子供の主体性 [育児]
子供の主体性を「育む」ことは難しい。
なぜなら、多くの「大人」は、正しい意味で「主体性」を持っていないから。
おそらく、多くの「親」が持っている主体性は、ほとんどの場合その「親の親」から、自分が子供の時に、「強制」や「命令」や「服従」を通じて、心の奥底に「無理矢理」植え付けられたものだ。
そして、そこに「抵抗」「反抗」することを許されなかったために、「真の意味での自発的な主体性」を「抑圧」され、その「自己防衛」のために、「親を喜ばせる」ことで、「偽りの」「コントロールされた主体性」を身につけてしまった。
この「コントロールされた主体性」を暴くことは、当の本人にはまずできない。
分かるはずがないのである。
「コントロールされた主体性」を持つ人は、自分で自分を「客体視」することができない。
なぜか?
簡単だ。
子供の頃にそうやって「自分で自分を客体視して」「自発的な主体性を得る」大事な過程で、その人は「そうすることを許されなかった」。
親に「禁じられた」。
なぜか?
そこで「客体視」すれば、自分が「抑圧」されていることに、子供は必ず「気づく」から。
(多かれ少なかれ、親は子供を『人として成長させる』過程で、子供の際限のない『欲望』を『抑え付け』なければならないから、子供には基本的に『しつけ』は『押しつけ』でしかない)
だから必ず子供は「気づく」から、そこでまず「親に抵抗し、反抗する」はずだ。
この「抵抗」こそ、「人として必要な主張」であるのだから、親だって「おお、いいぞ、いいぞ」と喜んで受け入れるべきことなのに、
「コントロールされた主体」を作り出してしまう親は、その「抵抗」を快く思わなかった。
だから「客体視による主体の形成」を、その親は「許さなかった」「禁じた」。
「主体の芽」を摘んだのだ。
では親はそれを「反抗するな!」とか「抵抗するな!」と言って、禁止したのだろうか?
全く逆である。
親はきっと、子供が例えば「お父さん嫌い!お母さん嫌い!」とか言うことに対して、「悲しい顔」をして見せたのだ。
ではなぜその親は「悲しい顔」をしたのか?
その親はこう思ったのだ。
「私はこんなにこの子を愛しているのに、一生懸命育てているのに、何でそんな心ないことを言うのだろう?何で親の苦労が『分からない』のだろう?」
と。
それがその母親の「悲しい顔」に表れて、それを子供は「読み取る」。
あるいは、「俺はおまえのために自分を犠牲にして働いているのに、何でそんなこと言うんだ!!」という強い怒りをあらわにする父親に怯える。
では子供は「親ががんばっている」ことを「分かってない」のだろうか?
「分かってない」から、「嫌い!」とか言うのだろうか?
これも逆である。
子供はむしろ「完全に理解している」。
「お父さんお母さんはがんばっている」
そう思っている。
だけど、「しつけ」と称して「ルールに従う」のは、人間誰だって嫌なのだ。
僕だって嫌だし、幼い子供ならなおさらだ。
だから、『ヤダ!』『できない!』『嫌い!』と言わせてもらいたい。
子供はそう思っている。
しかし、がんばってる親は、その「嫌い!」とか「やだ!」とか「もうやらない!」とかいう「口答え」に、過剰に反応してしまう。
なぜか?
「自分ががんばっているから、子供にもそれに完璧に応えてもらいたい」から。
誰に見られても恥ずかしくない「良い子」であってほしいから。
そして「良い親」として「自分が見られたい」から。
だから、その「反抗」に、イラつき、がっかりし、「まあいいや~」とのんびり構えられない。
「悲しみ」「怒り」を、薄らとした「表情」で、子供に暗示してしまう。
そして子供は、少しずつ「学んで行く」。
同時に、「蝕まれて行く」。
「親を喜ばせるためには、自分を抑え付けた方がいい。言いたいことを言わない方がいい」
と。
そして自分を抑え付け、笑顔で言う。「お父さん、お母さん大好き!」
「悲しい顔」を見せていた母親、「怒っていた」父親は、たちまち笑顔になる。
そして、「表面上は」万事うまく回って行く。
「子供の我慢」とその「犠牲」の上に、家族の仲は一見うまく行く。
しかし、そうやって「コントロールされた主体」を身につけた子供は、大人になってから、また同じことを繰り返す。
つまり、時に満面の笑みで抱きしめ、時に「悲しい顔」を見せ、「怒り」をぶちまけ、その不安定さによって子供を「服従」させ、同じ「コントロールされた主体」を子供に植え付ける。
なぜか?
