通りすがりの論理 [雑感]

反原発系ブログのコメント欄を見てると、いわゆる「荒らし」とは微妙に異なり、「通りすがり」と称して、「原発推進論・容認論」「放射能安全論」を妙に「真面目に」展開する人間がいる。

最初は「いずれ原発は段階的に廃止すべきですが」とか「あなたのおっしゃっていることは分かりますが、僕の話も聞いてください」みたいに、礼儀正しく切り出してくる。

そして「感情的にならずに、論理的に考えれば、、、」と話が進み、「原発を止めれば電気代が上がる」とか「国内産業が空洞化する」とか「CO2が」とか、あるいは「戦争よりも原発のリスクを選んだ」とか、もっともらしい、そして聞き飽きた「理由」を一通り展開する。

アルバイト工作員なのか単なるおせっかいなのか分からないが、もしかしたら顔が見えないのをいいことに、適当に反原発を「とっちめて」憂さ晴らししてるだけなのかもしれない。

「また工作員か?」「何でわざわざこんなところでコメントするんだ?」と誰かが突っ込む。

するとだんだんくだけた調子になって来て、

「こっちが『議論』しようとしているのに、人の話を聞こうともしない。工作員でも何でもないのに見ず知らずの他人を『安全デマ』とか『バカ』とか口汚くののしるような人間に、反原発などできるはずがない」とか「あなたたちは(と誰か一人の発言を十把一絡げにして)、いつもそうだ。こっちが『論理的に』話そうとしてるのに、すぐ感情的になって、まともに議論もできない。このブログはためになるが、コメントをしてる人間は程度が低い。カルトだ」とか、罵倒し始める。

そういうブログ荒らしのマニュアルみたいなのがあるのだろうか?

この手のコメントはあまり前後の文脈など関係なく、ふと思いついたように書き込まれる。

おそらく彼らはブログ自体をまともに読んでいないし、何か気に入らない記事を探し出して、機械的に突っかかってるに過ぎないのだろう。

だから「通りすがり」と名乗るわけだ。

ちょっと通りかかってチラ見しただけだが、「俺は頭がいいから」あっと言う間ににその主張の「論理的な間違い」を見切ったので、老婆心からそれを親切に指摘してあげているつもりらしい。

「あなたが反原発であるのはただ『感情的に反発しているだけ』だから、私のように『論理的に』『総合的に』『全体として』判断すれば、放射能なんてそこまで恐がる必要はないし、『全原発即時廃炉』なんて非現実的、分かるでしょう?」

そんな「正しいのは常に俺だけだ」みたいなぶしつけな一言で「議論」が成立するはずもないから、やがて罵り合いはエスカレートする。

まったくの一方通行で、「インタラクティブ」とはほど遠い。

結局ネットの「ヴァーチャルな」コミュニケーションなど幻影で、最初から破綻してるのだ。

現実世界で、あいさつもなしに瞬間的な言葉のやり取りでもって「事態が動く」ことなどないだろう。時には向かい合った相手の「感情」にも配慮した「気遣い」や「言い方」が、話の内容以上に重要になる。

そして、ブログというのも、ある意味、一つのコミュニティーみたいなもので、そこにはブログ主と同じ思い、「感情」を共有した人々が集まっているわけで、コメントする人たちの間には、時間をかけてそれなりの「空気」みたいなのが出来上がってくる。

彼らが気に入らないのは、その馴れ合いの感情的な「空気」なのだ。

気の合う仲間同士集まって何が悪い?と思うが、彼らはそれが許せない。

なぜか?

彼らはおそらく、ネット空間と自分の脳内空間を混同してしまって、ネットを何か、「論理と客観性のみで構成された知的理想郷」のように、自分の思考様式に合わせて都合よく解釈している。

だから、その自分が考える通りに、ネットはあらゆる対立する意見に対して平等に開かれていなければならない。

「閉じたコミュニティー」を作ることはその理念に反する。すべてはオープンに、感情を排して、明確な言葉でやり取りされなければならない。

そうすれば、現実世界と比べ物にならないぐらいのスピードでお互いを理解し、やがて万人にとって最適な真実に至るはずだ。

そうだろう?俺のどこが間違っている?

「それなのに、、、」と彼らは言う。

「それなのにこいつらと来たら、コソコソと徒党を組んで、陰で一方的にただ感情で原発の悪口言って、放射能デマ垂れ流しやがって、おまえらみたいなのが逆に健全な段階的脱原発をはばんでいるんだ。それに普通の人(あるいはB層)が読んで不必要に不安になったらどうするんだ? おまえら何も分かってない。ブログ主だって本当は俺と同じ『正しい情報』を望んでいるはずなのに、このままじゃダメになってしまう。だから、俺が言わなければ、、、」

奇妙な正義感に駆られて、その実ただ「俺」を押し付けんがために、一方的に「説得」しにかかる。

当然誰も耳を貸さない。

なんでおまえらは俺の言うことが分からないんだ? おまえらはバカか? 論理的に物事が考えられないのか?

