」を言語化するチャンスなら、それを「マナー」で閉ざすこともないと思う。

「マナーだから言わない方がいい」ってのは社会的慣習だからパターンとして身につけるのはそれほど難しくないんだ。

それを教える前に「どうしてそう感じたの?どうしたらもっとおいしくなる?どうしたらもっと好きな味になる?」と聞いた方がいいと思う。

不思議なのは、社会に出たらマナーなんてあって当然で、重宝されるのは「表現力」の方であることぐらい親にも分かっているということだ。

それでもマナーを優先して「表現の芽」を摘んでしまうのなら、その人は「子供の未来」よりもよっぽど「親の体裁」が気になるのだろう。



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会話と状況判断 [育児]

妻の誕生日に新しいノートパソコンをプレゼントしたら、妻が「これ私にはもったいないよ。新しいのあなたが使って、私が古いのもらうから」と言う。

すると子供が「お母さんの誕生日プレゼントなんだから、もらえばいいんだよ」と言う。

僕は思わず「そうだよねー」と言う。

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子供が学校に行った後で妻に「子供が言う通りプレゼントは素直にもらわなきゃ逆に相手に失礼だよ」と言うと、

「いや、実はプレゼント買うの忘れてて『自分用に買ったパソコン』を持って来たのかと思った」と言う。

「じゃあ何で開封してないの?そんなことあるはずないでしょう」

「いや、もしかしたらと『勘ぐった』だけ。じゃあ自分で使うから。ありがとう」

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僕が不思議に思うのは、プレゼントに対して妻があれこれ言った時に、「プレゼントなんだから素直にもらえばいい」と子供が言ったことだ。

これは言ってみれば僕の心の声を代弁しているし、「素直に喜んでみせること」は礼儀としても正しいと思う。

「勘ぐる」というのは洞察力と同じ分析的思考だから、世の中を生き抜いていくためには身に付けなければいけない能力ではある。

だけど「勘ぐったり」「言葉の裏を読んだり」するコミュニケーションは、注意深く運用しないと(あるいは逆に考えすぎると)「衝突」の原因になる。

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まず「勘ぐり」と言うのは、「真偽不明」の相手の心の状態を類推しているわけだから、「絶対にそうだ」と確信したところでもそのものズバリを言うわけにはいかない。

せっかく買ったプレゼントに対していきなり「これ自分用に買ったんじゃないの?」なんて言われたらがっかりするだろう。

だから妻も「私にはもったいない」とか別な言い方に変える。

するとその言葉には何か「ベール」のようなものがかかって、一見喜んでいるかのようで、その後ろに微妙に沈んだトーンが透けて見える。

子供の恐いところは、こういう「トーン」や「ニュアンス」を敏感に捉えるところだ。

大人が自分の不愉快さや疑念といったネガティブな考えを適当に耳障りのいい言葉でうまく丸め込んだと思ったところで、そんな表面的な「修辞」に子供はだまされない。

だから子供は時に大人が「ギョッとする」ようなことを言う。

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人はたしかに「勘ぐる」し「裏を読む」。

「疑いの目」で世界を見ることは思春期・青年期の特徴的な思考だから、それは「若さ」の表れでもある。

そういう目で見れば大人なんてみんな「嘘つき」に見えるし、世の中「間違った事だらけ」だ。

しかし社会に出てみれば「本音と建前」なんて当たり前で、いつのまにか自分もその「嘘つき」になる。

そうやって常に自分の本心を隠して相手に取り入ろうとする話術が身に付くと、きっと相手も「自分と同じように何かを隠しているのだろう」と思うようになる。

会話は「腹の探り合い」になる。

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注意した方がいいのは、家庭の中にそういう思考を持ち込まないことだ。

だから妻は僕に間違った対応をした。

そう言うと妻は、

「じゃあ『わあ、うれしい!ありがとう!』とだけ言えば良かったのか?」と言いそうな気がする。

しかし逆だ。

本当は第一声でまずこう言えば良かった。

「プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」と。

僕は「『自分用に買ったの?』といきなり聞かれたらがっかりする」と書いたのだから、それはおかしいだろうと思う。

だけど、問題なのはそこに「悪意」があるかどうかなんだと思う。

もし妻に「悪意がない」のなら、「心に浮かんだことはすぐ口にした方がいい」ということだ。

(悪意が『ある』のなら、それはまた別の話だ)

