一つ屋根の他者 [雑感]
結婚に対する決定的な認識の誤りがあってそれがまかり通っている。
その広く流布した誤謬のおかげで多くの夫婦が危機に陥っている。
それは「理想のパートナー」というおよそ絶望的な幻想で、なぜそんな観念が必要とされたのか不思議になる。
結婚するのは相手が「理想のパートナーだったから」と言うならその「過去の栄光」が二人の最高の到達点となり、それゆえ結婚生活は年を重ねるごとにただ落ちて行くだけの長い下り坂となる。
妻が聞いたラジオ番組の対談で何とかという精神科医が、
「だから夫はその期待を裏切ってはならず、『ありのままの自分』なんて家庭で見せてはならず、すなわち『夫』を演じることを『当たり前』と感じれば幸せになれる」
と言っていたらしい。
僕に何か言いたかったのだろうが聞いた瞬間に、
「本当にそれ精神科医が言ったの?まったく想像に難くないけどだから日本の精神科医はダメなんだよ。だってその『演技』が原因でみんな『うつ病』になってるんだよ。家庭だけが『ありのままの自分』でいられる場所で、そこでさえも『演技しなければならない』なら、それはその元々の『ありのままの自分』がすでにおかしいのか、妻も夫も『ありのままの相手』を受け入れられないのかどっちかだよ。つまり最初の『理想のパートナー』っていう設定が間違ってるんだよ」
と言った。
本当にこういう資本主義のあまい汁を吸ってるインチキ精神科医がその「メシの種」である「患者」を量産するためにこんなデマカセを偉そうに垂れ流してるのかと思うとうんざりしてくる。
だから一組でも多くの夫婦が救われるためにここに言うけど、結婚っていうのは「理想のパートナー」を見つけて「始める」ものじゃなくてそこへ「至る」ものなんだ。
「私を完璧に理解してくれるもう一人の私」みたいな「理想のパートナー」という幻影と「結婚20年してだんだん化けの皮がはがれる赤の他人」と比較したら、どんな人間だって「ぼろ雑巾」か「ふるだぬき」みたいに見えるだろう。「そう見えない。私の相手は完璧だ」と言い張るならただその「色眼鏡」が外れてないだけでいずれそのレンズは曇ると思う。
--------
人は一人では生きて行けないけど、同時に自分と同じ考えの人間もまた存在しない。
自分の認識は自分にしか属さず、言葉の真の意味で言えば「分かり合える他人」など存在せず絶対的に「孤独」なんだ。
こんなの哲学的に当たり前の命題だ。
明治生まれの今は亡き僕の祖母は言ったんだ。
「結婚は人生の始まりだ」
って。
それで僕は若い時「何言ってんだ」と思った。結婚しようがしまいが俺の人生はもう「始まってる」って。
だけど、結婚してからまったく理解し難い形だったけど「いや、ばあちゃんは正しかったのでは?」とおぼろげに思った。
そして、子供が出来て育てる中でその思いはますます強くなった。
僕が今漠然と考えることは、人間というのは一人でいる限り恐ろしく「子供」なんだと思う。
その「子供」がもう一人の「子供」と一緒になる。
そしてまるで遊んだり喧嘩したり仲直りしたり話し込んだりしながら少しずつ「大人」になる。
「〇〇ちゃんは私の大親友!」と言ってみたり「大嫌い!」と絶交したりすることもあるかもしれない。
それで少し大人になるとそこに「もっと小さい子供」が加わる。
その子供を少しずつ「大人にするために」子供が力を合わせて面倒を見ることで「ちょっと大人になった子供はもっと大人になる」。
本当の意味で成熟した大人は存在せず「未熟な子供同士」が生活を共にすることで少しずつ「大人」に近づいて行く。
これが家族なんだ。
つまり人は自分が「人として成長するため」に「絶対的な他者」を必要としている。
夫なり妻という存在はそうやって絶対的な他者でありながら「一つ屋根に暮らす」という重責を引き受けて、「人が人になるための道」を共に進むことに協力してくれる人なんだ。
そして生まれて来る子供というのは「必然性をもった他者」で、そしてまた「一緒に大人になる一人の人間」なんだ。
もし家族に「素晴らしさ」があるとすれば、それはこの圧倒的に孤独で未熟で、それでもやはり「成長したい」つまり「生きたい」と切望する自分という他者に対して、決して相容れないもう一人の他者として「ずっと一緒にいてくれる」ところだ。
それを人は無償の愛と呼ぶ。
だから「理想のパートナー」という概念はこの命題に対して真逆の表象になる。
「結婚は人生の墓場」とはよく言ったものでそれは「理想のパートナー」という虚像と対を為す。
「理想のパートナーだから一緒にいられる」と考える人間は結婚をいずれ「呪う」ことになるだろう。
人として幸せを望むならその事実をまず受け入れた方がいい。
結婚披露宴の「ケーキ入刀」は「初めての共同作業」と呼ばれる。
それは謂れのないことではない。
その広く流布した誤謬のおかげで多くの夫婦が危機に陥っている。
