子供の主体性 [育児]

子供の主体性を「育む」ことは難しい。

なぜなら、多くの「大人」は、正しい意味で「主体性」を持っていないから。

おそらく、多くの「親」が持っている主体性は、ほとんどの場合その「親の親」から、自分が子供の時に、「強制」や「命令」や「服従」を通じて、心の奥底に「無理矢理」植え付けられたものだ。

そして、そこに「抵抗」「反抗」することを許されなかったために、「真の意味での自発的な主体性」を「抑圧」され、その「自己防衛」のために、「親を喜ばせる」ことで、「偽りの」「コントロールされた主体性」を身につけてしまった。

この「コントロールされた主体性」を暴くことは、当の本人にはまずできない。

分かるはずがないのである。

「コントロールされた主体性」を持つ人は、自分で自分を「客体視」することができない。

なぜか?

簡単だ。

子供の頃にそうやって「自分で自分を客体視して」「自発的な主体性を得る」大事な過程で、その人は「そうすることを許されなかった」。

親に「禁じられた」。

なぜか?

そこで「客体視」すれば、自分が「抑圧」されていることに、子供は必ず「気づく」から。

(多かれ少なかれ、親は子供を『人として成長させる』過程で、子供の際限のない『欲望』を『抑え付け』なければならないから、子供には基本的に『しつけ』は『押しつけ』でしかない)

だから必ず子供は「気づく」から、そこでまず「親に抵抗し、反抗する」はずだ。

この「抵抗」こそ、「人として必要な主張」であるのだから、親だって「おお、いいぞ、いいぞ」と喜んで受け入れるべきことなのに、

「コントロールされた主体」を作り出してしまう親は、その「抵抗」を快く思わなかった。

だから「客体視による主体の形成」を、その親は「許さなかった」「禁じた」。

「主体の芽」を摘んだのだ。

では親はそれを「反抗するな!」とか「抵抗するな!」と言って、禁止したのだろうか?

全く逆である。

親はきっと、子供が例えば「お父さん嫌い!お母さん嫌い!」とか言うことに対して、「悲しい顔」をして見せたのだ。

ではなぜその親は「悲しい顔」をしたのか?

その親はこう思ったのだ。

「私はこんなにこの子を愛しているのに、一生懸命育てているのに、何でそんな心ないことを言うのだろう?何で親の苦労が『分からない』のだろう?」

と。

それがその母親の「悲しい顔」に表れて、それを子供は「読み取る」。

あるいは、「俺はおまえのために自分を犠牲にして働いているのに、何でそんなこと言うんだ!!」という強い怒りをあらわにする父親に怯える。

では子供は「親ががんばっている」ことを「分かってない」のだろうか?

「分かってない」から、「嫌い!」とか言うのだろうか?

これも逆である。

子供はむしろ「完全に理解している」。

「お父さんお母さんはがんばっている」

そう思っている。

だけど、「しつけ」と称して「ルールに従う」のは、人間誰だって嫌なのだ。

僕だって嫌だし、幼い子供ならなおさらだ。

だから、『ヤダ!』『できない!』『嫌い!』と言わせてもらいたい。

子供はそう思っている。

しかし、がんばってる親は、その「嫌い!」とか「やだ!」とか「もうやらない!」とかいう「口答え」に、過剰に反応してしまう。

なぜか?

「自分ががんばっているから、子供にもそれに完璧に応えてもらいたい」から。

誰に見られても恥ずかしくない「良い子」であってほしいから。

そして「良い親」として「自分が見られたい」から。

だから、その「反抗」に、イラつき、がっかりし、「まあいいや~」とのんびり構えられない。

「悲しみ」「怒り」を、薄らとした「表情」で、子供に暗示してしまう。

そして子供は、少しずつ「学んで行く」。

同時に、「蝕まれて行く」。

「親を喜ばせるためには、自分を抑え付けた方がいい。言いたいことを言わない方がいい」

と。

そして自分を抑え付け、笑顔で言う。「お父さん、お母さん大好き!」

「悲しい顔」を見せていた母親、「怒っていた」父親は、たちまち笑顔になる。

そして、「表面上は」万事うまく回って行く。

「子供の我慢」とその「犠牲」の上に、家族の仲は一見うまく行く。

しかし、そうやって「コントロールされた主体」を身につけた子供は、大人になってから、また同じことを繰り返す。

つまり、時に満面の笑みで抱きしめ、時に「悲しい顔」を見せ、「怒り」をぶちまけ、その不安定さによって子供を「服従」させ、同じ「コントロールされた主体」を子供に植え付ける。

なぜか?

その人にとっての「主体性」は、「偽りの」「コントロールされた主体性」であるのだが、当の本人にとっては、それは全く知りようのないことなのだ。

だから、悲しいことに、取り替えの効かない、その「唯一無二のコントロールされた主体性」を「正当化」して、「自己肯定」するしかないのである。

その「主体」を否定するほどの「自己の客体視」を、その主体は「できない」のである。

「できない」のではなく、「許されてこなかった」から「できなくなってしまった」。

だから、本当にそれを乗り越えるためには、自分(その『コントロールされた主体性』)を「犠牲」にするしかない。

しかも「子供のために」「悦びを持って」。

だから、正確にはそれは「犠牲」ではない。

『犠牲』と感じるのは、『コントロールされた主体』の感覚でしかない。

(『コントロールされた主体』は、自分の『犠牲』とその見返りとして子供が『服従』して『笑顔』を見せ、それによってもたらされる『親自身の悦び』という屈折したプロセスで、子育てを『我慢』する)

「真の主体」はまず「犠牲」を感じない。「悦び」しかないし、自分が「楽しい」と感じることしかやりたくないのである。

そしてそれが自ずと子の「主体性」を育む。

果たしてそんなことが、子供を持って初めて、その「コントロールされた主体」に可能なのだろうか?

何をやろうが結局その「犠牲」から逃れられないのではないか?

