会話と状況判断 [育児]

妻の誕生日に新しいノートパソコンをプレゼントしたら、妻が「これ私にはもったいないよ。新しいのあなたが使って、私が古いのもらうから」と言う。

すると子供が「お母さんの誕生日プレゼントなんだから、もらえばいいんだよ」と言う。

僕は思わず「そうだよねー」と言う。

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子供が学校に行った後で妻に「子供が言う通りプレゼントは素直にもらわなきゃ逆に相手に失礼だよ」と言うと、

「いや、実はプレゼント買うの忘れてて『自分用に買ったパソコン』を持って来たのかと思った」と言う。

「じゃあ何で開封してないの?そんなことあるはずないでしょう」

「いや、もしかしたらと『勘ぐった』だけ。じゃあ自分で使うから。ありがとう」

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僕が不思議に思うのは、プレゼントに対して妻があれこれ言った時に、「プレゼントなんだから素直にもらえばいい」と子供が言ったことだ。

これは言ってみれば僕の心の声を代弁しているし、「素直に喜んでみせること」は礼儀としても正しいと思う。

「勘ぐる」というのは洞察力と同じ分析的思考だから、世の中を生き抜いていくためには身に付けなければいけない能力ではある。

だけど「勘ぐったり」「言葉の裏を読んだり」するコミュニケーションは、注意深く運用しないと(あるいは逆に考えすぎると)「衝突」の原因になる。

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まず「勘ぐり」と言うのは、「真偽不明」の相手の心の状態を類推しているわけだから、「絶対にそうだ」と確信したところでもそのものズバリを言うわけにはいかない。

せっかく買ったプレゼントに対していきなり「これ自分用に買ったんじゃないの?」なんて言われたらがっかりするだろう。

だから妻も「私にはもったいない」とか別な言い方に変える。

するとその言葉には何か「ベール」のようなものがかかって、一見喜んでいるかのようで、その後ろに微妙に沈んだトーンが透けて見える。

子供の恐いところは、こういう「トーン」や「ニュアンス」を敏感に捉えるところだ。

大人が自分の不愉快さや疑念といったネガティブな考えを適当に耳障りのいい言葉でうまく丸め込んだと思ったところで、そんな表面的な「修辞」に子供はだまされない。

だから子供は時に大人が「ギョッとする」ようなことを言う。

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人はたしかに「勘ぐる」し「裏を読む」。

「疑いの目」で世界を見ることは思春期・青年期の特徴的な思考だから、それは「若さ」の表れでもある。

そういう目で見れば大人なんてみんな「嘘つき」に見えるし、世の中「間違った事だらけ」だ。

しかし社会に出てみれば「本音と建前」なんて当たり前で、いつのまにか自分もその「嘘つき」になる。

そうやって常に自分の本心を隠して相手に取り入ろうとする話術が身に付くと、きっと相手も「自分と同じように何かを隠しているのだろう」と思うようになる。

会話は「腹の探り合い」になる。

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注意した方がいいのは、家庭の中にそういう思考を持ち込まないことだ。

だから妻は僕に間違った対応をした。

そう言うと妻は、

「じゃあ『わあ、うれしい!ありがとう!』とだけ言えば良かったのか?」と言いそうな気がする。

しかし逆だ。

本当は第一声でまずこう言えば良かった。

「プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」と。

僕は「『自分用に買ったの?』といきなり聞かれたらがっかりする」と書いたのだから、それはおかしいだろうと思う。

だけど、問題なのはそこに「悪意」があるかどうかなんだと思う。

もし妻に「悪意がない」のなら、「心に浮かんだことはすぐ口にした方がいい」ということだ。

(悪意が『ある』のなら、それはまた別の話だ)

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会話の続きとしてはきっとこうなるだろう。

「ええ?プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」

「え?そんなことあるはずないでしょう?見てみなよ、梱包されてるでしょう?」

「あ、本当だ。ごめん。いいの?ありがとう!」

これで終わりだと思うし、誰も傷つかない。

(僕は投げかけによって妻に『悪意がない』ことを確認した)

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しかし妻にこういう「言い方」ができるのか?と考えると、たぶんできないだろうと思う。

