天才を待ちわびて [雑感]

台所で料理や片付けをしている時には「自分のやりたいように」やる。

まな板の置き方や水切りかごへの皿の並べ方とかそういった「細かいところ」をイチイチ気にしたりしない。

ただそうは言っても結婚して子供ができて家事を共同でやるようになってから微妙に変化したとは思う。

「配置」とか「段取り」とか「効率性」とか多少は「マシ」になってきているとは思う。

そういうことを「まったく」意識しない時はたしかにあった。

学生の時から始まった一人暮らしの間、一体自分はどんな風に「家事」をやってきたのか?

記憶していないぐらい本当にテキトーだったと思う。

----

マティスという有名なフランス人の画家がいて、その人の絵とか訳分からないぐらいド下手なのもあるんだけど、たまにものすごい傑作がある。

だいたい大きめの油絵がいいんだけど、一番すごいのは晩年の巨大な「切り絵」とか壁画だと思う。

すごいんだけど「やりたいようにやっている」ようにしか見えない。

「やりたいようにやっている」んだけど度肝を抜かれる。

「何なんだろう?」と思うから立ち止まって眺めてああでもないこうでもないとひとしきり感心する。

感心してずっと見ているのだから「感動」しているのだろう。

ポイントは「やりたいようにやる」という「誰もが持っている全能感」みたいなものを、マティスが熟知して「目に見える形にしている」ところだ。

「自分の中でははっきり分かっている全能感」っていう意味で言えば「僕サッカー代表でゴール決める」と豪語する子供がその子自身の内において「はっきり分かっている」のと似ている。

問題なのはそれを「目に見える形にする」ことの方で、言葉の真の意味で「ゴールを決める」のは現実には本物の日本代表選手の中にしかいない。

「ワールドカップでゴール決める」なんていうデカい話になればいい大人だったらさすがに「妄想」と自覚して自分とは無関係なものと割り切るけど、「鉛筆を使って紙の上に線を引く」程度だと、何となく「俺にもできるんじゃないか?」とか「こんなの誰にでも描けるんじゃないか?」と思わせる「魅力」がある。

それが「美術館の壁に永久展示されている」ということはサッカーで言えば「ワールドカップの歴史に名を刻んだ」みたいなイメージだ。

「俺のシュート」じゃワールドカップでゴール決めるなんて夢のまた夢だけど(そういうCMならある)、「俺の落書き」だったら美術館に掛かる可能性だってないことはないのではないか?みたいな気分にさせてくれるところがマティスやピカソの魅力の一因ではあると思う。

濱田庄司という陶芸家が「シャッシャッ」と釉薬を焼き物に引っ掛けながら「こんなこと俺にもできるというヤツがいるが、この一瞬に数十年の修練が凝縮されている」みたいなことを言っていたけど、そういう「研ぎ澄まされた感覚に与えられる社会的価値」がたしかにあるんだ(サッカーにだって『嗅覚』や『イマジネーション=想像力』といった感覚が要求される)。

どこかの動物園で象が鼻に筆を持って絵を描いたりしてるけど、それとマティスの絵は同じに見えるって人は、ワールドカップのシュートも草野球のホームランも同じだって考える人だろうから、「その人の内においては」たしかに全ての価値はイメージとして等価なのだから幸せだと思うし、否定されるいわれもない。

ここからは「みんなが『すげえ』って認めるだけの別格な感動はあるでしょう、マティスにもワールドカップにも」って考えてる人にしか分からないレトリックになる。

マティスの絵にシロウトの描き殴った落書きより価値があるとするなら、それはその「気楽に引いた線」にマティスが長い時間をかけて「身につけた判断力」が表出しているからで、それは「創造」っていうよりも誰もが持っている認識能力の「拡張」とか「補正」に近い。

自分たちが知っている感覚(線で顔を描くのは難しいとか歴史ってワクワクするとか)の延長上でそれが理解できる。

たぶん、「天才の仕事」というのはそういうものなんだと思う。

そこで料理の話だ。

僕が台所で「やりたいように炊事をした」ら、きっと「ぐちゃぐちゃ」とまでは行かなくても、がんばった分何となく「とっ散らかった」状態にはなる。

もしマティスが「天才料理家」で、時空を超えて家の台所で仕事をしたら、文句も言わずにさっとそこにある調理用具と食材で一流の料理を作ってみせるだろう。

妻はほれぼれとその姿を見て料理を一口食べて「涙を流し」きっとその全てを「真似したくなる」に違いない。

まず目に見えるところから入るかもしれない。包丁の使い方とか食材の並べ方とか片付け方とか。

ところが大抵の「夫」はこんな天才料理家じゃなくて凡庸な「評論家」なんだ。

食事の用意が出来てないと言えば「ほら見てみろ、こうやるんだ!」と言わんばかりにこれ見よがしにやってみせて「どうだ」と無言の圧力を加える。

チョロっと手を出して来て「何で冷蔵庫の中がこんなにぐちゃぐちゃになってる?オリーブオイルはどこだ?フライ返しは?日頃からちゃんと整理していればこんなことにならない」とか文句しか言わない。

「私には全部分かってるの!何しゃしゃり出て来て偉そうにしてるんだこのタコ!」

これなら手伝ってもらわない方がマシと思うがお互い忙しいからやってもらわないわけにもいかない。

幸い日本には「もっと立派な評論家先生」っのがうじゃうじゃいて、その夫の姿に対して「いやいや育メンとしての姿勢がなってませんね」とか「弘法筆を選ばずですから今ある台所と食材で最高の料理を作れるのが天才料理家ってもんですよ」とか何とか「さらに偉そうに」テレビで言ったり本に書く。

夫に「見下された」と感じている妻がそれを聞いたり読んだりして溜飲を下げる。復讐としてそんな「もっとすごい人」の言葉を引いて言う。

「ほら見て。やっぱり『本当にすごい人』は違う。やるならこれぐらいやらなきゃね」

とか何とか(あんたごときに偉そうに言われる筋合いはないの意)。

評論家きどりの妻による評論家きどりの夫のための「本物の評論家」による評論。

評論、評論、評論の連鎖、評論の応酬。

そんなどん詰まりから抜け出したくなるからさらに高みを目指す。

「ああどこかに『サッと神業のようにこのどうしようもない台所、このぶっちらかった台所で、最高にうまい料理を私に食べさせてくれる人』がいたら!

その時私はどんなにか幸せになって心を入れ替えて、その姿を真似ていずれ絶品の料理を作れるようになるだろう!」

今の日本ってのはこの「ぶっちらかった台所」みたいなもので、そこでみんなが「食ったこともないような夢の料理」や「天才料理家」を待ちわびながら、それでも日々食べなければならないから段取りの悪いお母さんや手先のおぼつかないお父さんが作るご飯を「とりあえず」食べて「しょうがない」と諦めてるようなものだと思う。

「キッチンを改築する」と大言壮語してみたり「粗食で十分」とか「食べるものないよりはマシ」と自己憐憫してみたり「その前に食材途絶えて餓死するかも」と嘆いたり。

--------

回りくどくなったがこの話の主題は「天才」を根本的に別な人種と考えて「あがめたてまつる」悪い習慣を止めようということである。

それは自分が努力しないことを正当化するための悪癖だから。

マティスは言う。

「私は日々進歩している。それが私の本分だ」









nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:恋愛・結婚

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。