それは「理想のパートナー」というおよそ絶望的な幻想で、なぜそんな観念が必要とされたのか不思議になる。
結婚するのは相手が「理想のパートナーだったから」と言うならその「過去の栄光」が二人の最高の到達点となり、それゆえ結婚生活は年を重ねるごとにただ落ちて行くだけの長い下り坂となる。
妻が聞いたラジオ番組の対談で何とかという精神科医が、
「だから夫はその期待を裏切ってはならず、『ありのままの自分』なんて家庭で見せてはならず、すなわち『夫』を演じることを『当たり前』と感じれば幸せになれる」
と言っていたらしい。
僕に何か言いたかったのだろうが聞いた瞬間に、
「本当にそれ精神科医が言ったの?まったく想像に難くないけどだから日本の精神科医はダメなんだよ。だってその『演技』が原因でみんな『うつ病』になってるんだよ。家庭だけが『ありのままの自分』でいられる場所で、そこでさえも『演技しなければならない』なら、それはその元々の『ありのままの自分』がすでにおかしいのか、妻も夫も『ありのままの相手』を受け入れられないのかどっちかだよ。つまり最初の『理想のパートナー』っていう設定が間違ってるんだよ」
と言った。
本当にこういう資本主義のあまい汁を吸ってるインチキ精神科医がその「メシの種」である「患者」を量産するためにこんなデマカセを偉そうに垂れ流してるのかと思うとうんざりしてくる。
だから一組でも多くの夫婦が救われるためにここに言うけど、結婚っていうのは「理想のパートナー」を見つけて「始める」ものじゃなくてそこへ「至る」ものなんだ。
「私を完璧に理解してくれるもう一人の私」みたいな「理想のパートナー」という幻影と「結婚20年してだんだん化けの皮がはがれる赤の他人」と比較したら、どんな人間だって「ぼろ雑巾」か「ふるだぬき」みたいに見えるだろう。「そう見えない。私の相手は完璧だ」と言い張るならただその「色眼鏡」が外れてないだけでいずれそのレンズは曇ると思う。
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人は一人では生きて行けないけど、同時に自分と同じ考えの人間もまた存在しない。
自分の認識は自分にしか属さず、言葉の真の意味で言えば「分かり合える他人」など存在せず絶対的に「孤独」なんだ。
こんなの哲学的に当たり前の命題だ。
明治生まれの今は亡き僕の祖母は言ったんだ。
「結婚は人生の始まりだ」
って。
それで僕は若い時「何言ってんだ」と思った。結婚しようがしまいが俺の人生はもう「始まってる」って。
だけど、結婚してからまったく理解し難い形だったけど「いや、ばあちゃんは正しかったのでは?」とおぼろげに思った。
そして、子供が出来て育てる中でその思いはますます強くなった。
僕が今漠然と考えることは、人間というのは一人でいる限り恐ろしく「子供」なんだと思う。
その「子供」がもう一人の「子供」と一緒になる。
そしてまるで遊んだり喧嘩したり仲直りしたり話し込んだりしながら少しずつ「大人」になる。
「〇〇ちゃんは私の大親友!」と言ってみたり「大嫌い!」と絶交したりすることもあるかもしれない。
それで少し大人になるとそこに「もっと小さい子供」が加わる。
その子供を少しずつ「大人にするために」子供が力を合わせて面倒を見ることで「ちょっと大人になった子供はもっと大人になる」。
本当の意味で成熟した大人は存在せず「未熟な子供同士」が生活を共にすることで少しずつ「大人」に近づいて行く。
これが家族なんだ。
つまり人は自分が「人として成長するため」に「絶対的な他者」を必要としている。
夫なり妻という存在はそうやって絶対的な他者でありながら「一つ屋根に暮らす」という重責を引き受けて、「人が人になるための道」を共に進むことに協力してくれる人なんだ。
そして生まれて来る子供というのは「必然性をもった他者」で、そしてまた「一緒に大人になる一人の人間」なんだ。
もし家族に「素晴らしさ」があるとすれば、それはこの圧倒的に孤独で未熟で、それでもやはり「成長したい」つまり「生きたい」と切望する自分という他者に対して、決して相容れないもう一人の他者として「ずっと一緒にいてくれる」ところだ。
それを人は無償の愛と呼ぶ。
だから「理想のパートナー」という概念はこの命題に対して真逆の表象になる。
「結婚は人生の墓場」とはよく言ったものでそれは「理想のパートナー」という虚像と対を為す。
「理想のパートナーだから一緒にいられる」と考える人間は結婚をいずれ「呪う」ことになるだろう。
人として幸せを望むならその事実をまず受け入れた方がいい。
結婚披露宴の「ケーキ入刀」は「初めての共同作業」と呼ばれる。
それは謂れのないことではない。
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