まるで禅問答のようだ。

だから、僕には分からない。

分からないから、僕は直感で、自分に対しても、子供に対しても「経験」を与えるように、努力する。

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先日こんなことがあった。

仕事仲間の家族と一緒に、今度子供たちも一緒にカラオケに行きましょうということになった。

だから、その日は学校が終わったら、うちの家族だけでカラオケの練習に行こうということにした。

子供を学校に迎えに行ったら、帰り道、何かつまらなさそうにしている。

「今日カラオケ行くよ」と言ったら、「うん、、、」と気のない返事。

そしてしばらくしたら、「今日カラオケ行かない、、、」と言う。

僕は、ちょっとカチンと来て、「分かったよ。じゃあ今日はカラオケ中止。行かないよ」とあっさり言って、そのままカラオケの話はしなかった。

家に着いてから、子供は何かベソをかいたようになり、一人でレゴを始めた。

それを僕の母、つまり「おばあちゃん」が見ようとしたら、逃げたり無視したりした。

それもかなりしつこく。

子供は「おばあちゃん」に対して、そういう意地悪なことをすることが時々あるので、その日は僕も怒った。

「そんな風に人を無視してると、自分も友達に学校で同じことされるよ」と。

それでもまったく意に介さず、一人で床でゴロゴロしているので、僕もそれ以上言うのを止めた。

僕はイライラして、無言になった。

おじいちゃんおばあちゃんが帰る時も、子供はあいさつもせず、僕の足にからみついてくる。

「許して」とでも言いたいのだろうが、僕も今日ばかりは我慢ならなかった。

その手を無言で振りほどき、二人が帰った後、はっきりと、きつい口調で、

「〇〇!人のこと無視するなよ!」と怒った。

(そう言いつつ、『おまえ、自分だって子供のこと報復とばかりに無視しただろう?』と思った)

子供は玄関のところでいじける。

妻にも「何であんなことするのかな?やっぱり父と僕が、母(おばあちゃん)に対してそういう態度取ってるから、その力関係を子供も分かっていて、一番弱い母をいじめるんだ。だから、そういうところから修復していかないとだめだ」と言う。

妻は「もっとちゃんと言わなきゃだめだよ」と言うが、「いや、『言う』だけじゃだめなんだよ」(つまり僕らの態度、振る舞いも変えなければならない)と僕は言う。

妻は「おばあちゃんだって悲しいよ、、、」みたいに話す。

子供は「テーブルの下」に隠れたりして、僕の顔色を伺っている。

そして、だんだんと僕も、自分自身について考え始める。

実は僕自身、今日は「面白くないこと」があって、ずっと「不機嫌」だったのだ。

だから、「実はさ、、、」と言って、今日あった「理不尽な出来事」を妻に話す。

(仕事場の『水道』が、『手違い』で止められてしまったことについて)

それがもうとんでもない勘違いが伝言ゲームのようになって、おかしなことにおかしなことが重なった話なのだが、おかげで僕は一日不便で、問い合わせなどで無駄な時間も過ごしてしまった。

その一部始終を僕は夢中で話して、

最後に、水道を開栓しに来た「罪の無い」若い水道局の人に対して、僕が怒りもあらわに「はい、分かりました、、、」とぶっきらぼうに言ったシーンを演じてみせたら、

それを子供がえらく面白がって、とうとうテーブルの下から出て来て、

「もう一回今のマネやって!」とせがんで、自分もそれを真似して、大笑いし、険悪な雰囲気は一掃した。

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その夜、家のステレオを聞きながら、カラオケで歌う歌の練習をしていたら、子供がポツンと言った。

「あ~あ、咳早く治らないかなあ、、、」と。

(子供はここ一週間ほど咳が出て、声がおかしくなっていた)

「そうだね、、、歌えないもんね」と僕。

「歌も歌えないし、学校もつまんない」と子供。

「どうして?」

「だって、遊んでても、お話してても、ゴホンゴホンってなって、つまんない、、、」

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そこで僕はようやく分かった。つまり、今日子供が「つまらなさそうに」学校から帰って来た「原因」は、その「咳」にあった。

そして僕は、そんな子供の「咳」のことも気遣わずに、「今日カラオケ行くよ」とぶっきらぼうに言って、それに対して「行かない」と言った子供に対して、「じゃあいいよ。行かないよ」と「子供のせいに」して、行かないことを決めた。

「だから」子供は、その理不尽な怒りを「おばあちゃん」という弱者にぶつけた。

本当は僕も、子供が「つまらなさそうに帰って来た」時、「どうした?咳大丈夫か?カラオケ行けるか?」とでも聞くべきだったのだが、その日は僕もその「嫌なこと」があって、最初から不機嫌だったのだ。

そういう諸々の連鎖があって、こういう出来事が生じてしまった。

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そして次の日、子供の咳はほぼ治ったので、また学校からの帰り道に僕は言った。

「今日カラオケ行くよ」

すると子供はまた、

「カラオケ行きたくない」

と答える。

僕は「何だよ、またかよ」と思う。

(うちの子供は大抵最初に『やだ』と言う。どこの子でもそうなのかもしれないが)

それで「どうして?」と聞く。

「行きたくない」と子供。

「分かった。じゃあいいよ。行きたくないなら、行かなくていいよ」と僕。

「、、、、分かったよ!じゃあ行けばいんでしょう!」と子供。

僕はそういう言い方をした時は、まず乗らない。

「いや、行きたくないなら行かなくていいよ。お父さん無理矢理行かせたりしないから」

と言う。

すると子供が、

「、、、だって、、、ずっと公園行ってないから、、、カラオケ行きたくない」

僕は「しめた」と思う。

「そうだね。風邪治って、久しぶりに公園行きたいよね。じゃあ公園で遊んでから、カラオケ行く?」

「うん」

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そして僕らは公園でたっぷり遊び、夕方からカラオケで練習をし、子供も楽しそうに歌った。

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この出来事で重要なことは、子供が「カラオケに行きたくない理由を自分で言ったこと」だ。

そして、それはとてもはっきりした、正当な理由であり、それを子供は「主張」した。

僕もたしかにイライラして怒ったりしたことはあったけど、「理不尽に子供に責任を押し付けたり」「無理矢理やらせる」ことはしなかった。

だから、結果として、子供は心を開いてくれたと思う。

人間は、お互いの心を読み合わなければならないが、それはとても難しい。

全て以心伝心というわけには行かない。

だから、我慢したり、譲ったり、逆に主張を通したりする。「言葉」を通じて。

そのためには、自分がどこまで譲歩し、どこから譲らないのか、その「境界」を自分で知らなければならない。

そして、それを「毅然として」他者に伝達できなければならないし、それが「主体性」と呼ばれるものだ。

人は「権利」として、「反抗」を許される。

そして、それは子供が「経験」で学んで行くことだ。

まず最初に、「親」という他者との関係と、それへの「抵抗」を通じて。

そのためには、親もまた、子と一緒にトライ・アンド・エラーを繰り返し、その「経験」をセットアップして行く必要がある。

その時、親の「主体」と、その「境界」が試されている。

それが不安定なままなら、試行錯誤そのものが、単なる混乱にしかならず、それが子供の主体の不安定さとして植え付けられてしまうだろう。

心してかからなければならない。









子育てと運命 [育児]

今朝妻と話していて、

「君は血液型やDNAもそうだけど、自分の性格や人生について運命論的に考える傾向がある」

と言ったところ、

「あなただって『俺には無理』とか言って、できないことを自分の境遇のせいにすることあるんだから、同じ運命論者だ」

と言われて、何だか混乱してしまった。

このことを、子育てに対する自分の考え方と一緒に、整理して説明してみようと思う。

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まず、自分は運命論者(人生はあらかじめ神や運命によって決定されたものと考える)ではない。