-------

会話の続きとしてはきっとこうなるだろう。

「ええ?プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」

「え?そんなことあるはずないでしょう?見てみなよ、梱包されてるでしょう?」

「あ、本当だ。ごめん。いいの?ありがとう!」

これで終わりだと思うし、誰も傷つかない。

(僕は投げかけによって妻に『悪意がない』ことを確認した)

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しかし妻にこういう「言い方」ができるのか?と考えると、たぶんできないだろうと思う。

なぜかと言うと、妻は「勘ぐった」と考えている時点で、そこにある種の後ろめたさがあって、それは悪意とは言わないが「まず最初に僕を疑った」という感覚なんだと思う。

「これ自分用に買ったんじゃないの?」という一言はその言葉自体としてはニュートラルなんだ。

例えばこうだ。

「うれしい!すごい!ええ?まさか自分のために買ったの持って来たんじゃないよね?本当に私の?やったー」

と言うのと、

「え?、、、本当は忘れててまさか自分のために買ったんじゃないんでしょうね?、、、」

と言うことのニュアンスの違い。

いきなり後者の言い方をされたら、たぶん僕もカチンと来るし、どちらかと言うと妻にはまず微妙にそういう「疑念」のようなものが生じたから、別な言葉に言い換えたんだと思う。

だけどもし思い浮かんだのが悪意とは異なる「ちょっとした疑念」があるなら(ないなら素直に喜べば良い)、結局どう取り繕おうとネガティブな「トーン」は子供にすら伝わってしまうのだから、積極的に疑念を払拭するためにもむしろ「真っ先に言ってしまった方がいい」んだと思う。

心に忍び込む「疑い」や「不満」を避けることなんてできないのだから、それを会話のやり取りを通じて解消してしまう。

これも一つの話術だ。

(同時に『一見素直に喜びを表現しているように見せかけて悪意を忍び込ませる』というアクロバティックなことをやる狡猾な人間もいるのだが)

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だけど、どっちにしても「ごまかしたり」「言い換えたり」するのは家庭の中ではやらない方がいい。

まず子供はそういうのを見抜いてしまうし、やがて子供も親の真似をして「ごまかす」ようになる。

それは「嘘をつく」ことを勧めるようなものだ。

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心に浮かんだことは、何でも、例えそれが相手を傷つける言葉でも、とにかく「言葉にする」。

それが家庭の中の会話の基本だと思う。

親はそれを見過ごすのでも責めるのでもない。

子供は美味しくない料理に対しては正直に「おいしくない」と言った方がいい。

そして「なぜそれをおいしくないと感じるのか?」「どうやったらおいしくなるか?」と一緒に考えた方がいい。

「おいしくないなんて作った人に失礼だから言っちゃいけない」というのは「マナー」の話で、子供の「心の発育」とは別の問題だ。

人の心の中には、良いことも悪いことも、人を思いやる言葉も傷つける言葉も「同時に」浮かぶものだ。

そして、それは「口から外に出たがって」いる。

他人に伝達されるのを待っている。

(人は伝えたいから思いつく。思いついたら伝えた方がいい)

だから、大人はその言葉を聞いてあげて、マナーに反するものであれば、一緒に補正してあげればいい。

大事なのは会話であり言葉の「やり取り」であって、言葉の「定義」ではない。

言葉は多義的で、会話の流れの中で少しずつ意味は変化するのだから、その「変化」を見極める読解力(空気を読む力)を育むためには家庭内の会話は「自由」な方がいい。

ふと口を突いて出る言葉の首根っこを捕まえて、怒りとともに「言っちゃいけません!」と命じるなら、それは「考えるな!思うな!思うおまえが悪い!」という呪縛となり、生涯にわたってその人の心と想像力を「監視」するだろう。

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うちの子とふざけて遊んでいると時々はしゃいで「この!ばかクソお父さん!」とか言うことがある。