そしてぶち切れ、ストーカーじみた攻撃を執拗に仕掛け始める。

おいおい、と思う。

そんな「開かれた世界」、おまえのその「閉じた頭の中」にしかないだろう。

世界中が俺の頭の中に入って、俺の論理で話が通じれば、この世界は全て丸く収まる、とでも言いたいのか。

(ネットを介して、俺の頭とみんなの頭が論理でL.C.L.みたいに溶け合って、か? 人類補完計画じゃあるまいし)

だが、むしろそれは言い訳に過ぎない。主たる目的は「気に入らない相手の怒りを引き出して、それを根拠に己の憂さを晴らすこと」なのだから、そのために当の自分をも欺く「猿芝居」を打って、最初から開くつもりもない議論を一方的にふっかけてくるのだ。

(悲しいほど非生産的なニヒリズムだが、ある種の自傷行為と同じで、絶望の際で生を確認しているのだろう)

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ところで、この自己完結型の「論理」は、官僚や原子力推進派の思考と似ている。

現実に原発が爆発してなお、頭の中の「安心・安全」を胸を張って振りまくことができる彼らは、ネットどころか「この世の通りすがり」なのだろう。





足るを知る [雑感]

酒はたまにビールを飲むぐらいなのだが、3.11前しばらくワインを飲んでいた。

空港の免税店で何となく奮発して買った$100ぐらいのイタリアワインがえらくうまかったので、次は近所の酒屋でおすすめのワインを2000円ぐらいで買ってみた。

たいしてよく分からないのだが、安いワインはやはりその$100のワインに比べるとまったくおいしくない。

しかし、5千円とか1万円とか出して酒など飲む気にならないし、1000円ぐらいだと多少うまくても「値段の割にコストパフォーマンスが高い」と言ったそれなりのものでしかないので、どうせたまにしか飲まないのだから、2、3千円でも「これはうまい!」と言えるワインはないのか、ネットで調べて通販で購入し、いろいろ試して飲んでみた。

結果、赤も白も数本に絞られ、だいたい同じのしか買わなくなった。

そのうちの一つがこれ。

barbera_alba.jpg

エリオ・アルターレのバルベーラ・ダルバ。酸味、凝縮感、タンニン、果実味とか、いろいろワインの味を表す言葉はあるが、だいたい今ひとつのワインは何かが際立って何かが足りない。しかしこれは本当にバランスが良くて、上品。そして、開けてすぐおいしい。もうちょっと安いので(と言っても2500円-3000円ぐらい)ドルチェット・ダルバというのがあるけど、そちらもおいしい。

2007年には英国「デカンター」誌が選んだイタリア最上の格付けワイン15社の一つに入っている。

エリオ・アルターレは、1970年代に当たり前に使われていた化学肥料や農薬をやめて、仲間と一緒に牛を買って畜産農家に預け、その糞を肥料にしたり、グリーン・ハーヴェスト(ブドウの品質確保・向上のために、まだブドウが色付く前の緑色の時点で余分な房を切り落としてしまう作業。切り落とした房はそのまま畑に放置して肥料とする)を行い始めた。酸化防止剤もイタリア政府の基準以下しか使わない。

だいたいうまいと思ったワインは、ビオかそれに近いことをしている。

また品質を維持するために、生産量を制限している。

彼の名刺には、名前とVITICOLTORE(ブドウ栽培者)という肩書きだけが記されている。

曰く、

「覚えておいてください。この世には、ヴィティコルトーレと企業家の2種類があります。両者は全く違います。

企業家は醸造と畑の担当者を置いて、ときには100ヘクタールの畑から大量のワインを造ります。

私の10ヘクタールの畑には8人が働いています。

ブドウの樹を尊重し、土地の力を使い果たさないよう、ワインを手造りします。

樹が死んでしまったら、我々も生きていけません。

お金のためではありません。土地とそこに働く人々を守るのが最も大切です。

それがひいては、飲む人を守ることになるのです」

また、そのテイスティング・ルームの壁にはこう記されている。

「伝統とは、成功した改革の積み重ねである」


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以下、今はリンク切れになっている、読売新聞の記事より。

土地とそこに働く人々を守る

エリオ・アルターレ氏

バローロ・ボーイズの旗手



バローロの夢見る革命家

 イタリアワイン界で革命家を選ぶなら、エリオは間違いなくその1人だろう。

バローロの因習を打破し、栄光を取り戻した。

だが、革命は流血や痛みを伴う。

この男もまた父親との不和という苦しみを乗り越えねばならなかった。



 17歳から父の仕事を手伝い始めた。

1970年代半ば、バローロは危機的な状況だった。

かつては「王のワイン」と称揚された赤ワインが高い値段で売れない。ペルケ(何故か)?