だけど、だからと言って、「運命を信じない」のかと言えば、まったくそうではない。

逆にむしろ「運命を信じている」ぐらいだ。

こんなこと言うとまるで矛盾したことを平気で言う分裂症みたいに聞こえる。

しかし、これは「運命」という言葉の持つ意味を、明確にしていないために、そう聞こえるだけで、僕の中では筋が通っている。

つまり、こういうことだ。

僕は、

「『すでに起きてしまったこと』は『運命』として受け入れる。しかし『これから起きること』は『いまだ決定していない』から、自分で変えることができる」

そう考えている。あるいは、

過去は「決定したものとして受け入れるしかない」

未来は「決定していないものとして変えることができる」

と考えている。

そして、僕が言う「未来」とは、絶えず「過去=運命」になっていく「現在」のことだ。

だから、僕はやがて「過去=運命」となって僕とその人生を変えて行く「未来」へ突き進んで行く「現在」にアプローチする。

結局僕が自分の「意思」で変えられるものは、「現在」しかない。

そして「現在」を変える僕自身の行動が、「過去=運命」を次から次へと作り出して行き、それがやがて「未来」を変えて行く。

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先日こんなことがあった。

僕たちが住む市内の子供たちとその父母を集めたイベントがあって、そこで最後に豪華景品が当たる「抽選会」があった。

イベントは一部二部に分かれていて、何か役所関係の偉い人や、どこかの小学校の校長先生があいさつしたり、教育アドバイザーみたいな人が子育ての講演みたいなことをした。

たいして面白い話ではなかったし、皆ざわついて、走り回っている子供もいた。

ただ、その「校長先生」がユーモアのある人で、説教くさいことをまったく言わずに、クイズを出したりアンパンマンの真似をしたりして子供を笑わせ、そして最後に「お父さんお母さんにお願いがあります。この二つをぜひお家で実践してください」と言った。

一つは「子供を早く寝かせる」

もう一つは「子供を抱きしめてあげる」

何て事ないことだが、僕はとても深い言葉だと思った。

その意味については最後に書く。

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一部と二部の間で休憩があって、妻はその時に「どうする?もう帰る?」とため息まじりに言った。

こういう義務的に参加しなければならないようなイベントに「うんざり」するのは妻の「悪い癖」(僕はそう思っている)で、今まで何度も「いや、行こうよ」「やった方がいいよ」と僕は言って来たのだが、そうやって「がんばって参加する」と、妻は極端に疲労してしまう。

何でそんなに「大変」なんだろう?と思うのだが、おそらくこれは、妻の母親が、そういった「義務的」「強制的」な「参加型イベント」のようなものを「避けて来た」せいがあるのだろうと思う。

なぜ「避けて来た」のかと言うと、まず「義務的である」ことが「不毛」と考えているからだ。

そして、「不毛だ」と思っているから、そこに参加することは「苦痛」になる。

ところが、多くの父母はそんなことを考えない。

「義務だから」「みんな行っているから」「賞品もらえるから」

そんな理由で参加しているに過ぎない。

だから、僕もそんな非主体的な人間と一緒にぼけーっと参加することは「不毛だ」と思う。

同時に、「それを言ったらあらゆるものが不毛だし、人間社会そのものが不毛だ」とも思ってしまう。

(そして妻の母には、そういった極端なペシミズムと、その対局にある理想主義が同居していて、妻もその考えを引きずっている)

しかし僕はそこで、「だけど」と思う。

「だけど、そこに生きざるを得ないのが人間じゃないか」と。

そしてまた考える。

「俺がもし、このつまらないイベントの『あの壇上』に立たされたら、果たしてあのユーモラスな『校長』のように、気が効いたことを話せるだろうか?」

そしてこう思う。

「いやいや、できない。むしろ、あの教育何とかアドバイザーみたいに、パワーポイントで誰も読まないようなグラフやら文字でいっぱいのスライドを用意して、会場がざわつこうが子供が走り回ろうが気にもせず、『ご清聴ありがとうございました』などと満足げに締めくくって、自分では『いい仕事をした』などと思うタイプだ」

だから、一応はそういう場を作った役所関係のオーガナイザーやらイベントスタッフには敬意を表すし、結局、そういう場に自分の子供も「巻き込まれていく」のは分かり切ったことなのだから、「えーい、なるようになれ!」という感じでむしろ「飛び込んで行く」。

「なるようになれ!」という諦めた感覚よりは、「まあ別にいいんじゃないか?」ぐらいの脱力した感じだが、僕はそこに「ゆるい好奇心」みたいなのを持っていて、微妙にワクワクしてしまう。

そして、たいていその「ワクワク」は、良い結果を生む。

それは今回はこんな感じだった。

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妻は「どうする?帰る?帰ってる人もいるよ」と僕に聞いた後、子供に「帰りたい?」と聞いた。

こういう聞き方をすれば、たいていの子供は「帰りたい」と言う。

なぜかと言うと、「帰りたい」のは子供ではなく、「妻」の方だから、子供はその気持ちを反映して「帰りたい」と言うからだ。

だから僕は言った。

「いや、帰らないよ。帰らない方がいい」

そして

「ほら、あそこにお友達いるよ、行ってあいさつして来なよ」

そう子供を「焚き付ける」。

子供は「やだ、はずかしい」と言って最初は行かない。

しかしこれもいつものことだ。

するとその友達がこちらにやって来て、声をかけてくる。たちまちうちの子も一緒に会場を駆け出す。走り回る。

これだけでも僕は「残って良かった」と思う。

そして第二部が始まる。さらに輪をかけてつまらない話が続く。子供はもう飽きて通路を上ったり降りたりしている。

しかし最後にみんなで歌や踊りをしたところでは、とても楽しそうにしていた。

いよいよ最後のイベント。抽選会。

これが、今回僕がもっとも気に入った、「運命的な出来事」だった。

賞品はかなり豪華で、自転車やCDラジカセなんかが当たったのだが、とうとううちの子供の名前は呼ばれなかった。

うちの子はビンゴとかくじ引きとか、割と「くじ運」は良い方で、今までにも何度か「一等」を当てている。

だから今回も「きっと当たる」と妙な自信を持っていたのかもしれない。

途中「当たったら、一人で行くのやだ。お母さん一緒に行って」と、すでに「当たったかのような気分」になっている。

しかし、結局、最後まで、何も、一番安い文房具セットみたいなものすらも、当たらなかった。

しかも途中、知り合いの、うちの子供が「好きな子」が、「図書券5000円分」みたいなのを当てたものだから、余計にショックがでかかったのかもしれない。

根拠の無い、誇大妄想的な「自信」、子供が誰でも持つ「全能感」は、もろくも崩れ去った。

子供はポロポロと涙をこぼし始める。

「なんで、、、、なんでだよお、、、なんで当たらないんだよお、、、」

こうなることは分かっていた。だから僕もできれば「当たってほしかった」。

子供の喜ぶ顔を見たかった。

だけど、これもまた「人生」だ。

そういう時もある。

だから、僕はそこで気持ちを切り替える。

「よし、この『不運』に最後まで付き合おう」

と。

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子供は帰りの車の中でも「当たらなかったー!」とずっと泣き続けた。