その人にとっての「主体性」は、「偽りの」「コントロールされた主体性」であるのだが、当の本人にとっては、それは全く知りようのないことなのだ。
だから、悲しいことに、取り替えの効かない、その「唯一無二のコントロールされた主体性」を「正当化」して、「自己肯定」するしかないのである。
その「主体」を否定するほどの「自己の客体視」を、その主体は「できない」のである。
「できない」のではなく、「許されてこなかった」から「できなくなってしまった」。
だから、本当にそれを乗り越えるためには、自分(その『コントロールされた主体性』)を「犠牲」にするしかない。
しかも「子供のために」「悦びを持って」。
だから、正確にはそれは「犠牲」ではない。
『犠牲』と感じるのは、『コントロールされた主体』の感覚でしかない。
(『コントロールされた主体』は、自分の『犠牲』とその見返りとして子供が『服従』して『笑顔』を見せ、それによってもたらされる『親自身の悦び』という屈折したプロセスで、子育てを『我慢』する)
「真の主体」はまず「犠牲」を感じない。「悦び」しかないし、自分が「楽しい」と感じることしかやりたくないのである。
そしてそれが自ずと子の「主体性」を育む。
果たしてそんなことが、子供を持って初めて、その「コントロールされた主体」に可能なのだろうか?
何をやろうが結局その「犠牲」から逃れられないのではないか?
まるで禅問答のようだ。
だから、僕には分からない。
分からないから、僕は直感で、自分に対しても、子供に対しても「経験」を与えるように、努力する。
--------
先日こんなことがあった。
仕事仲間の家族と一緒に、今度子供たちも一緒にカラオケに行きましょうということになった。
だから、その日は学校が終わったら、うちの家族だけでカラオケの練習に行こうということにした。
子供を学校に迎えに行ったら、帰り道、何かつまらなさそうにしている。
「今日カラオケ行くよ」と言ったら、「うん、、、」と気のない返事。
そしてしばらくしたら、「今日カラオケ行かない、、、」と言う。
僕は、ちょっとカチンと来て、「分かったよ。じゃあ今日はカラオケ中止。行かないよ」とあっさり言って、そのままカラオケの話はしなかった。
家に着いてから、子供は何かベソをかいたようになり、一人でレゴを始めた。
それを僕の母、つまり「おばあちゃん」が見ようとしたら、逃げたり無視したりした。
それもかなりしつこく。
子供は「おばあちゃん」に対して、そういう意地悪なことをすることが時々あるので、その日は僕も怒った。
「そんな風に人を無視してると、自分も友達に学校で同じことされるよ」と。
それでもまったく意に介さず、一人で床でゴロゴロしているので、僕もそれ以上言うのを止めた。
僕はイライラして、無言になった。
おじいちゃんおばあちゃんが帰る時も、子供はあいさつもせず、僕の足にからみついてくる。
「許して」とでも言いたいのだろうが、僕も今日ばかりは我慢ならなかった。
その手を無言で振りほどき、二人が帰った後、はっきりと、きつい口調で、
「〇〇!人のこと無視するなよ!」と怒った。
(そう言いつつ、『おまえ、自分だって子供のこと報復とばかりに無視しただろう?』と思った)
子供は玄関のところでいじける。
妻にも「何であんなことするのかな?やっぱり父と僕が、母(おばあちゃん)に対してそういう態度取ってるから、その力関係を子供も分かっていて、一番弱い母をいじめるんだ。だから、そういうところから修復していかないとだめだ」と言う。
妻は「もっとちゃんと言わなきゃだめだよ」と言うが、「いや、『言う』だけじゃだめなんだよ」(つまり僕らの態度、振る舞いも変えなければならない)と僕は言う。
妻は「おばあちゃんだって悲しいよ、、、」みたいに話す。
子供は「テーブルの下」に隠れたりして、僕の顔色を伺っている。
そして、だんだんと僕も、自分自身について考え始める。
実は僕自身、今日は「面白くないこと」があって、ずっと「不機嫌」だったのだ。
だから、「実はさ、、、」と言って、今日あった「理不尽な出来事」を妻に話す。
(仕事場の『水道』が、『手違い』で止められてしまったことについて)
それがもうとんでもない勘違いが伝言ゲームのようになって、おかしなことにおかしなことが重なった話なのだが、おかげで僕は一日不便で、問い合わせなどで無駄な時間も過ごしてしまった。
その一部始終を僕は夢中で話して、
最後に、水道を開栓しに来た「罪の無い」若い水道局の人に対して、僕が怒りもあらわに「はい、分かりました、、、」とぶっきらぼうに言ったシーンを演じてみせたら、
それを子供がえらく面白がって、とうとうテーブルの下から出て来て、