どこかで覚えてくるのだろうがまったく悪意がない。

そういった「言葉そのもの」を標的にして「親に向かってそんなこと言うんじゃない!」とか激怒して、それをしつけと考える親の方が多数派だとは思う。

だけど僕は我が子を「他人を信じられない人間にしたくない」ので、

「なんだって?それはあまり良い言葉じゃないなー。お父さんに向かって言う言葉じゃないよ」と笑って応戦する。

むしろ思いついた言葉がどんどん飛び出して来る方がうれしい。

「言っちゃいけない言葉」なんてないんだと思う。

「言っちゃいけない状況」があるだけだ。

そして「状況判断」は冷静な分析能力であって、怒りを通じた「抑圧」では身に付かない。




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言葉にできたらそれだけでほめてあげる [育児]

最近、子供に対する「ダブル・バインド」(板挟み)について考えた。

そして、それが日常「よくあること」に気が付いた。

「よくある」んだけど、その状況を親は問題と思ってないので、単に気がつかない。

いや「気がつかない」と言うより、それが「普通」だから、むしろ「そんなこと考える方がおかしい」ぐらいの感じだと思う。

親が気がつかないのは、その親自身も「ダブル・バインド」によってしつけられ、親になってそれを繰り返し実践するからだろう。

試しに自分の親(たいして口うるさくない方だと思うが)に聞いてみた。

「『勉強しなさい』って言って、それで『いやだ』って答えた子供に『じゃあやらなくていい』と言うのはダブル・バインドなんだよ」と。

そうしたら

「、、、普通そうなんじゃないのか?」

と答える。

たしかにそうだし、僕自身もまったく気が付かずに、別な形で似たようなことをやっていると思うので、少し考えてみる。

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「ダブル・バインド」は親にとって都合がよく、「楽」である。

そして子供にとっては理不尽で、「苦痛」である。

人間は「楽」なことをしたがる。

親が「楽」で子供が「苦痛」だって?

そんなことあるもんか、と大人は思う。

親が「苦しく」て、子供が「楽しようとしてる」の間違いだろう?

子供は「わがまま」言う。それが「間違ってる」ってことを子供に理解してもらわなきゃ困るだろう?

ところが事実は逆で、

子供は正当な理由を持って苦しんでいるのに、「親が楽をしようとして」その苦悩を抑え付けるんだ。

これじゃあまりにひどい話で大人も良心が痛むから、「しつけ」という大義名分を作り出した。

それゆえ一般的に言われる「しつけ」のほとんどが、いまだに間違った仕方で代々受け継がれている。

例えばこんな感じだ。

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「お母さんテレビ見ていい?」

「いいよ」

「やったー」

「あ、宿題やった?その前に宿題やろう」

「なんで、もう!!」

「だって、終わらないでしょう?いいよ、終わらなくていいなら、テレビ見れば」

「分かったよ!やるよ!やればいいんでしょう!」

「何?その言い方?お母さんあなたのため思って言ってるんだよ?いいよ、やらないでそのまま学校行けば?」

「やるよ!やるって言ってるでしょう?」

「そんな嫌そうにやるなら、やらなくいいよ。だって自分のためでしょう?」

(無言)

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これのどこが間違っているか?

お母さんは子供に聞かれて、「(テレビ見ても)いいよ」と自分が「無計画に」返事している。

「計画性」を言うならもっと別な言い方があった。

「テレビ見る前に宿題やる」あるいは「テレビ見てから宿題やる。やるなら時間決める」とか。

親がまず「計画」を明示して、その「選択」を子供にさせてあげるべきだった。

親は自分がまず「無計画」なことを棚に上げて、子供には「計画性」を押し付ける。

子供は「親に許可されて、それから修正されて、さらに押し付けられたから怒った」。

そうしたら今度は「怒るならやらなくていい」とまた押し付ける。

これもよくある「ダブル・バインド」だ。

結局、子供は「親に振り回される」あるいは「親に支配される」と感じる。

あるいは、

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「お父さん〇〇して」

「いいよ」

「やったー」

しばらくして、

「あ、そうだ。ごめん、先に仕事するから、ちょっと待ってて」

「えー!なんでー!今やるって言ったのに!」

「ちょっと待っててよ、お父さん忙しいんだから!」

「やだ!!今やって」

「何で分からないんだ?分かったよ、やるよ。ちょっとだけだからな、ああもうしょうがない、、、」と嫌々やる。

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これも問題は、お父さん自身が最初に「計画」を立てられない。返事をした後でやらなければいけないことに気が付いて、「自分の都合で」変更した。

そして、それに対して子供が文句を言ったら「前言撤回した」。

たしかに、本当に「大事なことを思い出した」というのはあるし、その時はしょうがないだろう。

だけど、意外に人は、何かやり始めると、「やらなければならない用事」を思い出したりする。

だいたい、親が暇そうにしてたから子供が「遊んで」と言って来たんじゃないか?