少年は答えを探すために77年、ブルゴーニュへ旅立つ。

彼の地の、ブドウ栽培農家が単一品種を栽培する構造は

バローロと似ている。

ワインがバローロの10~20倍の価格で売れている秘密はどこにあるのか。

 「3つの法則を見つけました。収量を抑えた偉大なブドウなくしてはいいワインが生まれない。次に、果皮のマセラシオン(醸し)を工夫すること。そして、醸造過程を清潔に保つこと」



 バクテリアに汚染された大樽で、未熟なタンニンを抽出したワインは、長期熟成させてもおいしくなるはずがない。

改革は畑から始まった。

78年、地域で初めてグリーン・ハーヴェストを行った。

父はひざまずいて、「止めてくれ」と懇願した。



 「ブドウは神から授かるもので、それを切り詰めるのは神に逆らう行為という考えがありました。天罰が下ると思ったのです」



父とは半ば勘当の間柄に



 畑で化学薬品の使用を止め、冬季の剪定も厳しくした。

80年ごろ、父が枝を切るはしから、残した主枝を切っていった。

父はハサミを彼の足元に投げつけて、吐き捨てた。

「オレは60年間もこの仕事をしてきた。

なぜ、お前に教えられなければいけないんだ」と。

父には、大量のブドウを育てて家族を支えてきたという自負があった。

それを息子に否定されるのは我慢ならなかったのだろう。

 セラーでは、酸化を招く伝統の大樽から短期間で熟成させるバリックに切り替えた。

83年。大樽を電気ノコギリで切りつけた。父は怒った。

遺書を書き、遺産は2人の姉のみに譲るとしたためたほどだ。

姉を説得して施設と畑を買い戻すのに97年までかかった。


 「父とは対話の余地がありませんでした。『一家の主の自分に従え』というわけです。

『お父さんの正しさを証明するために、私に間違いをさせてくれ』と言ってもだめでした。

やり方を変えるなら、自分がいなくなってからにして欲しかったのです。

でも、私は目の前のワイン造りを変えたかった」

 

革命とは巨大な宮殿を打ち壊すばだけではない。身近な肉親との相克を乗り越えることから始まるのだ。

エリオがマルク・ディ・グラッツィアと二人三脚で進めたバローロの改革は地域に浸透した。

短期間の発酵・マセラシオンとバリック熟成は、バランスが良く、早くから楽しめるバローロを生んだ。

モダン・バローロとして世界の注目を集め、貧しかった産地に希望をもたらした。


 その過程では、試行錯誤もあった。彼の醸造法は地域の伝統にも、アカデミックな世界にも反していたからだ。発酵期間を昔ながらの1~2か月から15日、8日、4日と短縮していった。