「もう一回今のマネやって!」とせがんで、自分もそれを真似して、大笑いし、険悪な雰囲気は一掃した。
------
その夜、家のステレオを聞きながら、カラオケで歌う歌の練習をしていたら、子供がポツンと言った。
「あ~あ、咳早く治らないかなあ、、、」と。
(子供はここ一週間ほど咳が出て、声がおかしくなっていた)
「そうだね、、、歌えないもんね」と僕。
「歌も歌えないし、学校もつまんない」と子供。
「どうして?」
「だって、遊んでても、お話してても、ゴホンゴホンってなって、つまんない、、、」
-------
そこで僕はようやく分かった。つまり、今日子供が「つまらなさそうに」学校から帰って来た「原因」は、その「咳」にあった。
そして僕は、そんな子供の「咳」のことも気遣わずに、「今日カラオケ行くよ」とぶっきらぼうに言って、それに対して「行かない」と言った子供に対して、「じゃあいいよ。行かないよ」と「子供のせいに」して、行かないことを決めた。
「だから」子供は、その理不尽な怒りを「おばあちゃん」という弱者にぶつけた。
本当は僕も、子供が「つまらなさそうに帰って来た」時、「どうした?咳大丈夫か?カラオケ行けるか?」とでも聞くべきだったのだが、その日は僕もその「嫌なこと」があって、最初から不機嫌だったのだ。
そういう諸々の連鎖があって、こういう出来事が生じてしまった。
-------
そして次の日、子供の咳はほぼ治ったので、また学校からの帰り道に僕は言った。
「今日カラオケ行くよ」
すると子供はまた、
「カラオケ行きたくない」
と答える。
僕は「何だよ、またかよ」と思う。
(うちの子供は大抵最初に『やだ』と言う。どこの子でもそうなのかもしれないが)
それで「どうして?」と聞く。
「行きたくない」と子供。
「分かった。じゃあいいよ。行きたくないなら、行かなくていいよ」と僕。
「、、、、分かったよ!じゃあ行けばいんでしょう!」と子供。
僕はそういう言い方をした時は、まず乗らない。
「いや、行きたくないなら行かなくていいよ。お父さん無理矢理行かせたりしないから」
と言う。
すると子供が、
「、、、だって、、、ずっと公園行ってないから、、、カラオケ行きたくない」
僕は「しめた」と思う。
「そうだね。風邪治って、久しぶりに公園行きたいよね。じゃあ公園で遊んでから、カラオケ行く?」
「うん」
-----
そして僕らは公園でたっぷり遊び、夕方からカラオケで練習をし、子供も楽しそうに歌った。
-----
この出来事で重要なことは、子供が「カラオケに行きたくない理由を自分で言ったこと」だ。
そして、それはとてもはっきりした、正当な理由であり、それを子供は「主張」した。
僕もたしかにイライラして怒ったりしたことはあったけど、「理不尽に子供に責任を押し付けたり」「無理矢理やらせる」ことはしなかった。
だから、結果として、子供は心を開いてくれたと思う。
人間は、お互いの心を読み合わなければならないが、それはとても難しい。
全て以心伝心というわけには行かない。
だから、我慢したり、譲ったり、逆に主張を通したりする。「言葉」を通じて。
そのためには、自分がどこまで譲歩し、どこから譲らないのか、その「境界」を自分で知らなければならない。
そして、それを「毅然として」他者に伝達できなければならないし、それが「主体性」と呼ばれるものだ。
人は「権利」として、「反抗」を許される。
そして、それは子供が「経験」で学んで行くことだ。
まず最初に、「親」という他者との関係と、それへの「抵抗」を通じて。
そのためには、親もまた、子と一緒にトライ・アンド・エラーを繰り返し、その「経験」をセットアップして行く必要がある。
その時、親の「主体」と、その「境界」が試されている。
それが不安定なままなら、試行錯誤そのものが、単なる混乱にしかならず、それが子供の主体の不安定さとして植え付けられてしまうだろう。
心してかからなければならない。
なぜなら、多くの「大人」は、正しい意味で「主体性」を持っていないから。
おそらく、多くの「親」が持っている主体性は、ほとんどの場合その「親の親」から、自分が子供の時に、「強制」や「命令」や「服従」を通じて、心の奥底に「無理矢理」植え付けられたものだ。
そして、そこに「抵抗」「反抗」することを許されなかったために、「真の意味での自発的な主体性」を「抑圧」され、その「自己防衛」のために、「親を喜ばせる」ことで、「偽りの」「コントロールされた主体性」を身につけてしまった。
この「コントロールされた主体性」を暴くことは、当の本人にはまずできない。
分かるはずがないのである。
「コントロールされた主体性」を持つ人は、自分で自分を「客体視」することができない。
なぜか?