この場合の修正案としては、子供が「〇〇して」と言って来たら、

「そうだな、、、」とまず立ち止まって考える。

頭の中で予定を組み立てる。しかるべきのちに、

「今仕事終わらせるから、ちょっとだけ待ってて。その間本読んでてくれる?」

とでも言えばいい。

その後「やだ!今すぐやって!」と子供が要求したら、それは親にとって困るのだから、今度はそれを説明すればいい。

「今すぐやってほしいのは分かるけど、これを先に終わらせなければならないから、時計の長い針が一番下に来るまで待っててくれる?そうしたら必ずやるから」とか。

「しつけだから怒ったっていいんだ」と開き直っている人は、こういう「修正案」「第三の方法」を考えることすらしない。

ダブル・バインドの事例は他にもいろいろ考えられる。

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子供が夢中になって本を読んでいる。

親が話しかける。

「〇〇ちゃん、今日学校どうだった?」

(無視)

「〇〇ちゃん?聞いてる?」

(無視)

「〇〇ちゃん、聞いてるんだけど」

(ようやく顔を上げて)「え?なーに?」

「さっきから何回も聞いてるでしょう?学校どうだった?」

(質問の意味が分からない)「え?何が?」(そう言ってまた本を読む)

「学校どうだったの?楽しかったの?」

(本から目を離さず)「うん、楽しかったよ」(と、気のない返事)

「人が話しかけたらちゃんと返事して答えるんだよ?分かった?」

「、、、うん、、、」

こんな風に子供に話したとすれば、親は二重三重に間違っている。

まず第一に、子供が夢中になっていることを妨害した。

「本をたくさん読みなさい」「しっかり読みなさい」と言っておいて、読んでいたらそれを邪魔する。

それなら「本なんて読まなくていい」と言うか、「読み終わるまで待つ」か、「大事な話があるから読んでいるのちょっと止めて聞いてくれる?」と断るべきだ。

そして第二に、「学校どうだった?」とオープンクエスチョンをしている。

これは子供にはとても答えづらい質問だ。「どう?」って言われても、、、という感じなのに、以外にこういう質問をする人は多い。

こういった場合、具体的に「昨日は縄跳びだったけど、今日の体育では何やったの?」とか、あるいはあらかじめ聞いていた「今日の音楽でやるって言ってた笛楽しかった?」とか聞いた方が子供は注意を向けてくれる。

まずは「注意を引きつける」努力を親がしなければならない。

「こっちが声かけたんだから答えなければならない」というのは、親の都合でしかない。

そうやって「状況を無視して」「答えづらい質問をして」、その上だめ押しで、

「聞いてるの?」「何回も言ってるでしょう?」「ちゃんと返事して」と、

「子供に罪を押し付ける」

この「罪」。親が勝手に不条理なことを問いかけて、それができないと「答えないおまえが悪い」みたいに思い込ませることで子供の中に植え付けられる罪の意識。

これが蓄積されると、子供は意識的に親に反抗するようになる。

そのうち「知らないよ!」とか「分かんない!」とか言い出すだろう。

そうすると、今度は「何だその言い方は!」とか「答えたくないなら答えなくていい」とか親は怒鳴って、力でねじ伏せようとする。

子供は面倒になって、だんだん当たり障りのない「答え方のパターン」を学ぶ。

「うん」と適当に返事して、「楽しかったよ」とどうでもいいように答える。

その蓄積によって損なわれるのは、親への「信頼」だと思う。

親を信頼しない子供は、「どうせ僕なんか、、、」「どうせ私なんて、、、」と次に「自己否定」するようになる。

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子供はまず「断り方」を学ばなければならない。

「ごめん、今本読んでるから、もうちょっと待って」

そう言えなければならない。

そのためには「主体性」が必要だから、親がまず「主体的に」、子供の主体を尊重して問いかけなければならない。

これは「子供と大人」の関係より、むしろ「大人と大人」の関係に近い。

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ここで親が子供に掲げる「正当な理由」について考えてみる。

例えば「人が話しかけたらちゃんと答える」というのは社会的振る舞いとして正しいだろう。

しかし、それは「状況次第」だ。

仕事場で、仕事のミスで残業している人間に「仕事どう?」と気軽に話しかけるだろうか?