80年代後半、シャトー・マルゴーのポール・ポンタリエ支配人から

「バリックの使い方が違う」と指摘されたこともある。

その結果、バリックにワインを合わせるのではなく、ワインに合わせてバリックを使う熟成に開眼した。


 「ワインは解釈なのです。ワインとは喜びの飲み物。

父のワインは酸化して、タンニンが強かったから好まれなかった。

私は、今飲んで楽しめ、いつ飲んでもおいしいワインを造りたいのです。

20年後においしいワインではありません。ワインの造り方に決まりはない。

魚の調理法と同じです。大切な基本原則さえ守れば、あとは甘口にしようが、濃い味にしようが自由です」


 関係が修復できないまま、父は85年に亡くなった。

息子にはつらい晩年だったが、目先の安寧で妥協しては、現在の成功は得られなかっただろう。

穏やかな語り口の裏に、鋼の意志を秘めている。

 「父が天国から見ていてくれれば、現在の状況に納得してくれたでしょう。

このワインこそが30年間かけて、私の出した結果なのです。

アルターレの名前は世界で知られています

。私は革命志向の反体制主義者だったかもしれません。でも、非常に幸運でした。

引き出しに詰め込んだ夢の多くを実現できたのですから」



土地とそこに働く人々を守る



 エリオの名刺は名前とVITICOLTORE(ブドウ栽培者)という肩書きだけを記した簡素なものだ。

農民としての誇りがうかがえる。

「覚えておいてください。この世には、ヴィティコルトーレと企業家の2種類があります。

両者は全く違います。

企業家は醸造と畑の担当者を置いて、ときには100ヘクタールの畑から大量のワインを造ります。

私の10ヘクタールの畑には8人が働いています。

ブドウの樹を尊重し、土地の力を使い果たさないよう、ワインを手造りします。

樹が死んでしまったら、我々も生きていけません。

お金のためではありません。土地とそこに働く人々を守るのが最も大切です。

それがひいては、飲む人を守ることになるのです」


 1つのことをやり続けるだけで、人間はここまで偉大な思想家になることができる。

日々の仕事を深遠な哲学に昇華できる一握りの人間は、どこの世界にもいるものだ。

 「ピエモンテに来てくれ。畑で働く人々を見れば、私の言うことが実感できるはずだ」。

真摯な表情で、固く手を握ってくるエリオの瞳を見ながら、本物の造り手に出会えた幸運をかみしめた。



プロフィール

エリオ・アルターレ氏


1950年9月11日生まれ。醸造学校には行かず、
父からワイン造りを教わる。
25歳になったときから、様々な改革に取り組み始め、
モダン・バローロの基礎を築いた。

世界遺産「チンクエテッレ」で
若い造り手を助けるボランティアにも力を入れている。

テレビの権威 [雑感]

今回の選挙の結果にはがっかりしたが、嘆いてばかりもいられない。

「日本人はバカだ」で済めば、話は簡単だが、あいにく自分も日本でしばらくは生きなければならない日本人だから、こんなところで諦めるわけにはいかない。

人々は「何も考えずに」投票したわけではないだろう。

きっと、その人なりによくよく考えて、人によっては「苦渋の決断」をしたのかもしれない。

しかし、そういう自発的な判断そのものが、「テレビ」によって巧妙に仕組まれている。

テレビや新聞や広告から断片的に情報を刷り込まれて、自分で選んだつもりで、選ばされている。

真実を探求しようなどと思わず、テレビに映ったものこそが真実だと手っ取り早く感じる「テレビ脳」

何よりも、そうやってテレビで流される情報は、巨大な利権によって選別され、守られているわけだから、それを信じれば、すなわち権力に寄り添うことになる。

結局、日本人はテレビを信じてるというより、「権威」に弱いのだろう。

ネットの影響力など微々たるものなのだと、今回の選挙で痛感した。


山下俊一と権力者の本音 [雑感]

今日の放射線被曝防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ヒバクがやむをえないもので、我慢して受容すべきものと思わせるために、科学的な装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである」
「増補 放射線被曝の歴史―アメリカ原爆開発から福島原発事故まで」― 中川 保雄


あるブログで山下俊一に対する興味深いコメントを見つけた。

僕もまったく同じことを考えていて、前そのことについて記事を書いた

結局山下の言っていることは、「科学」ではなく、「科学の装いをこらした行政手段」なのだ。

にもかかわらず、その「科学の装い」をあたかも「科学的証明」であるかのように語るからうさん臭く聞こえるし、離れた場所から客観的に見ると、人々を「騙している」ように見える。

しかし、避難させてもらえず、ネット情報など調べようもない年老いた福島県民にしてみれば、藁にもすがる気持ちで「安心です」を信じてしまうのだろう。

田舎の病人に健康食品を売りつける詐欺商法の手口と変わらない。

しかし、山下本人は自分の意思で「騙した」などとまったく思ってないだろう。

国が決めたことをただ伝達しているに過ぎない、と思っている。

手順としてはこうだ。

まず官僚が、国民を守るのではなく、国家が国家として生き延びるために、「被ばくによる犠牲」を「受け入れろ」と命令する。

(1000人避難させるために莫大な国家予算を使うより、避難させずに10人か300人か病気になっても残りの990人か700人は助かる政策を選ぶ。『安全』と決めておけば、移住費用も出さなくて良いし、税収も減らないし、因果関係を証明できない病気を補償する必要もない。それに比べれば除染費用など微々たるものだし、業者に金も回る。)

しかし、独裁国家じゃあるまいし、官僚がそんなことを直接的に国民に命ずることなどできるはずがない。もしそんなこと言ってしまったら自分の首を絞めるだけだからだ。

だから山下が「アドバイザーとして」雇われる。

その「国家の命令」にうまく「科学的装い」をほどこして、国民に「アドバイス」する。

山下自身は、「何、これは俺の考えじゃない。ただ国家権力の代弁をしているだけだから、日本という国家が自分を断罪することはあり得ない」と確信している。

世界中あらゆる場所に存在する権力者とその走狗(そうく)の共犯関係。

以下、そのコメント

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12. 2012年10月20日 11:55:44 : 6xlWJhvstw