「当たる時もあれば当たらない時もあるんだよ。しょうがないんだよ」とか「次は当たるよ」とか、僕たちなりに慰めたけど、どうすることもできなかった。

ここで「じゃあ、〇〇買ってあげる」とか「おいしいの食べよう」とか言うこともあるだろう。だけど、僕はそんなバーター取引みたいなことはしない。

そんなことで、せっかく僕らとその子供に与えられた「運命」を無駄にしたくない。

だから、とりあえずスーパーに「買い物」に行くことにした(もしかしたらその買い物の最中に『甘いものぐらい買ってあげてもいい』と思いつつ)。

そうしたら、本当に、さらに神がいたずらをしたかのような運命的なことが起きた。

さっき「図書券5000円」を当てた「うちの子が好きな子」が、まったく同じタイミングでそのスーパーに来て、入り口のところで鉢合わせしたのだ。

僕はそのお父さんのことも知っているので、「すごいですね。何か当たってましたね?」と話しかけた。するとそのお父さんは「いやあ、何か商品券みたいなの当たって、、、」と答えて、その「うちの子が好きな子」が「〇〇ちゃん!」とうちの子供に呼びかけたのだ。

この状況にうちの子供は脳天を打ち砕かれるようなショックを受けたのだろう。

自分は何ももらえず、打ちのめされ、さらに自分の父が自分の好きな子の父に「すごいですね!」などと話しかけ、あろうことか今度はその子に「話しかけられ」、言ってみれば「傷口に塩を塗られた」のだ。

僕が振り返ると、子供は背中を向けてスーパーの裏口の方へスタスタと歩いている。

もういても立ってもいられないのだ。

僕が追いかける。追いついて、顔を見る。今にも泣きそうな顔で一心に歩き続けている。

「〇〇、何やってるんだ?どこ行くの?雨に濡れるだけだぞ。戻ろう。買い物行くよ」

とたんに「うわーん!」と泣き出す。僕は手を引いて店の裏にある入り口に戻る。

妻も待っていて、慰める。

だけど、もうだめだ。どうすることもできない。僕も何度も言う。

「当たることもあれば、当たらないこともあるんだよ。しょうがないんだよ」

子供は靴を脱ぎ捨て、僕らにぶつけようとする。

妻が耐えられなくなったかのようにとうとう言う。

「じゃあ、おいしいもの食べる?何が食べたい?」

そこで僕はそれを制する。

「ごめん、ここは僕が何とかするから。大丈夫だから。買い物して来て」

妻も今回は諦めて僕らから離れた。

子供を抱きしめて、もう一度僕は言う。

「これはしょうがないことなんだよ」

子供は裸足で、自動ドアの隣に寝転び、恐ろしい叫び声を上げて泣く。

自分の頭を叩き、袖を噛み、自分の指を噛み、

「当たりたかったあ!!当たらなかった自分は馬鹿だあ!!バカだあー!!」と泣き叫ぶ。

今までスーパーやおもちゃ屋で、床に転がって「買って買って!!」と泣き叫ぶ「ヨソの子」を何度も見て、「うちの子はこういうことはないな」と思って来たけど、こんなことは初めてだった。

スーパーの店員が時々覗きに来たし、店内で声を聞いた客も、何か虐待でもしてるんじゃないか?という感じで、興味津々で裏口から出て来て、僕らを憐れな目で見て通り過ぎた。

とうとう最後に子供はしゃくり上げながら、「お母さん、、、お母さん、、、」と泣き始めた。

そこで僕も耐えきれずに、何も言わないで抱き上げた。

妻も戻って来て、声をかける。

それでも子供はまだ泣き続けている。

ふと店内を見ると、「うちの子の好きな子」のお父さんが、レジで会計をしていて、一瞬僕の方を見て目を伏せた。

おそらく、僕らの子が「くやしくて泣いている」のが分かっているし、それが自分の子供が景品を当てたせいでもあるということが分かって、何かバツが悪い感じを覚えたんだと思う。

だけど、その後また僕を見て、帰り際に「にっこりして」会釈をした。

僕も子供を抱きかかえながら、微笑んで会釈をした。

僕は、そのお父さんを「とてもいい人」と思った。

これもまた、ある種の運命的な出来事だと思った。

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その後、子供は「お腹が減ったー!」と泣いたので、いつものパン屋で好きなクリームパンを食べて、ようやく機嫌が直り、そしてその後珍しく2時間ぐらい寝てしまった。よっぽど疲れたのだろう。

子供が寝ている間、僕らはその出来事について話し、僕は、

「このあと、もう一度、『当たることもあれば、当たらないこともある。それはもうしょうがないことなんだ』ときちんと言葉にして伝える。例えそれが子供にとって、『もう思い出したくないこと』であり、それによってもう一回子供が泣いたとしても、僕はその話をする」

と妻に言った。妻は「私には分からない」と言った。

おそらく、わざわざ抽選会まで残って、そこでハズレて嫌な思いをして、それをさらに掘り返すような僕のやり方に、納得が行かないのかもしれない。

だけど、そういう「不運」を直視して、自分で乗り越えて、その思考プロセスを自分で「体験」する、神が与えたかのような「運命」を、僕は無駄にしたくないし、むしろその「運命」を呼び込むために、僕はあの場に「留まった」のだ。

だから、僕は最後まで付き合う。そう決めた。

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その夜、僕と子供は、「いつものように」一緒に湯船につかり、「いつものように」レゴの船で「ごっこ遊び」をした。

僕は「今がチャンスだ」と思って、今日の話を切り出した。

「〇〇、今日クジ当たらなくて、スーパーの外で泣いたでしょう?悔しかったの?」と僕は聞いた。

すると子供は、レゴを持った手を止めて、真剣な顔になって、「、、、うん、、、当てたかった」と涙ぐんで答えた。

「そうだね。当たったらよかったよね。だけど、当たる時もあれば、当たらない時もある。それは〇〇のせいじゃないんだよ」

子供は一点をじっと見つめて、返事をしない。

僕は話を続ける。

「△△ちゃん(うちの子が好きな子)は当たったね。だけど次は△△チャンがハズレて、〇〇が当たるかもしれない。それは分からないんだよ。だから、明日学校に行ったら、△△ちゃんに『当たって良かったね』って言ってあげなさい」