たった一度「え?」と聞き返した人間に、「ちゃんと人の話聞いてる?」と言うだろうか?

「、、、いや、まあ順調ですけど」と答えた部下に「何がどう順調なの?分かるでしょう?俺が聞いてること」とか言う上司がいたら、相当嫌なやつではないだろうか?

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思うに、複数の人間が同じ場所にいて、

「人が話しかけたらちゃんと答える」ことが当然とされる場合、そこには「場の共有」「意識の共有」がある。

人々は「話しかけられたら答えよう」と最初から意識している。

そしてその場が、納期ギリギリのテンパった状態なのか、リラックスした昼休みなのか、状況次第で「質問の仕方」も「答え方」も変わるものだ。

「〇〇君!」「はい!」みたいに即答する場合もあれば、「えーと、ごめん、今手が離せない」と言う場合もあるだろうし、「え?今なんか言った?」と聞き逃したことを許される場合だってある。

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子供には、この「場の共有」や「状況次第」という感覚がないか、希薄だ。

子供は自分を「客体化」「客観視」できないし、だから「主体」もあいまいだし、それゆえ常に「自分中心」で物事を考えている。

大人のように「本を読みながら同時に」時間の余裕や予定を考えて、一瞬手を離して「今日学校の体育で、、、」なんて答えてまた読書に戻るなんて至難の業なのだ。

それに、家庭の中で「場の共有」も何もないだろう。何も気にしないでリラックスしていられるのが家じゃないか。

ぼーっとするなんて大人だってあるんだから、子供がそうするのなんて際限がないだろう。

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思うに、多くの子育てのマニュアルに欠けているのは、「状況によって変化する」ことを考慮に入れてない点だと思う。

いや、結局、状況なんて「無限」に個別的だから、それを「こうすればこうなる」なんて断定できるはずがない。

本当に経験上思うんだけど、例えば、宿題をやらせようと思った時、

「やりなさい!」と命令しようが「一緒にやろうか」と優しく声かけしようが、あんまり関係ないと思う。

時間を決めて「何時に始めよう」と言っても、やる時もあればやらない時もある。

問題はその「うまくいったりうまくいかなかったりする」ことにあるんだ。

だから「うまくいったりいかなかったりするから、無理強いせずに適当に済ませましょう」と言われたって、

「どうしてもやらなければいけない宿題」だったらとにかくやるしかない。

それを「やらなくていい」なんて放り出せないから困ってるんじゃないか。

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子供って、大人が考えているように「何にも考えてない」とか「いい加減」とか「あきっぽい」とかじゃないと思う。

むしろ、全てが「真剣勝負」のようだ。

例えば、プロのスポーツ選手が試合に臨む時、突然思いついたように「さあ今から試合やるよ」とか言われないだろう。

その時に向かってコンディション整えて、気分を盛り上げて「気合いを入れる」はずだ。

失敗して「どんまい、どんまい」の時もあれば、悔しくて涙が止まらない時だってある。

親はそういった真剣さを「どうせ子供なんだから」と「低く見積もって」、「たいしたことない、気にするな」なんて上から目線で言ってしまいがちだ。

子供がよく分からない理由で泣く。地団駄を踏んで悔しがる。

「何泣いてんだ!」「いい加減にしなさい!」と怒鳴るのでもなく、「よしよし、いいんだよ、泣いても」と同情するのでもない。

「何で泣く?」と悩みながら、じーっと黙って嵐が過ぎるのを待つでもない。

子供がその思いを言葉にできるように仕向ける。

「悔しかったか?」と聞いてみる。

子供が一言「うん、悔しかった」と答える。

「言葉にしたらそれだけで」心の中でほめてあげる。

そして「悔しかったな、、、」とまず共感してあげる。

この時親は、親と言うより一人の人間として子供に向き合うんだと思う。





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習い事 [育児]

夕方、週に3回、車に乗せて子供を習い事に連れて行く。

学校から帰って来て友達と遊んでいるから、そこで自分だけ抜けるのが面白くない。

「いいなー、みんなは、何もなくて、、、今日これから鬼ごっこやるって言ってたのに、台無しだ、、、」とぼやく。

車に乗ってしばらくしたら、

「もうやだ、やりたくない、習うのはプールだけでいい!」

と言う(プールは好きなので)。

今までも何回も同じことがあって、大抵の場合それは「友達との遊びを中断する時」に起きる。

だから、決して「心底やりたくない!」という訳ではなく、あくまで「まだ遊びたい!」ということだと思う。

それで僕は何と言って来ただろう?