私は昨年の福島の事故直後、山下俊一の発言に注目した。

「年間100mSまでは安全」
「ニコニコ笑っている人には放射能は来ません。クヨクヨしている人に来ます」
など。

しかし、私がもっとも不審に思ったのは、彼の発言につねにまとわりつく「国家主義」の発想・観念である。

「パニックになってはいけません。社会の一員として理性ある行動をお願いします。」

「ここは日本国です。私たちは日本人なのです。」

「みなさんへ基準を提示したのは国です。私は日本国民の一人として国の指針に従う義務があります。科学者としては、100ミリシーベルト以下では発ガンリスクは証明できないだから、不安を持って将来を悲観するよりも、今、安心して、安全だと思って活動しなさいととずっと言い続けました。ですから、今でも、100ミリシーベルトの積算線量で、リスクがあるとは思っていません。これは日本の国が決めたことです。私たちは日本国民です。」

これほどあからさまに「国の指示に従え!」と言う御用学者はさすがに他にはいなかった。

頭のよい官僚は、腹の底ではこのように考えているが、これほどあからさまに権力意識をさらけ出してそれを発言することはない。それを国民にさらけ出すことは、彼らの得にならないことを十分に承知しているから・・・。

しかし、彼ら「霞ヶ関官僚」の本当の「本音」はこれなのだ!

権力というものの「本音」を見せてくれたという意味では、山下俊一の発言は特筆すべきであった。

乳がん検診 [雑感]

妻が一年以上前に受けた乳がん検診で、「一年後にもう一度マンモグラフィーを受けてください」と言われたのだが、どうすべきか考えてしまう。

Google で「乳がん検査」「マンモグラフィー」とか検索すると、「ぜひ検査しましょう」みたいなサイトばかりがトップに出てくるが、その反面否定的な意見もたくさんある。

例えば、

2009年11月、米国予防医学専門委員会(US Preventive Services Task Force, USPSTF)は、それまで「40歳以上の女性に対して、マンモグラフィを用いた乳がん検診の1~2年に1回の受診を推奨する」としていた推奨(グレードB)を、「40歳代の女性に対しては、マンモグラフィを用いた定期的な乳がん検診を行うことを推奨しない」という推奨(グレードC)を発表しました。(その後、推奨の表現は「50歳未満の定期的なマンモグラフィ検診を行うにあたっては、対象者個人ごとの利益と不利益に関する価値判断を考慮すべき」と修正されていますが、推奨グレードCの判断自体は変わっていません。)
推奨グレードがBからCに変更された理由として、マンモグラフィ検診による利益(乳がん死亡率減少効果)は40歳代の女性に対しても認められるものの、不利益(要精検の結果、がんではなかった人に対する不必要な検査や放置しても臨床的に問題にならないがんに対する治療等)が存在し、利益と不利益を比べた場合に50歳代以上の女性と比較して、40歳代では利益が不利益を上回る度合いが小さいことが挙げられています。

これも、

40〜49歳の女性の場合、マンモグラフィー検診は乳癌による死亡率を15%しか減らせないとされる。一方で、誤診の確率がかなり高く、不必要な組織検査を受けさせられたり、無用な心配にさいなまれる恐れがある。癌のリスクが少ない家系で自覚症状もない若い女性は、メリットとデメリットを慎重に検討する必要がありそうだ。(ニューズウィーク日本版2009年12月16日号掲載

あるいは、推奨はしているものの、何か歯切れが悪い、こんなのとか。

「マンモグラフィ検診は完璧ではありません。すべての乳がんを見つけることはできません。それでもあえて私は日本の女性全員に、『最低でも一回はマンモグラフィを受けてください』と言っています。マンモグラフィには、それだけの価値があるのです」(日本乳癌検診学会理事長福田医師インタビュー)

「マンモグラフィによる乳がん検診が一般的になってから数年。実は、乳がんによる死亡率は、減少していません」

「欧米女性の場合、日本人に比べ乳腺密度が少ないことが多く、さらに乳がんの罹患年齢のピークがおよそ60〜70歳。したがって乳腺密度も薄く、マンモグラフィでも比較的見つけやすい」

「若ければ若いほど、マンモグラフィで乳がんを見つけるのは難しい」

「日本女性の場合、マンモグラフィが不得意とする脂肪が少ない(逆に言うと乳腺が濃い)乳房であるため、マンモグラフィ検診の効果は少ない」

「その結果、どういう事が起こるか?見逃さないために、精密検査に回すことが多くなります」

「マンモグラフィ検診を継続的に受けたグループと、一切受けなかったグループ。その乳がん死亡減少率の差は15%〜20%」

、、、微妙だな、と思う。

特に、

全員を救う、のではなく、なるべく多くを救う。それが国費を使う『対策型検診』の目的」

こういう発言を聞くと、何か、予防接種とかワクチンとか産科医療の過剰介入に通じる、「近代医療推進」のための「理屈」を感じてしまう。

原子力推進と似たような、近代社会に生きることそのものが確率論的なリスクにさらされているのだから、そこに参加するものは皆等しくそのリスクを受け入れなければならない、みたいな。