(この『当たって良かったねって言ってあげなさい』という言葉は、言うつもりはなかったけど、何となく流れで口から出てしまって、僕は自分で気に入った)

子供は何も言わない。一点を見つめたままだ。

だけど、僕には分かる。この子が「ちゃんと理解した」ことを。

だから、僕は、「ごっこ遊び」に戻った。

「今日の海は静かだなあ。潜水艦はいないのかな?どこだ、どこだ?」

子供はしばらく、その世界に入れないかのようにまじめな顔をしていたけど、すぐに、

「どかーん、ばしゅーん」とか言って、僕のボートを「攻撃」してきた。

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そして次の日の朝、僕は「いつものように」、学校に向かう道を途中まで一緒に歩いた。

雨上がりで、道路は濡れて、ところどころ水たまりができていた。

そして「いつものように」、子供は、「ただいま雨雲の中を飛んでいます」と飛行機の真似をして、水たまりのところに来ると、「あ、台風です」と言ってそれを避けた。

すると子供が突然、とても明るい声で、

「△△(好きな子)すげえな」と言った。

だから僕も「おっ」と思って、

「すごいよね。当たったもんね」と答える。

子供は「最初住所が呼ばれて、名字が呼ばれて、絶対△△って思ったら、やっぱりそうだった」

とうれしそうに言う。

「そうだね。今日会ったら、『よかったね』って言ってあげな。△△ちゃん、きっと喜ぶよ」

「うん」

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子供が本当にその子に「よかったね」と言うかどうかはどうでもいい。重要なのは、子供が自分の力で、その心の中のコンフリクト、矛盾、不運、理不尽さを乗り越えて、そして「笑顔」でそれを言葉にできるようになったことだ。

そのために、その「経験」を与えてあげるために、僕はあの場に「留まった」。

だけど、何が起きるかなんて、僕には予測も予想もできなかった。

ただ直感的に、「ゆるい好奇心」を持っていただけで、結局「つまらないまま」何も起きず、「不毛なまま」家に帰ったかもしれないし、もしかしたらまた「一等」をうちの子が引き当てて、歓喜の中で、さらなる「全能感」をうちの子は持ち続けたかもしれない。

だから、結局は「起きたこと=過去=運命」を僕は作り出すことはできなかった。

ただ、その入り口を変えたのは、僕ら親の行動であり、その判断なのだ。

そしてもう一つ重要なのは、そうやって生じた「運命」を生かすも殺すも、僕ら親が日々の生活を通じて築く、子供との「何気ない会話」をできるかできないか?なんだと思う。

そういった親子関係が築かれてなければ、それを伝達する言葉も単なる「説教」にしかならない。

「運命」を子供に伝え、納得させ、子供の身になるようにするための全ては、「日常」にかかっている。

だから僕は、毎日同じように子供と風呂に入り、毎日同じようにごっこ遊びをし、いつも同じように、雨上がりの道路にある水たまりを「台風に見立てて」歩く。

生きた言葉を伝えるために。

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そして最後に、僕が今回感じたもう一つ重要な出来事である、「校長先生」が言った、「子供を抱きしめてください」というあの言葉。

今回の出来事でどんなに僕が「運命」を「言葉」で子供に伝えたとしても、結局僕は子供を本当の意味で「安心させる」ことはできなかった。

スーパーの裏口で子供が地面を転がり回って泣き叫んだ時、父親の僕がどんなに「説明」しても、僕にはどうすることもできなかった。

そして子供は最後に「お母さん、、、お母さん、、、」としゃくり上げたのだ。

だから、僕は「抱き上げた」。

だけど、本当の意味で「抱きしめる」ことができるのは、ただ「母親だけ」なんだと思う。

母親の存在は言葉ではない。

だからあの「校長先生」は最後に、

「子供を抱きしめてください」と言ったのだ。



育児は育自 [育児]

(タイトル思いつきなんだけど、そう言ってる人は多いみたいですね、、、。)

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僕は子供を「できる限り怒らない」ようにしていると書いた

厳しくすることはあっても、感情的に怒らない。

理由は、子供が何か気に入らないことに対して泣いてもわめいても、それを「わがまま」と思っていないからだ。

むしろ、そういう場合、大人である僕らのやり方が「何か間違っているのではないか?」と思っている。

子供を朝無理矢理起こさなければならないのも、前の日に早く寝かせなかったせいだし、早く寝なかったのは、十分に体を動かして遊んであげなかったせいだし、遊ぶ時間がなかったのは、仕事が忙しくて食事を作るのに時間を取られてしまったからだ。

要するに、子供には強烈に「こうしたい、ああしたい」という欲望が怒濤のように流れているのに、親の方は生活を支えるための「労働」に追われて疲労し、それを受け止めるだけの時間的余裕も、精神的余裕もなくなっているからだ。

大人はいろんな「欲望」を子供に与えておいて、子供はそれを何度も繰り返して楽しみたいだけなのに、時間がないとか面倒くさいとかいう大人の「都合」でもってその行為を中断させられて、「もっとやるー!」と泣きわめいたら「聞き分けがない!」と怒鳴られれば、それは子供にとってものすごく理不尽なことだと思う。

僕らの子供が朝食の時クロワッサンの皮をきれいに剥がすことにこだわったのだって、そりゃきれいに「パカッ」とはがれた方が気分がいいし、中のふわふわの固まりをそっくり丸ごと取り出して食べた方がおいしいに決まっている。

子供はその「快楽」を繰り返し味わいたいから、当然のように同じものを期待する。

大人は「まあいいか。また次があるさ」と「断念」したり「我慢」したりできるが、それは「過去」や「未来」と言った時間の感覚があるからで、時間の感覚が生じるためには、自分を客体化して、空間の中に位置づけて、他人と自分、世界と自分を相対化して見ることができなければならない。さらに、そういう相対化のためには「言語」を体系的に学ばなければならない。

子供にとってはその「欲望」が全てであり、それを相対化して「諦める」ことなどできない。「現在が全て」で、その欲望は「今ここ」で実現されなければ、永遠にやってこない。

壊れてしまったおもちゃは永遠に壊れたままだし、崩れてしまったクロワッサンの皮は二度と元には戻らない。

大人はそれを「また買えばいい」「また作ればいい」と簡単に、さも「論理的に」考えているかのように言うが、同じ形のクロワッサンは一つとしてないし、次に皮がきれいにはがせる保証もない。もし明日大地震が来てパン屋が潰れたらクロワッサンは食べられない。

だから、時の流れは一度しかないという「現実」を考えれば、子供の主張にも一理あるし、「聞き分けがない」とは言い切れない。

僕らは言葉体系の中で「仮説」を立てて、「たぶん大丈夫だろう」ととりあえず安心しているに過ぎない。

「言葉」はいくらでも教えられるけど、言語の「体系」は一度には教えることは難しい。「言葉」は欲望を増大させるけど、それを自在に操ってその「暴走する欲望」をコントロールするためには、「体系=システム」は経験を通じて「身につけて」いかなければならない。