「高いお金払ってるんだからちゃんと続けなさい!」とか頭から命じるようなことだけはなかったし、これからもないだろう。

だから「もっと考えて」言う。

「やりたくないならしょうがないな。どうする?やめてもいいよ、自分のことだから」

「お父さんとお母さんは将来のことを考えるとやった方がいいと思ってる。でも本当にやりたくないなら考えよう。自分で決めていいよ」

この言い方のどこが間違っているのだろう?

そう思うけど、今振り返ると「決定的な誤ち」がうっすら見える。

それは「正論による頭ごなしの決めつけ」なんだ。

「どうだ? お父さんの言うこと間違ってないだろう? おまえもいつか分かるよ」

という「隠れメッセージ」があるということに気付くために、僕はゴードン博士の「親業」を読まなければならなかった。

だから、昨日は少し違った言い方をしてみた。

「やだ!やりたくない!やめたい!」

と言うので、

「そうか、やりたくないか、、、みんなと遊んでた方が楽しいよな、、、それはそうだ」

とまず「共感」してみた。そして

「遊びたかった?」

と聞いてみる。

「うん、、、」と子供は一瞬黙る。

それから、

「でも友達の中にも習い事してる子もいるし、してない子もいるでしょう? 〇〇は3つも習ってるから大変だけど、他にもそれぐらい習ってる子もいると思うよ。習ってない子は毎日遊べるけど、習ってる子はその分いろんなことができるようになるし、習いものがない日はちゃんと遊べる。お父さんは大人になって「いろんなことがやりたいなー」と思うけど、なかなかできない。子供の時もうちょっとやればよかったなと思う。だから〇〇がやっていることは良いことだとお父さんは思うよ。でも、本当にどうしてもやりたくないなら、無理に続ける必要はない。でも今すぐ決めなくてもいいと思うから、もう少し続けて、それから考えてみようよ」

と、何だか長くしゃべった。

こういう「語り」は、通常の大人の会話でもあると思う。

何か、しゃべりながら、その言っていることを「補強」したり「修正」するような言い方。

子供に対してだと、「どうせ長く話しても分からないだろう」という気持ちがあるからなのか、明快に一言でズバッと伝えた方がいいと思っているからなのか、「短い言葉」になりがちなんだ。

「お父さんは『子供のころにもっといろいろ習えばよかったなあ』と思ってる」

以上。みたいな。

たしかにそれも本心なんだけど、同時に、だからと言ってそれを理由に子供に「無理矢理やらせる」ってのも、正当な理由にはならない。

「迷い」が当然あるんだ。

だからもう一言付け加える。

「君はよくやっていると思うよ」

しかし今度は「君は偉い。だからお父さんの期待を裏切らないでくれよ」というメッセージにもなってしまう。

そこでもう一言付け加える。

「だけど、本当にやりたくないなら、続ける必要はない」

これは「やりたくない!」という子供の気持ちを代弁している。

だけど、ここで終わってしまったら、

「やめていい」

というメッセージになってしまい、それは「君は偉い。続けた方がいい」という前言に矛盾してしまう。

だから最後の最後にもう一言付け加える。

「もう少し続けて、それから考えよう」

と、ここで結論を出さないようにする。

そして実際、僕の心の中で起きることは、そっくりその通りである。

ゴードン博士はこういった「迷い」も言葉にして伝えた方がいいと言うんだ。

この考えが僕にとって「画期的」「目からうろこ」なんだと思う。

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こういう話術をこうやって書き出してみると、結構支離滅裂というか、「あいまい」なんだ。