簡単だ。
子供の頃にそうやって「自分で自分を客体視して」「自発的な主体性を得る」大事な過程で、その人は「そうすることを許されなかった」。
親に「禁じられた」。
なぜか?
そこで「客体視」すれば、自分が「抑圧」されていることに、子供は必ず「気づく」から。
(多かれ少なかれ、親は子供を『人として成長させる』過程で、子供の際限のない『欲望』を『抑え付け』なければならないから、子供には基本的に『しつけ』は『押しつけ』でしかない)
だから必ず子供は「気づく」から、そこでまず「親に抵抗し、反抗する」はずだ。
この「抵抗」こそ、「人として必要な主張」であるのだから、親だって「おお、いいぞ、いいぞ」と喜んで受け入れるべきことなのに、
「コントロールされた主体」を作り出してしまう親は、その「抵抗」を快く思わなかった。
だから「客体視による主体の形成」を、その親は「許さなかった」「禁じた」。
「主体の芽」を摘んだのだ。
では親はそれを「反抗するな!」とか「抵抗するな!」と言って、禁止したのだろうか?
全く逆である。
親はきっと、子供が例えば「お父さん嫌い!お母さん嫌い!」とか言うことに対して、「悲しい顔」をして見せたのだ。
ではなぜその親は「悲しい顔」をしたのか?
その親はこう思ったのだ。
「私はこんなにこの子を愛しているのに、一生懸命育てているのに、何でそんな心ないことを言うのだろう?何で親の苦労が『分からない』のだろう?」
と。
それがその母親の「悲しい顔」に表れて、それを子供は「読み取る」。
あるいは、「俺はおまえのために自分を犠牲にして働いているのに、何でそんなこと言うんだ!!」という強い怒りをあらわにする父親に怯える。
では子供は「親ががんばっている」ことを「分かってない」のだろうか?
「分かってない」から、「嫌い!」とか言うのだろうか?
これも逆である。
子供はむしろ「完全に理解している」。
「お父さんお母さんはがんばっている」
そう思っている。
だけど、「しつけ」と称して「ルールに従う」のは、人間誰だって嫌なのだ。
僕だって嫌だし、幼い子供ならなおさらだ。
だから、『ヤダ!』『できない!』『嫌い!』と言わせてもらいたい。
子供はそう思っている。
しかし、がんばってる親は、その「嫌い!」とか「やだ!」とか「もうやらない!」とかいう「口答え」に、過剰に反応してしまう。
なぜか?
「自分ががんばっているから、子供にもそれに完璧に応えてもらいたい」から。
誰に見られても恥ずかしくない「良い子」であってほしいから。
そして「良い親」として「自分が見られたい」から。
だから、その「反抗」に、イラつき、がっかりし、「まあいいや~」とのんびり構えられない。
「悲しみ」「怒り」を、薄らとした「表情」で、子供に暗示してしまう。
そして子供は、少しずつ「学んで行く」。
同時に、「蝕まれて行く」。
「親を喜ばせるためには、自分を抑え付けた方がいい。言いたいことを言わない方がいい」
と。
そして自分を抑え付け、笑顔で言う。「お父さん、お母さん大好き!」
「悲しい顔」を見せていた母親、「怒っていた」父親は、たちまち笑顔になる。
そして、「表面上は」万事うまく回って行く。
「子供の我慢」とその「犠牲」の上に、家族の仲は一見うまく行く。
しかし、そうやって「コントロールされた主体」を身につけた子供は、大人になってから、また同じことを繰り返す。
つまり、時に満面の笑みで抱きしめ、時に「悲しい顔」を見せ、「怒り」をぶちまけ、その不安定さによって子供を「服従」させ、同じ「コントロールされた主体」を子供に植え付ける。
なぜか?
