情報でも商品でも何でも簡単に手に入るインターネットは「気分」のメディアだ。

「気分」は「今」にしばられた「快」であり「子供のもの」だ。

だからインターネットは「子供の欲望」「子供の要求」に応えるためには理想のツールだと思う。

反対に「モノを生み出す」ためには膨大な時間がかかる。

2次元のプリントやモニターの画像とは根本的に異なる何かが物体にはあって、そのせいでモノ作りは例え3Dプリンターを使ったとしても想像以上の手間がかかる。

飽和状態に達した「モノ」はなかなか売れないから「気分」を盛り上げて消費を促す必要がある。

「みんなが欲しがっているから」「何となく面白そうだから」「話のネタに」「気分を埋め合わせるために」と「過剰な消費」を生み出すためにインターネットが利用される。

換金労働のせいで「損した気分」になった「消費者」がスマホやSNSに貼り付いて早く「得した気分」になりたいと誘惑されるのを待っている。

だから今は消費者というより積極的な「ユーザー」なのだろう。

この「気分で行動するユーザー」が大多数を占める共同体は恐ろしく「子供」の社会であり、日本人はこの「快原則」に従う「子供」につなぎ止められることで理想的な奴隷になりつつある。

大人が「精神的に子供のまま」であることを消費社会の中で許されて、ただ「快・不快」で行動することをとがめられない。そこには次世代に受け継ぐための思想も理念もない。時間が「現在」という短いスパンで移り変わる流行に支配される。その瞬間の中の「快」にプライオリティーが置かれる。

支配層やその下僕のクリエイターはそれゆえこの構造を変えようとはしない。「幼児的快楽」は「人生の悦び」であるかのように野放しにされ、ユーザー動向は逐一モニタリングされている。

栽培された「気分」。肥え太らされた「欲望」。

そこから金をむしり取るためにせっせと「広告」という肥料と飼料がまかれる。

それでも「幼児性」がまるで純真さの証であるかのように、人々は嬉々としてその「精神の植民地」に留まっている。