そして大抵の場合、会話とはそんなものだと思う。

子供に対して親は「威厳を持って接する」みたいにシュタイナー教育とかで言われる。

親は常に全てを見通して、具体的で的確な助言を瞬時に子供に与えることができるし、またそうでなければならない。

そういうプレッシャー。

すると自分の中でもはっきりしないままに、

「やりたくないならやらなくていいよ。自分で決めていいよ」

と「子供の主体性」に丸投げしてしまうような時が出てくる。

シュタイナー的にそうだなんてどこにも書いてないだろうし、僕の単なる読み違えなのだろう。

だけど「親の迷い」を子供に見せるのを許されないような感じはある。

「失敗したっていいじゃないの、人間だもの」みたいないい加減さが認められない。

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だけど、やっぱり、「どうしたらいいのかなあ?」とも思うし、「自分で決めていいよって言ったって、もし『本当にやめる!』とかここで即断されたら、『いいよ』とも『いや、ちょっと待って』とも言えないだろう」とか、次から次へと迷いは生じるんだ。

そこで自分を偽ってまで「親の威厳」を示そうとすると、人によっては

「いい加減にしなさい!何で分からないの?」

みたいになってしまうんだ。

もっと自分が当たり前に感じる「迷い」「不安」「期待」を、そのまま言葉にした方がいいんじゃないか?

そこでゴードン博士は「親は人として、人としての子供に接しなさい」と言ってくれる。

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その長いセリフを僕が言った後、子供はチャイルドシートでずっと黙って考えていたんだ。

しゃべらないから、僕もしゃべらなかった。

「カーステレオの曲変えるか?」

と聞いたら、

「ん?、、、いいよ、このままで、、、」

とまた黙っている。

それで、その習い事に着いた時に、

「今日習うやつ、お父さん子供の時おばあちゃんに『やりなさい』ってずっと言われてて、『やだ!』って言ってやらなかったんだ。だけど、大人になってやっておけばよかったなーと思うよ。今度おばあちゃんに聞いてみな。『やだあ!』って絶対やらなかったって言うから。だから君はえらいよ、ちゃんと習い始めた。お父さんとは違う」

と言った。

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それで、帰りは10分ぐらい居残りしてその日の課題を終わらせて出て来た。やる気満々という感じだったので、

「がんばったな」

と言うと、

「えーと、今習いたいのはー、サッカーと太鼓とギター。一番習いたいのはサッカー」

と言う。

「え?そんな習ったら遊ぶ時間なくなっちゃうよ」

と言ったら、

「いいんだよ、それでも、、、」

と「どうにでも好きなようにしてくれ」みたいに投げやりに言う。いや、それはいくらなんでも極端だろう。何か反動的なスイッチが入ってしまったみたいだ。

「いや、遊ぶのだって大事だよ。あんまりたくさん習いすぎると疲れちゃうから。でもサッカーやりたいなら、週一回ぐらいならやってもいいと思うけど」

と言った。

「やれやれ」

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結局、子供のやる気は「場当たり的」だから、それを親が導いてあげる必要がある。

しかし、その「導き方」が一筋縄ではいかないんだ。

子供が自力で「ほどほど」を知るには、まだまだ時間がかかるのだろう。










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子育てマニュアル [育児]

何冊も子育てマニュアルを読んだ。

いつも「参考程度」と思っている。

というより、マニュアル通りにやってうまく行った試しがないし、何よりもそういったマニュアルにはだいたい落とし穴がある。

人はインターネットでも本でも、情報を探す時その中に「自分のほしいもの」を求めてしまう。

例えば「怒らない方がいい」と考えている人が子育てマニュアルを開けば、そこに「怒ることはしつけにはならない」と書いてある。

「いやいや、怒る時には怒らなきゃ、叱らなきゃ」と思っている人が見れば、同じ本の中に「親は時には自分の感情を素直に子どもに伝えることも必要」とか書いてあるだろう。

だいたいマニュアル本には、「〇〇した方がよい。なぜなら、、、」としばらくその効用について書かれた後で、「しかし行き過ぎた〇〇は時にマイナスになる」だから「時には正反対と思われる××も必要になる」とか書いてあるのだ。

一つの方法とその逆の方法を並べて書くことが許されるなら、何だって可能な気がするんだけど。

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子どもが2歳ぐらいの時だったか、朝食の時に出したものが気に入らないと「ギャーッ」と泣くことがあった。