たしかに、ネットで検索すると、「マンモグラフィーで石灰化などが見つかって医者は『95%は良性です』と言っているが、不安で自主的に細胞診とかマンモトーム生検とか受けて、実際初期の乳がんを発見して手術した」なんて人もいる。

そして、「良性ですと言われて経過観察していたら実は若年性乳がんで、全摘出手術した」という人もいる。

その人たち、つまり、本当にガンになってしまった人たちからしてみれば、「検査して良かった」あるいは「もっと精密検査を受ければこんなにひどくならなくて済んだ」ということになる。

それを否定することはできないし、そういう方たちを一人でも多く救うという目的で、乳がん検診があるのだ。

だけど、こういった「結果」からさかのぼって、「その原因を取り除く」という考え方は、健康な人にとっては同時に「過剰検査」「過剰治療」によって身体に無用な負担をかけることにもなる。

ガン検診は難しい問題なのだ。

例えば、マンモグラフィーではほぼ「良性」と診断されているような石灰化が、マンモトームという「先進医療」で初めて「ごく初期の乳がん」として発見されたとする。

では、それを放ったらかしにしておいた場合、どれぐらいの「確率」で悪性の進行性ガンになるのか?

そんなことは分からないわけだ。

ガンになる人もいれば、もしかしたら、極めて良性で、ずーっと長い間悪化せず、転移もせず、他の病気か老衰で死ぬまで分からなかったなんて場合だってあるかもしれない。放っておけばゆるやかに進行するガンを早期に発見したせいで、若いうちから抗がん剤を打ったり放射線治療をすることで、逆に寿命を縮めるかもしれない。

アメリカでマンモグラフィ検診が普及しながら40歳代の乳がん死亡率が下がらなかったのも(全体として死亡率は下がっているらしいが)、仮に40歳で早期発見して切除しても、転移が止められなかったということだろう。

これはもちろん、「ガンになってない人」の観点だ。

がん検診しなかったせいで末期がんになってから見つかった人や「早期治療で完治した人」もいるわけだから、そういう人からすれば、「絶対検査すべき」「絶対手術すべき」と言うことになるだろう。

誰だってガンになる「可能性」はあるのだから、わずかであってもそれを取り除きたい。

たしかに乳がんは「だるい」とか「痛い」とか初期症状がなくて、しこりが触診できるぐらいに大きくなっていたらかなり進行しているようだから、早期発見によって「手遅れ」になるリスクを回避することができる人もいるのだろう。

だけど、ガンを心配するあまり、不要な医療被ばくを過剰に受けて、それが原因で体調不良になったり、将来的にガンを発症する「確率」を上げてしまうことだって、ないわけではないだろう。

「検査しても何もなかった人が、検診と引き換えに医療被ばくのせいで、放っておけば一生顕在化しなかったようなガンが将来的に発症する」

そういう可能性はないんだろうか?

その可能性が少しでもあるなら、日本でガン患者数や死亡者数が増加する一方なのも、「食生活の欧米化」「高齢化」「晩婚化」なんていう理由だけでは説明できないことになる。(もちろん原発の通常運転で漏れてる放射能や大気圏内核実験のフォールアウトの影響もあるだろう。そして言わずもがなの『あれ』も)

だから、検査よりも何よりも、本当は「ガンにならないようにする」ことが重要なんだと思う。

いや、「ガンにならない」なんて言ったって、自分も含めてなる時はなるんだろうし(悲しいことだが)、一旦体を壊せばそこから健康を取り戻すのはもっと大変なのだから、食生活に気をつけて運動して、それから何よりも「放射能を避けて」、

まだ健康なうちに、健康であるために全力を尽くす

ってのを第一に考えるべきだろう。

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Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.