絶対的で利己的な「欲望」と、それを実現できず、またコントロールすることもできないことに対する「いら立ち」。

その狭間で身動きが取れなくなって、親に助けを求めて「泣く」。

それはむしろ「わがまま」と言うよりも、人間に付きまとう「苦悩」の表れだろう。

もちろん「ぎゃー!!」と泣きわめく子供に微笑んで寄り添うのは難しい。

しかし、少なくとも「わがまま言うな!」と突き放して解決するものではない。

たぶん、「親」しかその最後の理解者にはなれない。

だけど親も社会も「わがままさせると癖になる」とか「怒るべきところでは感情的になってもいい」とか、それを「しつけ」と呼んで、子供を「社会化」させるための必要条件みたいに正当化している。

本当は、ただ親は忙しいだけでその子供の欲望に付き合ってる「ひまがない」のだし、何よりも、そうやって感情的に怒鳴りつけて子供を黙らせて、後で落ち着いてから慰めるとかした方が、大人にとって「楽」なのだ。

それに親がカリカリして不安定になると、子供も自分を守るためにご機嫌取りを始めて、早く「大人になる」。そこで「良い子だね」とほめてもらえれば、親の顔色を伺いながら、いずれ聞き分けはよくなる。

ただし、それは子供の内部からわき上がる欲望(生の欲動=リビドーと言ってもいい)に対する「抑圧」でしかないから、度が過ぎるとどこかでしっぺ返しを食らう。

例えば、スーパーなど人前でひっくり返って泣きわめいてアピールするのも、親に対する復讐だし、それをさらに親が引っぱたいて押さえ込むなら、いずれその反動が激烈な反抗期となって現れるだろうし、虐待にまでエスカレートすればそれは精神的な傷(トラウマ)となって無意識に残り、歪んだ欲望(例えば犯罪、性的倒錯、虚言癖)となってブーメランみたいに「回帰」するだろう。

つまり、どんな形をとってでも、一旦芽生えた欲望は、是が非でも「実現」されなければならず、それこそが人間を突き動かす原動力であり、不可能を可能にして文明を築いてきた。

こどもはその「人間の力」をあるがままに、むき出しにして生きているだけなんだと思う。

それをどう導いて「自己実現」させるか。あるいは反対に「抑圧して社会化」してしまうのか。

そこで「怒らない親」もたくさんいるだろうし、みんな試行錯誤している。

早期教育やシュタイナー教育を勉強して、「よかれ」と思ってあれやこれやと「がんばって」やる。

一生懸命子供のスピードに合わせて、子供の目線で、何度も繰り返してその「やりたいこと」に付き合って、「やりたくないけど、やらなければならないこと」を如何に自然に身につけさせるか工夫する。

仕事もして家事もこなし、さらに時間を作り出して、子供のスローペースに付き合って、丁寧に子供の自発性を引き出すために「身をすり減らす」。

ところが子供の性格や生活環境も千差万別だし、教科書通りにうまく行かないのだ。

それでイライラしていたら元も子もないから、「がんばってる姿が子供にも伝わる」と自分を慰めてまたがんばる。

(人前ではこれ以上ないぐらい優しいのに、見えないところでびっくりするぐらい激怒するような親に出くわすこともあるが)

ここに教育熱心な親があまり気がつかないもう一つの落とし穴がある。

その「がんばり」がまた、子供にとっては一つの「抑圧」になってしまう。

(人間の精神はおそろしく面倒くさくできている)

子供は敏感だから、自分のためにこんなにがんばってくれるお父さんお母さんの期待に応えようと、「親のため」にがんばり始める。

こういう核家族的「悪循環」にはまり込むのは、自分もかつて「親の期待」を背負って育てられて成功したり、あるいはその期待に応えられなくて自信喪失したとかいう経験があって、それを知らず知らず「親になってから」繰り返してしまうからだ。

自分のサクセスストーリーは「理想」となり、失敗や後悔は「実現されなかった欲望」となり、「親になった自分」に「回帰」してくる。

とにかく、どんな形でも「欲望」は舞い戻ってくる。

子を思うあまり、親が自分でできもしないことを子供に無理矢理「押し付ける」ことも問題だが、親が自分の器以上のものを子供に「努力して教えよう」としたって土台無理なのだ。

矛盾してるようだけど、結局子供には「言葉では何も教えられない」。

「親の背を見て子は育つ」とか「子は親の鏡」とか言うけど、子供ができて思うことは、まさにその通りで、子供っていうのは親の無意識、親の「人間そのもの」なんだ。

冷静になって、社会的肩書き取り払って、「素の自分」を見てみれば、よっぽどの超人でもない限り、まあ「たいしたことないな」となるだろう。

そこで「じゃあ駄目な親からは駄目な子供しかできないんだ」と開き直ったり、「どうせこの子は私の子だからたいした人間じゃない」とか思う人だっているだろう。

ぶっちゃけて「もういいや」と半分育児放棄するような人だっているだろう。

(『俺は素でも超人だ』という人は、そのまま己の道を突き進んで子供も巻き添えにして世の中を変えてほしい)

しかし、「どうせ駄目だから」で済ませられないでしょう、かわいい我が子だもの。

やっぱり何とかしたい、と大半の人は思う。何とかやれることをして子供の持つ可能性を引き出してあげたい。

だから考える。「とにかくやるしかないだろう」と自分を肯定する全てを引っ掻き集める。

人より得意なこと、これは楽しいと心から思えて「悦び」を伴ってやれること、面倒くさいけどやらなきゃならないと思って習慣化して自然に身に付いていること。

そういう一切合切を積み上げた「ありのままの自分」で自分の人生を生きる。子供はそれをDNAレベルでコピーしていて、最も身近な「見本」として、生活の中でもコピーしていく。

だから、親がやらなければならないことは、「子供のためにがんばる」んじゃなくて、まずは「自分のためにがんばって」「自分を磨く」ことなんだと思う。

で、この「自分を磨く」っていうのは、「他人にどう見られるか」っていう問題を含むから、学生も社会人もみんな普通にやってることなんだと思う。

若い頃にはただとにかく「もてたい」とか「かっこいい(あるいはかわいい)って思われたい」とか思ってやってた努力も、仕事のノルマ達成のために馬車馬みたいにがむしゃらに働いた時の「意地」も、それは結局自分の「欲望の現れ」なのだから無駄じゃなかった。

