習い事 [育児]

夕方、週に3回、車に乗せて子供を習い事に連れて行く。

学校から帰って来て友達と遊んでいるから、そこで自分だけ抜けるのが面白くない。

「いいなー、みんなは、何もなくて、、、今日これから鬼ごっこやるって言ってたのに、台無しだ、、、」とぼやく。

車に乗ってしばらくしたら、

「もうやだ、やりたくない、習うのはプールだけでいい!」

と言う(プールは好きなので)。

今までも何回も同じことがあって、大抵の場合それは「友達との遊びを中断する時」に起きる。

だから、決して「心底やりたくない!」という訳ではなく、あくまで「まだ遊びたい!」ということだと思う。

それで僕は何と言って来ただろう?

「高いお金払ってるんだからちゃんと続けなさい!」とか頭から命じるようなことだけはなかったし、これからもないだろう。

だから「もっと考えて」言う。

「やりたくないならしょうがないな。どうする?やめてもいいよ、自分のことだから」

「お父さんとお母さんは将来のことを考えるとやった方がいいと思ってる。でも本当にやりたくないなら考えよう。自分で決めていいよ」

この言い方のどこが間違っているのだろう?

そう思うけど、今振り返ると「決定的な誤ち」がうっすら見える。

それは「正論による頭ごなしの決めつけ」なんだ。

「どうだ? お父さんの言うこと間違ってないだろう? おまえもいつか分かるよ」

という「隠れメッセージ」があるということに気付くために、僕はゴードン博士の「親業」を読まなければならなかった。

だから、昨日は少し違った言い方をしてみた。

「やだ!やりたくない!やめたい!」

と言うので、

「そうか、やりたくないか、、、みんなと遊んでた方が楽しいよな、、、それはそうだ」

とまず「共感」してみた。そして

「遊びたかった?」

と聞いてみる。

「うん、、、」と子供は一瞬黙る。

それから、

「でも友達の中にも習い事してる子もいるし、してない子もいるでしょう? 〇〇は3つも習ってるから大変だけど、他にもそれぐらい習ってる子もいると思うよ。習ってない子は毎日遊べるけど、習ってる子はその分いろんなことができるようになるし、習いものがない日はちゃんと遊べる。お父さんは大人になって「いろんなことがやりたいなー」と思うけど、なかなかできない。子供の時もうちょっとやればよかったなと思う。だから〇〇がやっていることは良いことだとお父さんは思うよ。でも、本当にどうしてもやりたくないなら、無理に続ける必要はない。でも今すぐ決めなくてもいいと思うから、もう少し続けて、それから考えてみようよ」

と、何だか長くしゃべった。

こういう「語り」は、通常の大人の会話でもあると思う。

何か、しゃべりながら、その言っていることを「補強」したり「修正」するような言い方。

子供に対してだと、「どうせ長く話しても分からないだろう」という気持ちがあるからなのか、明快に一言でズバッと伝えた方がいいと思っているからなのか、「短い言葉」になりがちなんだ。

「お父さんは『子供のころにもっといろいろ習えばよかったなあ』と思ってる」

以上。みたいな。

たしかにそれも本心なんだけど、同時に、だからと言ってそれを理由に子供に「無理矢理やらせる」ってのも、正当な理由にはならない。

「迷い」が当然あるんだ。

だからもう一言付け加える。

「君はよくやっていると思うよ」

しかし今度は「君は偉い。だからお父さんの期待を裏切らないでくれよ」というメッセージにもなってしまう。

そこでもう一言付け加える。

「だけど、本当にやりたくないなら、続ける必要はない」

これは「やりたくない!」という子供の気持ちを代弁している。

だけど、ここで終わってしまったら、

「やめていい」

というメッセージになってしまい、それは「君は偉い。続けた方がいい」という前言に矛盾してしまう。

だから最後の最後にもう一言付け加える。

「もう少し続けて、それから考えよう」

と、ここで結論を出さないようにする。

そして実際、僕の心の中で起きることは、そっくりその通りである。

ゴードン博士はこういった「迷い」も言葉にして伝えた方がいいと言うんだ。

この考えが僕にとって「画期的」「目からうろこ」なんだと思う。

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こういう話術をこうやって書き出してみると、結構支離滅裂というか、「あいまい」なんだ。

そして大抵の場合、会話とはそんなものだと思う。

子供に対して親は「威厳を持って接する」みたいにシュタイナー教育とかで言われる。

親は常に全てを見通して、具体的で的確な助言を瞬時に子供に与えることができるし、またそうでなければならない。

そういうプレッシャー。

すると自分の中でもはっきりしないままに、

「やりたくないならやらなくていいよ。自分で決めていいよ」

と「子供の主体性」に丸投げしてしまうような時が出てくる。

シュタイナー的にそうだなんてどこにも書いてないだろうし、僕の単なる読み違えなのだろう。

だけど「親の迷い」を子供に見せるのを許されないような感じはある。

「失敗したっていいじゃないの、人間だもの」みたいないい加減さが認められない。

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だけど、やっぱり、「どうしたらいいのかなあ?」とも思うし、「自分で決めていいよって言ったって、もし『本当にやめる!』とかここで即断されたら、『いいよ』とも『いや、ちょっと待って』とも言えないだろう」とか、次から次へと迷いは生じるんだ。

そこで自分を偽ってまで「親の威厳」を示そうとすると、人によっては

「いい加減にしなさい!何で分からないの?」

みたいになってしまうんだ。

もっと自分が当たり前に感じる「迷い」「不安」「期待」を、そのまま言葉にした方がいいんじゃないか?

そこでゴードン博士は「親は人として、人としての子供に接しなさい」と言ってくれる。

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その長いセリフを僕が言った後、子供はチャイルドシートでずっと黙って考えていたんだ。

しゃべらないから、僕もしゃべらなかった。

「カーステレオの曲変えるか?」

と聞いたら、

「ん?、、、いいよ、このままで、、、」

とまた黙っている。

それで、その習い事に着いた時に、

「今日習うやつ、お父さん子供の時おばあちゃんに『やりなさい』ってずっと言われてて、『やだ!』って言ってやらなかったんだ。だけど、大人になってやっておけばよかったなーと思うよ。今度おばあちゃんに聞いてみな。『やだあ!』って絶対やらなかったって言うから。だから君はえらいよ、ちゃんと習い始めた。お父さんとは違う」

と言った。

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それで、帰りは10分ぐらい居残りしてその日の課題を終わらせて出て来た。やる気満々という感じだったので、

「がんばったな」

と言うと、

「えーと、今習いたいのはー、サッカーと太鼓とギター。一番習いたいのはサッカー」

と言う。

「え?そんな習ったら遊ぶ時間なくなっちゃうよ」

と言ったら、

「いいんだよ、それでも、、、」

と「どうにでも好きなようにしてくれ」みたいに投げやりに言う。いや、それはいくらなんでも極端だろう。何か反動的なスイッチが入ってしまったみたいだ。

「いや、遊ぶのだって大事だよ。あんまりたくさん習いすぎると疲れちゃうから。でもサッカーやりたいなら、週一回ぐらいならやってもいいと思うけど」

と言った。

「やれやれ」

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結局、子供のやる気は「場当たり的」だから、それを親が導いてあげる必要がある。

しかし、その「導き方」が一筋縄ではいかないんだ。

子供が自力で「ほどほど」を知るには、まだまだ時間がかかるのだろう。










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