なぜかと言うと、妻は「勘ぐった」と考えている時点で、そこにある種の後ろめたさがあって、それは悪意とは言わないが「まず最初に僕を疑った」という感覚なんだと思う。

「これ自分用に買ったんじゃないの?」という一言はその言葉自体としてはニュートラルなんだ。

例えばこうだ。

「うれしい!すごい!ええ?まさか自分のために買ったの持って来たんじゃないよね?本当に私の?やったー」

と言うのと、

「え?、、、本当は忘れててまさか自分のために買ったんじゃないんでしょうね?、、、」

と言うことのニュアンスの違い。

いきなり後者の言い方をされたら、たぶん僕もカチンと来るし、どちらかと言うと妻にはまず微妙にそういう「疑念」のようなものが生じたから、別な言葉に言い換えたんだと思う。

だけどもし思い浮かんだのが悪意とは異なる「ちょっとした疑念」があるなら(ないなら素直に喜べば良い)、結局どう取り繕おうとネガティブな「トーン」は子供にすら伝わってしまうのだから、積極的に疑念を払拭するためにもむしろ「真っ先に言ってしまった方がいい」んだと思う。

心に忍び込む「疑い」や「不満」を避けることなんてできないのだから、それを会話のやり取りを通じて解消してしまう。

これも一つの話術だ。

(同時に『一見素直に喜びを表現しているように見せかけて悪意を忍び込ませる』というアクロバティックなことをやる狡猾な人間もいるのだが)

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だけど、どっちにしても「ごまかしたり」「言い換えたり」するのは家庭の中ではやらない方がいい。

まず子供はそういうのを見抜いてしまうし、やがて子供も親の真似をして「ごまかす」ようになる。

それは「嘘をつく」ことを勧めるようなものだ。

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心に浮かんだことは、何でも、例えそれが相手を傷つける言葉でも、とにかく「言葉にする」。

それが家庭の中の会話の基本だと思う。

親はそれを見過ごすのでも責めるのでもない。

子供は美味しくない料理に対しては正直に「おいしくない」と言った方がいい。

そして「なぜそれをおいしくないと感じるのか?」「どうやったらおいしくなるか?」と一緒に考えた方がいい。

「おいしくないなんて作った人に失礼だから言っちゃいけない」というのは「マナー」の話で、子供の「心の発育」とは別の問題だ。

人の心の中には、良いことも悪いことも、人を思いやる言葉も傷つける言葉も「同時に」浮かぶものだ。

そして、それは「口から外に出たがって」いる。

他人に伝達されるのを待っている。

(人は伝えたいから思いつく。思いついたら伝えた方がいい)

だから、大人はその言葉を聞いてあげて、マナーに反するものであれば、一緒に補正してあげればいい。

大事なのは会話であり言葉の「やり取り」であって、言葉の「定義」ではない。

言葉は多義的で、会話の流れの中で少しずつ意味は変化するのだから、その「変化」を見極める読解力(空気を読む力)を育むためには家庭内の会話は「自由」な方がいい。

ふと口を突いて出る言葉の首根っこを捕まえて、怒りとともに「言っちゃいけません!」と命じるなら、それは「考えるな!思うな!思うおまえが悪い!」という呪縛となり、生涯にわたってその人の心と想像力を「監視」するだろう。

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うちの子とふざけて遊んでいると時々はしゃいで「この!ばかクソお父さん!」とか言うことがある。

どこかで覚えてくるのだろうがまったく悪意がない。

そういった「言葉そのもの」を標的にして「親に向かってそんなこと言うんじゃない!」とか激怒して、それをしつけと考える親の方が多数派だとは思う。

だけど僕は我が子を「他人を信じられない人間にしたくない」ので、

「なんだって?それはあまり良い言葉じゃないなー。お父さんに向かって言う言葉じゃないよ」と笑って応戦する。

むしろ思いついた言葉がどんどん飛び出して来る方がうれしい。

「言っちゃいけない言葉」なんてないんだと思う。

「言っちゃいけない状況」があるだけだ。

そして「状況判断」は冷静な分析能力であって、怒りを通じた「抑圧」では身に付かない。




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