明日死ぬかのように生きなさい。永遠に生きるかのように学びなさい。

マハトマ・ガンジー

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乳がんの過剰診断ー検診の戒め

岡田正彦・新潟大学医学部教授 長生きしたければがん検診は受けるな(2012年02月15日(水) 週刊現代)




原発容認派が反原発をたたく理由 [雑感]

容認派は「論理的でありさえすれば、みんな納得するはずだ」と言う。

「論理的でありさえすれば、全ては客観的に『最適解』となって、そこに誰もが必然的に到達するはずで、これしかないってのは分かるよね?」

と優しく語りかけてくる。

いや納得いかない、と言うと、

「それ分からないって言うなら、勉強不足で、感情論で、ただの無知で、ゴネてるだけだ。何でおまえら説明しても分かんないのかな?だんだんもうしゃべるの嫌になってきたよ。もう勝手にしろ!ほんとバカだなあおまえら。おまえらのせいで脱原発も台無しになる」

みたいにまったく譲歩せず、

「冷静に話し合いましょうよ」とか言いながら、

「何で俺の言っていることを理解できないんだ!」と、激烈に反原発をたたき始める。

こういう人いるよなあ、と思う。

で、こういう人間ってじゃあ万能なのか?というと、そんなこともなくて、失敗したり、人を傷付けたりしているわけだが、

その時ですら、自分の行動には何の否もないと言う。

なぜなら、自分は常に「考え抜いて」「最適解」を「全力で導いた」わけで、それ以上やりようがなかったのだから、「じゃあ一体どうしろって言うの?おまえができるの?」と開き直る。

いや、開き直るとかじゃなくて、それ以外にこの人の答えはないのだ。

うん、いるんだ、こういう人間、たしかに。

こういう人って、自分がダブルスタンダードなのを承知しながら、「ダブルスタンダードにならざるを得ない」みたいな奇妙なエクスキューズを用意している。

まさに、「容認派」ってのは、そういう類いの人間なんだ。

だから、こういう人間は自分の過ちを全く理解できない。

とにかく「俺はぶれない」みたいな過信がアイデンティティーの核心でもあるし、そこを絶対に否定できないから、その保全のためには、勉強に全力を尽くして、とにかく相手を論破する、みたいな独善的なやり方しかできない。(だから、自分を可愛がるための努力は惜しまないという意味では、かなりの努力家だと思う)

ところが、「現実」ってのは、やっぱり別なんだな。

それは論理だけをもっては捉えられない。

論理ってのは、結局「すでに起きたこと」から演繹して、未来を予測することしかできないから、「これから起きること」と必ず、必然的に齟齬が生じる。

その齟齬ってのが、人間の力能ではどうしても取り去ることができないから、そういう部分ですれ違いや誤解や、場合によっては災厄や戦争が起こって、そうなるともう解決できないから、裁判所や国際法廷で、法の元に裁いてもらうことになる。

だから、今回の原発事故ってのはまさにその「齟齬」そのものなんだな。

それなのに、それが「受け入れられない」。

なぜかと言うと、結局それは「起きない」と言い切ることに、自己の全ての基盤を置いてきたわけだから、その事実を否定したら、自分の存在も全否定することになる。

だけどね、だからこそ、裁判があるわけだ。

今、福島原発の責任問題について、全てを津波のせいにできるんだとしたら、本当に行政も司法も崩壊してると思う。

しかし、現実に日本という社会がそうやって、誰も責任取らずに生きながらえてるわけだから、そこで、「俺は間違ってない」ということは、「日本政府も間違ってない」ということで、今のところは自己肯定できるんだと思うし、「最適解」とか言いながら、結局「国家の言ってることは、最適解だ」っていう、「保守」の考え方を踏襲してるに過ぎないんだ。

「自分はもしかしたら間違ってるかもしれない」と思いつつ、間違いがあれば反省するということができない。

いや、できないとかじゃなくて、権力者には「俺がこうだと思ったことを全力でやって、間違ったらしょうがないだろう」って頭しかないんだし、原子力に「含み」なんて持たせたら、それこそカタストロフの可能性を公に認めることになる。

だから、推進派は原子力を守るために、「嘘をつくことも最適解だ。だから間違ってない」というエゴの極北みたいな答えを出す。

原発爆発時に屋内退避を呼びかけたらパニックになるからみんなを被ばくさせたのも、やつらにとってはそれが「最適解」だったからだ。

だけど「間違ってるか、間違ってないか」なんて、その人個人が決定する事じゃないだろう。

自分がどんなに優れたことしたと思っても、多くの人間にとって迷惑であれば、それは間違っている。

つまり、こうだ。

主張自体が否定される所以というのは、どこにもないわけで、どれだけの数の人がそれに賛同しているかということが問題になる。

だから、何か反原発デモに関しても、「10万人なんか集まってない」とか、おかしなところで因縁を付けてくる。

これは、結局、「数」が民主主義においてでかい意味を持つことを、保守の人間は理解してるから、どうにかその芽を摘みたいんだと思う。

、、、なるほど、、、ここだな。

ここがポイントなんだ。

なんで容認派というのが、「主張したい事主張すればいい」とか言いながら、相手の矛盾を激烈なまでに論駁したり、誹謗中傷したりするのかと言うと、この「数」のバランスが逆転することを一番恐れてるのは「保守」なんだと思う。