「他者の視線」を感じることが大事なのだ。

その「視線」を、人間性とか行動力とか知性とかに対するものと考えれば、「見られる」ということは、人間を突き動かす根源的な精神作用の一つなんだと分かる。

芸能や政治はその「見てくれ」や「はったり」が特化した世界だろう。

そして同じように子供も親を見ている

「見かけ」や「業績」などよりももっと深い部分で、「人間」を素直に敏感に洞察し、心のあり方まで「真似て」いる

親が「こりゃ楽しいぞ!」って思うことを子供は「楽しい!」と思うわけだし、「これは面倒くさいけど、やるしかないな」と思って習慣化して身に付いたことは、子供だってそういう風に身につけるだろう。

つまり家庭の教育とは、家族やコミュニティーや仕事の中で生きる親の姿そのものを見せることだ。

そう考えてみると、それに気が付いて「文句言わずにきっちり責任持って生きてる人」ってのは結構いるな、と思う。

自分を磨くことも、仕事に精を出すことも、子供に社会性を身につけさせることも、遊ぶことも、全く同じように考えること。

つまり、親も子供と一緒に「成長」すること。

育児は育自なのだ。


くやしがる子供 [育児]

子供は、とにかく自分が思う通りにならないと気が済まないものだ。

家の子供も2歳ぐらいの時からずっとそうで、朝起きてお母さんに起こしてほしいところで僕が起こすと、

「おとうさんやだー!あっちいってー!」

無理矢理顔洗おうとしても「やだー!」

パンが食べたいと思ってた時にご飯が出たら

「ぱんがいいー!ごはんやだー!」

そういえば、一時期焼いたクロワッサンのパリパリの皮をはがして、ふわふわの中身と別々に食べるというのにこだわっていた時は、自分でやろうとしてその皮がちょっとでも崩れようものなら、

「ぎゃー!こわれちゃったー!」とか「穴開いちゃったー!」とか大泣きする。

それで「よし、お父さんがやってやる」と、まるで手術でもするみたいにその中身を取り出す時もあるのだが、それでも、

「やだー!ちがうー!」

と何がどう「違う」のかさっぱり分からない。

(バナナの皮をむいた時に途中で折れると「折れちゃったー!」と泣きわめくこともあった)

妻の方はそういう「わがまま」に対して(まあ、わがままではないのだが)、よく「何?どうしたいの???いいよ、じゃあもう食べなくて!」みたいに切れることがあったが、僕は「なるべく」怒らなかった。

まあ正確には『できる限り感情的にならないようにした』というだけで、いい加減ぶち切れそうになることもある。

「何?どこがどう違うの?分からないよ。ここ?こうすればいいの?これでいいか?もうこれしかできないよ!いつもと同じだよ!食べてごらん、おいしいから!」とかだんだん声が荒くなって、ほとんど投げやりになる。

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うちの子はどうしてこんなに些細なことにこだわって、「ちゃぶ台をひっくり返す」ようなことをするのかと思うが、

子供には子供なりの正当な理由があって、そうしてるんだと思う。

結局、「こうしたい」とか「こうあるべき」というイメージが、現実にはそうならなかったから、「面白くなくなった」のだ。

大人だって同じだ。「ああしよう、こうしよう」と常にイメージして、それがうまく行くように段取りして、うまく行かなければ反省して、気を取り直してやり直す。

失敗や失望の原因を「過去」にさかのぼって考え、独りよがりにわめき散らせば周りに迷惑をかけるであろうと「未来」を予測し、「現在」を相対化して感情を押さえ付けて「平静を装う」。

しかし、それが取り返しのつかない失敗であれば、「ああ、何やってんだ!」と自分に憤り、他人に対して「何やってんだよ、まったく!」と怒鳴り散らすことだってあるだろう。

ところが子供には現在しかないから、今できないことは永遠にできないし、今壊れてしまったものは永遠に壊れたままになる。

だから大人にとっては些細なことでも、子供にとっては絶望的な喪失感になる。

例えば自分が何よりも大切にしていたガラス製品か何かをうっかり壊してしまったら、涙を流して悔しがる人もいるだろうし、「何そんなことで泣いてるの?」と言われたらカチンと来るだろう。

絶望感の「質」なんてものは、その当の本人にしか分からないものだ。

だから僕ら親は、その幼い心の「絶望」を理解してあげなければならないのだが、いくら言葉で大人が考えるような「理由」を「説明」したところで、子供に「意味」など伝わらない。

大人にとっては当たり前の「理由」も、時間・空間・言語の体系の上で、あるいは社会的な習慣の中で、相対的な意味を持っているだけで、絶対的な真理ではない。

よく「子供は何でもちゃんと分かっているから、きちんと言葉で説明すれば伝わる」とか言われるが、僕はまったく信用していない。

それでうまく行ったとすれば、子供は親の顔色を伺って分かったふりをしてるだけだと思う。そういう自己保存的な狡猾さなら子供も持っている。

子供が不本意ながらも「規則」に従えば、大人は「良い子だね」とほめてくれるから、子供は条件反射的にそれを身につけるのだ。

もちろん言葉で説明し、規則を習慣化することは大事なことだ。

だけど、言葉は単なる「目印」に過ぎない。

現在しか生きていない子供を説得する唯一の手段は、子供を別な「現在」に連れ出して、伝達したいことを身をもって「経験」させてあげることだ。

だから(シュタイナー教育にもあることだが)、とりあえず子供の気をそらせる。あるいは「全く別なこと」をする。

抱っこして、窓の外を見て、「あ、ねこちゃんあんなとこで何やってるのかな?」とか。

うまくいけば「え?何?おさんぽしてるんじゃない?」とか反応するので、しばらくしてから「じゃあご飯食べよう」と言うと、

「まったく何事もなかったかのようにケロッとして」さっきまであれ程問題だらけだったクロワッサンをおいしそうに食べ始める。

もちろん気をそらす作戦が逆効果になって、ギャー泣きがさらにエスカレートしてどうしようもなくなる時もある。

そういう時は、放っておいて洗い物などする。

時間はかかるが、10分以上ぐずり続けたことなどめったになく、たいていの場合、突然あっけなく機嫌が戻って、普通にパクパク食べ始める。

そして照れ隠しでもするかのように、「昨日階段のところにでっかいチョウチョいたよ」とか全く関係ないおしゃべりをする。

まったく理解不明なのだが、子供の絶望は特殊で、それを「忘れる」にも子供独自のプロセスが必要なのだろう。

それを僕らの飼い馴らされた思考と同列に考えて、早く「区画整理」する必要もない。

うちの子供は、だから、社会的に見ると「わがまま」に見えるのかもしれない。

時々食べかけを残したまま「ごちそうさま!」と席を立つことや、「食べたくない!」といつまでも席につかずに寝転んでぐずってる時もあるし、その時は「こら!」と怒鳴る時もある。