その人にとっての「主体性」は、「偽りの」「コントロールされた主体性」であるのだが、当の本人にとっては、それは全く知りようのないことなのだ。
だから、悲しいことに、取り替えの効かない、その「唯一無二のコントロールされた主体性」を「正当化」して、「自己肯定」するしかないのである。
その「主体」を否定するほどの「自己の客体視」を、その主体は「できない」のである。
「できない」のではなく、「許されてこなかった」から「できなくなってしまった」。
だから、本当にそれを乗り越えるためには、自分(その『コントロールされた主体性』)を「犠牲」にするしかない。
しかも「子供のために」「悦びを持って」。
だから、正確にはそれは「犠牲」ではない。
『犠牲』と感じるのは、『コントロールされた主体』の感覚でしかない。
(『コントロールされた主体』は、自分の『犠牲』とその見返りとして子供が『服従』して『笑顔』を見せ、それによってもたらされる『親自身の悦び』という屈折したプロセスで、子育てを『我慢』する)
「真の主体」はまず「犠牲」を感じない。「悦び」しかないし、自分が「楽しい」と感じることしかやりたくないのである。
そしてそれが自ずと子の「主体性」を育む。
果たしてそんなことが、子供を持って初めて、その「コントロールされた主体」に可能なのだろうか?
何をやろうが結局その「犠牲」から逃れられないのではないか?
まるで禅問答のようだ。
だから、僕には分からない。
分からないから、僕は直感で、自分に対しても、子供に対しても「経験」を与えるように、努力する。
--------
先日こんなことがあった。
仕事仲間の家族と一緒に、今度子供たちも一緒にカラオケに行きましょうということになった。
だから、その日は学校が終わったら、うちの家族だけでカラオケの練習に行こうということにした。
子供を学校に迎えに行ったら、帰り道、何かつまらなさそうにしている。
「今日カラオケ行くよ」と言ったら、「うん、、、」と気のない返事。
そしてしばらくしたら、「今日カラオケ行かない、、、」と言う。
僕は、ちょっとカチンと来て、「分かったよ。じゃあ今日はカラオケ中止。行かないよ」とあっさり言って、そのままカラオケの話はしなかった。
家に着いてから、子供は何かベソをかいたようになり、一人でレゴを始めた。
それを僕の母、つまり「おばあちゃん」が見ようとしたら、逃げたり無視したりした。
それもかなりしつこく。
子供は「おばあちゃん」に対して、そういう意地悪なことをすることが時々あるので、その日は僕も怒った。
「そんな風に人を無視してると、自分も友達に学校で同じことされるよ」と。
それでもまったく意に介さず、一人で床でゴロゴロしているので、僕もそれ以上言うのを止めた。
僕はイライラして、無言になった。
おじいちゃんおばあちゃんが帰る時も、子供はあいさつもせず、僕の足にからみついてくる。
「許して」とでも言いたいのだろうが、僕も今日ばかりは我慢ならなかった。
その手を無言で振りほどき、二人が帰った後、はっきりと、きつい口調で、
「〇〇!人のこと無視するなよ!」と怒った。
(そう言いつつ、『おまえ、自分だって子供のこと報復とばかりに無視しただろう?』と思った)
子供は玄関のところでいじける。
妻にも「何であんなことするのかな?やっぱり父と僕が、母(おばあちゃん)に対してそういう態度取ってるから、その力関係を子供も分かっていて、一番弱い母をいじめるんだ。だから、そういうところから修復していかないとだめだ」と言う。
妻は「もっとちゃんと言わなきゃだめだよ」と言うが、「いや、『言う』だけじゃだめなんだよ」(つまり僕らの態度、振る舞いも変えなければならない)と僕は言う。
妻は「おばあちゃんだって悲しいよ、、、」みたいに話す。
子供は「テーブルの下」に隠れたりして、僕の顔色を伺っている。
そして、だんだんと僕も、自分自身について考え始める。
実は僕自身、今日は「面白くないこと」があって、ずっと「不機嫌」だったのだ。
だから、「実はさ、、、」と言って、今日あった「理不尽な出来事」を妻に話す。
(仕事場の『水道』が、『手違い』で止められてしまったことについて)
それがもうとんでもない勘違いが伝言ゲームのようになって、おかしなことにおかしなことが重なった話なのだが、おかげで僕は一日不便で、問い合わせなどで無駄な時間も過ごしてしまった。
