自閉症スペクトラム [育児]

以前「心の中のエコノミー」という記事で「発達障害」と呼ばれるものについて書いた。もう少し考えてみる。

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日曜日、遅い朝食を食べていたら子供の友達が遊びに来た。

「ご飯食べてるからちょっと待ってて」と言ったのだが、うちの子は待ち切れない感じで席を立って遊ぼうとする。

「ほら、ご飯終わってからだよ」と諭して食べさせた。

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だいたいうちの子は「あ、そうだ!」と思いついたことがあれば食事中でもよく席を立つ。例えば「あの絵本に何て書いてあったっけ?」と絵本見たり、外で何か音がすれば「あれ何?」と見に行ったり。

「食事中は席立たないよ」と一応言うが、そういってる親だって醤油取りに行ったり携帯メール気にしたり時々「席を立つ」ことはあるのだ。

これは食事に限ったことではない。料理したり仕事したり掃除したりしてる時でも「あ、そう言えば、、、」と「思いついて中断する」ことは多々ある。

むしろ例えば「今日ゴミの日だからゴミ先に出しておこう」なんて言う時は、忘れないうちに「料理の途中でゴミ出しする」なんてことだってあるだろうし、「ゴミ出し忘れるよりは思いついた時にすぐやった方がいい」という場合もある。

大人はそういう「プライオリティー」を経験や計画を通じて決定できる。

つまり「いつもはやっちゃだめだけど今は特別やってもいい」みたいな「例外」を自分で決めることがある。

子供はこういうことができない。思いついたら食事そっちのけで遊んでしまったりする。

そして「もう食べない」と途中で食べるの止めたくせに、散々遊んだ後で「お腹空いた」と言ったりする。

だから「食べる時にきちんと食べる」「食事中は食事に集中する」ということは必要だし、それをやらずに放っておいて思いついたことを思いついたままにやってはいけないという「自己規制」を学ぶことは大切だと思う。

ここで問題となるのは「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」ということなのだが、多くの親はそこで「しつけ」と称して「思いついたことをやってはいけない」と命令してしまう。

「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」
「思いついたことをやってはいけない」

この二つの間には「主体的判断」と「命令に従う」という違いがあり、その間の溝はおそろしく深いが、その「溝の深さ」に無自覚な親がたくさんいるのは、自分が「命令されて育ってきた」せいだと思う。

ご飯の途中で席を立つ子供は「多動ではない」。

それが多動なら「子供は全員多動」なのだが、親自身が「しつけの呪縛」にがんじがらめになっているからその「多動」が気になって気になって仕方がない。

「子供だもん、そりゃ動きたいよな」と平然とできない。

「なんでこの子は動いてばかりいるのだろう?」と悩んでしまう。

「厳しさ」が足りないのか?と思ってさらに「しつけ」はエスカレートして、いつの間にか親の「怒り」は容認され、時には「引っぱたく」ことさえも許容されるようになる。

実際僕の周りの家族でも「食事の時は『絶対』最後まで食べさせる」とか「出したもの食べなかったら食事を抜く」とか当たり前のようにやっている親もいる。

それ「ソフトな虐待」でしょう、と思うのだが。

ところがそれでも「嫌なものは嫌!」という「こだわり」を見せる子供たちがいて、そういった子たちが早急に「自閉症スペクトラム」という「障害」に認定され、親子共々「訓育」されようとしている。

もちろん「本当にADHDである」「本当にアスペルガーである」「本当に自閉症である」という場合があるから、子供の様子を見てそこは親が見極めるしかないのは事実だが、「自閉症スペクトラム」という概念にはその「悩む親」を精神医学という権威に従属させて、やがて「反抗分子」となりそうな人間が持つ強い独立性の「芽」を早期に摘み取って、資本主義システムに機械的に「適応」させるためのプログラム的意味合いがある(と僕は思っている)。

子供があっち行ったりこっち行ったりするのはその「並外れた好奇心」のせいだが、その「好奇心」こそが権力にとって面倒な「批判力」の原点なのだ。

だからそこを早いうちに潰しておきたい。

「精神科」という権力装置に縛り付けることで「治療費」を巻き上げ、親の思考と財布から二十三重に「搾取」する。子供の脳みそにレッテルを貼って従順な「畜群」を効率的に作り出す。

植民地はもはや地理的な侵略を意味せず、その「軍事作戦」は人間の心へと展開している。

「支配」されようとしているのは目に見える環境ではなく、人間の不可視の内面だ。

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発達障害には生得的気質に由来する「先天的なもの」と、親のしつけや環境から後天的に生じる「二次障害」がある。もちろんそれが併発する場合もあるだろうし、仮に先天的なものがあっても生育がうまく行けば二次障害は防げる可能性もある。

ここで僕が問題にしているのは「二次障害」の方で、それは将来的には「鬱病」「統合失調症」「解離性障害」はては「人格障害」の原因となる。

ではその「二次障害」の原因はどこにあるのか?

それは「子供」にあるのか?

否。「なんでこの子は、、、」と悩んでしまう親にあるのだと思う。

その親がなぜ「悩む」のか?なぜ子供の多動が「気になって気になって仕方ない」のか?

それは「自分がよい親として認められたいから」だろう。

一体「誰」に認められたいのか?

それが「システム」なのだ。

親が欲しているのは「子供の健全な成長」ではなく、むしろその成長をネタにした「親自身の社会的認証」である。

だから、子供の「多動」のせいでその認証を疎外されそうな親が、「病院」という「権威」に連れて行くことで「この子は自閉症スペクトラムです」という「お墨付き」をもらい、「私のせいではない」と「安堵したい」と思っている。

つまり

「この子が多動なのは『親のせい』ではなく『病気のせい』なのだ」
「この子が出来が悪いのは『親のせい』ではなく『脳機能障害』なのだ」

と思うことで「自分という原因」から目をそらし、それを「子供」へ押し付けて、日々自分を苛む子育ての苦痛を取り除く。

自分は「正しい」と証明して「早く楽に」なりたいから病院に駆け込むのだ。

ここにはぐちゃぐちゃに入り組んだ資本主義システムと人間心理の「倒錯した欲望」の依存関係がある。

ずっと子供は「動きまくっていた」し、そんなもの「元気だなー」で片付けられて来た。

動き回る子供は周囲の大人や兄妹のやっていることを「見よう見まね」で模倣して「だんだん自分一人でできるように」なった。

そういう親密なコミュニティー環境に欠けた「核家族的密室」で「精神の病」を真っ先にわずらうのは、「子育ての責任」を一手に引き受けてきた「母親」だろう。

それはかつては差別的に「ヒステリー」、今ならさしずめ「育児ノイローゼ」と呼ばれ、日本に限らず「近代国家」の中で必然的に生じてきた「ひずみ」である。

その「ゆがみ」が子供にも「しつけ」を通じて受け継がれる。

ずっと放ったらかしにされてきたその「ゆがみ」を、今度は「精神科のお医者さん」が矯正してあげましょうと忍び寄って来て、金づるにしようとする。

薬漬けにして儲ける現代医療が心にも施され、現代人は「家族という牢獄」から順次「社会という監獄」に収監される。

日本だろうが欧米だろうが関係ない。

近代と資本主義は「人間を畜群にするため」に、その最小単位の洗脳装置として「家族という神話」をでっち上げた来たのだ。

ここでゴードン先生の言葉を思い出してみよう。

「間違っているのはいつだって親であり、子供は常に正しい」

そうではないか?

「何をバカな、、、」とこの命題に強烈な違和感を覚える親は、一度「自分の心の病」について考えた方がいいだろう。






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