ところが、ほとんどの場合しっかり食べるのだ。

それに、誰か他の家族と一緒にいる時などはそれこそ「良い子」にしてるし、時々おそろしくピュアな一面を見せる時もある。

じゃあ別にいいじゃないか、それぐらいムラがあったって。

そういう子供の感情なり気分の「起伏」は、子供が時間や言語の体系を「経験」を通じて身に付けた時に、自然と自発的にコントロールできるようになるものだろうから、無理矢理ならして「社会化」して「良い子」にしたところで、実はもっと大切な力を抑圧してしまうだろう。

体温 [育児]

保育園に行くようになってから一日のうちで体温がかなり上がったり下がったりするようになった。

以前はだいたい36.8度ぐらいが平熱で安定していたんだけど、今は朝起きて36.9度ぐらいでも保育園に着いて測ると37.4度とかになっていることが多い。それで迎えに行った時保育士さんに「昼間37.5度まで上がったので様子見てください」とか言われても、測ると37.0度に下がっていることもある。

今日麻疹の予防接種を受けた時に小児科の先生に聞いたら、増減があっても37.5度以下で元気であれば問題ないとのことだった。

実際全く元気なので気にしていないのだけど。

お風呂 [育児]

今日はお風呂に楽しそうに入ってくれた。一歳過ぎたけどいまだにベビーバスに入れている。

3、4ヶ月ぐらいまでずっとお風呂が大好きで、もう満面の笑みで気持ち良さそうに入ってたんだけど、急に何かが恐くなったみたいに泣き出した。それでそれからはお母さんと一緒じゃないとだめになってしまった。

それがまたいつの間にかまた大好きになって、僕と一緒におもちゃで遊んだりして、喜んで入るようになった。

ところが先日3日ほど熱を出した時からまたお風呂を嫌がるようになって、その後鼻水が出ていた週はずっとお風呂の中で泣き叫んでいた。僕は構わず頭洗ったりしたけど。

鼻水が治まったらまた笑ってお湯をたたいたりして楽しそうに入るようになった。だんだんその日その日でムラが出てきたのだろうか。

赤ちゃんの肌の色 [育児]

うちの子供は産まれて次の日に黄疸が少し出てると言われて、日光浴したり砂糖水飲んだりして何とか血液検査の最低ラインをクリアして、なんか「日焼けマシン」みたいなのには入らなくて済んだ。

だけどずっと顔が黄色っぽいというか赤黒い感じで、白目の部分も黄色っぽかった。

生後3ヶ月から4ヶ月ぐらいもたぶんそれほど変化はなかったと思う。

妻の両親とかすごく心配して「色黒いけどだいじょうぶ?」みたいにずっと言ってて、それで僕もそのころ気にしてネットで「赤ちゃんの肌の色」とか「色黒 赤ちゃん」とかで検索して調べたの覚えてる。「3ヶ月目まで黒かったけど、4ヶ月過ぎたころから白っぽくなりました」なんて掲示板の書き込み見て、「うちの子4ヶ月過ぎてるのにまだ黒いよ、色黒か?やっぱり」みたいに考えてたような気がする。

それで、その結論として、またいつもと同じなんだけど「気にしてもしょうがない」となった。

なんか全てマニュアル通りになんていかないし、「色黒だから何?」とも思った。母乳性黄疸とかが問題になるのは色が黒いとかそういうレベルの話ではないし、身長も体重も増えて母乳もよく飲んでいるなら全く問題ないはずなのに、そんな見てくれ何で気にするのだろう?と思った。

結果として今8ヶ月だけど、「真っ白」です(笑)。

全然気にしてなかったからいつぐらいから白くなったのか分からないけど、たしか3〜4ヶ月のころも、何か日によって違うというか、白っぽいとは思わないけど「今日はマシかな」という感じだったり「最近ウンコ出てないから顔かなり黄色っぽいね」なんてこともあったと思う。妻も「色黒だね」と何か不満でもあるように時々言ってた。

でも生後6ヶ月ぐらいではすでに白っぽかったと思う。白目もいつの間にか澄んで、今は何とも言えないブルーがかったような美しい白になってます。

というか、そもそも肌の色なんて途中から全然気にしなくなってしまい、今も別に色白だからうれしいとか感じない。そんなことより元気に育ってるだけで十分だと思ってる。

授乳の間隔 [育児]

今8ヶ月。授乳の間隔はまちまちだと思う。母乳だけなので割と頻繁に飲む方だと思うけど、昼間出かけたり人に会ったりした時「よく我慢したねー」って感じで3、4時間空いてる時もある。

育児書に「この時期だと授乳間隔は○時間」みたいに書いてあるのってまったく当てにならないし、参考にもしていない。一ヶ月目で助産院で「それあげすぎだよ!お腹パンパンじゃない!」「舌小帯があるから呼吸が苦しくて、おっぱい口に加えて安心してるんだよ。それで飲みたくないんだけど飲み過ぎちゃってる。赤ちゃんは満腹感がないから」とか言われてさんざん悩んだ時に、「飲みたい時に飲みたいだけ飲ませよう」って決めたからだ。

それで結果として何も問題がない。ただ「飲みたいだけ飲ませる」って簡単じゃない。夜も寝られないしすごく大変だから、お母さんが参ってしまうんだと思う。そんな時にいろいろ「こうした方がいい」とか言われると藁にもすがるような気持ちで舌小帯手術とかにも頼ってしまうんだと思う。

がんばって無理して体ぼろぼろになっても子供に尽くす必要はないけど、やっぱり基準は子供がどういう状態にあるか?ってことだと思う。ずっと付き添って毎日見てるのは親なわけだから、そうやって見てどうなのか、っていうこと。

今も夜は3、4回起きる。何か「ふぇっ、ふぇっ、ふぎゃー!」っていう感じで目を閉じたまま声を出すので、妻は起き上がっておっぱいをあげる。吸い付くと泣き止んで、しばらく飲むとまた何事もなかったかのように寝てしまう。それでその後1時間ぐらいしてまた同じように泣くこともあれば、3時間ぐらい寝てしまうこともある。

だから子供の状態にプラスして、お母さんの体調はどうか?って問題もあると思う。かなりハードな仕事だと思うし、夫が会社勤めで残業ばかり、手伝ってくれるおばあちゃんも近くにいない、とか今の普通の若い夫婦にしてみれば、育児ノイローゼになってもおかしくないぐらいだ。

赤ちゃんは千差万別だから、育児書に書いてあることとか医者が言うことが必ずしも当てはまらないだろう。うちの赤ちゃん大丈夫?と思う時、あまり気にせずにお母さんがもうひとがんばりすれば解決できることかもしれないし、もしかしたら逆にがんばり過ぎて「自分が辛くなったせいで」子供がどこかおかしいんじゃないか?と思い始めてるのかもしれない。

そういうことを総合的に判断するのはあくまでも親の役目だな、と思う。
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