基本的に僕は怒らないようにしてたから、そんな時はしばらく放っておく。

するとどこかのタイミングでケロッとして食べ始めたりしていたので、「まあ怒らなくてもいいか」と思っていた。

しかしさすがに「それもどうなの?」と思って「シュタイナー本」を図書館から借りて来た。

細かいことは忘れたけど、「子どもに寄り添い、子どものペースでゆっくりと一つ一つ丁寧に一緒に行動する」みたいなことが書いてあった。

基本的に共働きで忙しいから、食事は僕らが徹底的に冷ましたり、食べやすい大きさに切ったりして、子どもはすっかり準備が整ったのを「食べるだけ」みたいになってたし、出かける時はジャケットのボタンを止めてあげて靴を履かせて、そのまま抱っこして車に乗せる。寝る時も布団の中でDVD見たり絵本読んだりして、寝る直前に電気消す、みたいに、とにかく何もかもが「慌ただしかった」と思う。

「うわあ、これ全然だめだ」と改めた。

するとどうなるかと言うと、やること全てに「時間がかかる」。子どもにやらせながら、できないところは手伝いながら、何もかもゆっくりやる。

最初は良かったと思うし、そういう「子どもに合わせて行動する」という知識を身につけたことはよかったと思う。

だけど、やっぱり「ギャー」ってなる時はなる。

すると、こっちが必死に時間かけて、自分を抑え付けてやっている分、

「え?今ちゃんとゆっくりやったよね?僕せかしてないよね?何で?間違ってないよね?何で泣く?」

みたいな「不安」は増大する。

同時に、

「いやいや、ここまでやってるんだから、ここで『怒ったり』したら元の木阿弥。我慢、我慢」

と泣き叫ぶ子どもを見ながら、「じーっと」耐える。

次はうまく行くだろうと「あの時自分が手を出したのがまずかったのか?」「『こうやったらうまくいくよ』の一言が余計だったか?」とか、細かい修正を加えて再チャレンジする。

結果は同じか、別なタイミング別な状況で、また同じように「ギャー!」。

妻に思わず言ってしまった。

「、、、あのさ、これシュタイナー本に書いてある?」

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マニュアル本を通して僕らが情報として得る「子育て理念」みたいなものはシンプルで力強い。

本を読んで、なるほど、その通りだ、がんばってみよう、と思う。

しかしそれに比べて現実の生活や子どもが持っている気質のバリエーションなんて無限なんだと思う。

そのケースに全て対応する本なんてこの世に存在しないか、存在するとすれば地球が丸ごと一個収まるような百科全書になってしまう。

そんなのドラえもんの四次元ポケットにしか入らない。

だからその「理念」と「現実」がどんどんズレて来る。

そのズレを埋め合わせるために「さらなる努力」「我慢」を重ねる。

そして一番の問題は、その「やり方」を巡って夫婦の間にも「ズレ」が生じることだと思う。

「あの『言い方』はよくないでしょう」とか「そこはもっと我慢しなきゃ」とか「いやもうちょっと厳しくしてもいいんじゃない?」とか。

何とも言い表しようのない微妙な一言、微妙な「程度」、微妙な「さじ加減」が火種となって、二人の足並みがさらにずれる。

だいたいそういった説明しがたい「すれ違い」みたいなものはどの夫婦にもある。

人の性格や考え方を簡単に「他人が変える」なんてできないから、お互い「干渉しない」ようになる。

子どもがいなくて二人だけだったらそれでうまく回る。だけどそこにそれ以上にコントロールの効かない(またコントロールしてはいけない)「子ども」が関わってきて、共同作業しないわけには生活が回らないのだから、とにかくやるしかない。

衝突するのを無理矢理ごまかし、とにかくがんばる。

全く別なタイプの「ストレス」が重くのしかかってくる。

これは仕事のストレスとはかなり違うし、それに比べれば「仕事の方が楽」と考えてもおかしくない。

(質が違うのだから比べることは不可能なのだが)

「育児を巡るストレス」については、その全てではないにしても育児本に参考例が書いてある。

しかし「育児を巡る夫婦の間のストレス」についてどこかに書いてあるのだろうか?

世間では「育メン」とかもてはやしているが、男が育児に参加することで、問題がより悪化したケースもあるのではないか?

人はそれぞれ個別の、その家族なりの「育児のやり方」を「発明」しなきゃならないんだろう。





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