その一部始終を僕は夢中で話して、
最後に、水道を開栓しに来た「罪の無い」若い水道局の人に対して、僕が怒りもあらわに「はい、分かりました、、、」とぶっきらぼうに言ったシーンを演じてみせたら、
それを子供がえらく面白がって、とうとうテーブルの下から出て来て、
「もう一回今のマネやって!」とせがんで、自分もそれを真似して、大笑いし、険悪な雰囲気は一掃した。
------
その夜、家のステレオを聞きながら、カラオケで歌う歌の練習をしていたら、子供がポツンと言った。
「あ~あ、咳早く治らないかなあ、、、」と。
(子供はここ一週間ほど咳が出て、声がおかしくなっていた)
「そうだね、、、歌えないもんね」と僕。
「歌も歌えないし、学校もつまんない」と子供。
「どうして?」
「だって、遊んでても、お話してても、ゴホンゴホンってなって、つまんない、、、」
-------
そこで僕はようやく分かった。つまり、今日子供が「つまらなさそうに」学校から帰って来た「原因」は、その「咳」にあった。
そして僕は、そんな子供の「咳」のことも気遣わずに、「今日カラオケ行くよ」とぶっきらぼうに言って、それに対して「行かない」と言った子供に対して、「じゃあいいよ。行かないよ」と「子供のせいに」して、行かないことを決めた。
「だから」子供は、その理不尽な怒りを「おばあちゃん」という弱者にぶつけた。
本当は僕も、子供が「つまらなさそうに帰って来た」時、「どうした?咳大丈夫か?カラオケ行けるか?」とでも聞くべきだったのだが、その日は僕もその「嫌なこと」があって、最初から不機嫌だったのだ。
そういう諸々の連鎖があって、こういう出来事が生じてしまった。
-------
そして次の日、子供の咳はほぼ治ったので、また学校からの帰り道に僕は言った。
「今日カラオケ行くよ」
すると子供はまた、
「カラオケ行きたくない」
と答える。
僕は「何だよ、またかよ」と思う。
(うちの子供は大抵最初に『やだ』と言う。どこの子でもそうなのかもしれないが)
それで「どうして?」と聞く。
「行きたくない」と子供。
「分かった。じゃあいいよ。行きたくないなら、行かなくていいよ」と僕。
「、、、、分かったよ!じゃあ行けばいんでしょう!」と子供。
僕はそういう言い方をした時は、まず乗らない。
「いや、行きたくないなら行かなくていいよ。お父さん無理矢理行かせたりしないから」
と言う。
すると子供が、
「、、、だって、、、ずっと公園行ってないから、、、カラオケ行きたくない」
僕は「しめた」と思う。
「そうだね。風邪治って、久しぶりに公園行きたいよね。じゃあ公園で遊んでから、カラオケ行く?」
「うん」
-----
そして僕らは公園でたっぷり遊び、夕方からカラオケで練習をし、子供も楽しそうに歌った。
-----
この出来事で重要なことは、子供が「カラオケに行きたくない理由を自分で言ったこと」だ。
そして、それはとてもはっきりした、正当な理由であり、それを子供は「主張」した。
僕もたしかにイライラして怒ったりしたことはあったけど、「理不尽に子供に責任を押し付けたり」「無理矢理やらせる」ことはしなかった。
だから、結果として、子供は心を開いてくれたと思う。
人間は、お互いの心を読み合わなければならないが、それはとても難しい。
全て以心伝心というわけには行かない。
だから、我慢したり、譲ったり、逆に主張を通したりする。「言葉」を通じて。
そのためには、自分がどこまで譲歩し、どこから譲らないのか、その「境界」を自分で知らなければならない。
そして、それを「毅然として」他者に伝達できなければならないし、それが「主体性」と呼ばれるものだ。
人は「権利」として、「反抗」を許される。
そして、それは子供が「経験」で学んで行くことだ。
まず最初に、「親」という他者との関係と、それへの「抵抗」を通じて。
そのためには、親もまた、子と一緒にトライ・アンド・エラーを繰り返し、その「経験」をセットアップして行く必要がある。
その時、親の「主体」と、その「境界」が試されている。
それが不安定なままなら、試行錯誤そのものが、単なる混乱にしかならず、それが子供の主体の不安定さとして植え付けられてしまうだろう。
心してかからなければならない。
2014-02-20 10:09
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0