「論理」とか「客観性」とか「最適解」っていうのは、結局体制派の「数」によって「政治的に」決められていることを、保守の人間は嫌と言うほど分かっているわけだし、だからこそその「保守基盤」の固守のために、必死になるんだと思う。

つまり、「科学的に証明されている」と言っていることはイコール「科学的に証明されているということを疑わない人間の方がたくさんいる」って言うことだから、

科学的かどうかの問題よりも、それを信じてる人間の数が多いか少ないかの問題になっている。

科学というよりむしろ宗教心に近いぐらい、そんな判断は「印象」に大きく左右されるから、「放射能は関東も汚染した」とか口が裂けても言えない。放射能や原子力発電に関しては、保守からすれば「平等な報道」とか「平等な情報公開」なんてあり得ない。

だって、仮にテレビで福島原発事故について「ありのままの報道」をしたら、きっと世論は一気にひっくり変えるでしょう。

ネット上の反原発の言説がすぐにたたかれるのも、小さい噂でも広がれば、自分たちが都合良く決めた「最適解」を否定する人間が増えて、「数」に影響が出ることを、容認派も推進派も恐れているんだと思う。

「論理的に話せ」とか「データ出せ」とか「感情論で煽るな」とか言うけど、本心は、

「これ以上広めないでくれ、みんなの気が変わっちゃう!」

ってことなんだと思う。



原発容認派について [雑感]

原発推進派じゃなくて、「容認派」っていう、もうちょっとやんわりした人たちがいる。

原発はいずれ廃止されるべきだから反原発派の主張も分かるが、今は再稼働はやむを得ない、みたいな。

で、意外に心の中ではそんな風に考えてる人が多いんじゃないでしょうか?

この手の人間の思考っていうのは、

世界っていうのは、理知的に再構成された、厳然たる必然性に基づいていて、それを人は知る事ができるし、知る努力をすれば、完全に予測できるっていう信念がまずある。

で、じゃあ完全に予測できるのか?っていうと、

いや、そうじゃない、それは神じゃないから無理、と来る。

はあ?じゃあどうするの?って言うと、

だから、考えに考え抜いて、勉強に勉強を重ねて、「最適解」を求めるしかない、と来る。

で、もしそれが間違ってたらどうするの?と言うと、

「その時はしょうがない。それしかやりようがなかったのだから、諦めて、またがんばるしかない」と来る。

え、で、誰かが死んだり、犠牲になったり、傷ついたりしたらどうするの?

それはしょうがない。より大なる人間の目的のためになら、多少の犠牲はやむを得ない、それが人間の文明であり、それが契約社会だ。そんなことをいちいち気にしていたら進歩などない。全ては「科学的に」判断されるべきであり、「感性」などに溺れてるのは弱い人間だ、と来る。

これは、結局、そこで犠牲になる「命」や「感情」や「感性」っていうのを、その「理知的な、論理的な、最適解に基づいて展開する社会」における、やむを得ない犠牲として、その集団に属する人間は1つの「契約」として受け入れなければいけない、って言うんだ。

おいおい、と思う。

それなら、憲法にでもそう明記すればいいんじゃないか?

この問題のおかしなところは、こういう人間ってのは、「世界はすでに最適解としてそこにあるから、それに従うべきだ」と言いながら、実際の世界は、「その最適解にも間違いはあるから、どうしても譲れない部分に関しては憲法で規定しよう」ということになっていて、それが「最適解」であるはずにもかかわらず、「いやいや、それはあくまでも『建前』で、本音の『最適解』ってのがあるんだよ」と言うのだ。

え、それはどこにあるの?と聞くと、

「俺の心の中」ってことになる。

なんだよ、それ「感性」じゃん!って思う。

要するに、「科学的」とか言いながら、それを「最適解」と見なしてるのは、その人間の「感性」なんだ。

で、問題はこうだ。

その人間の「感性」ってのは、要は、「命」を簡単にうっちゃれるんだな。

ところが憲法を見てみろ。

「国家の発展のために、経済のために、個人の多少の犠牲はやむを得ない」なんてどっかに書いてあるか?

書けないだろう、そんなこと。

どういう社会だ、と思う。そんな憲法あったら。

つまり、「多少の犠牲を出すことは許されない」から、「基本的人権」や「生命の尊重」が憲法に明記されるわけだし、そこは絶対に譲れない最適解として歴史が築いて来たのだ。
日本国憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
それを、個人の「感性」でもって、ぽーんと抜き取ってしまえれば、それはもう何も気にせず、必要な時に必要な弱者を犠牲にできる、権力者の理想郷ができるわけで、

実は、この「権力の側にいるつもりの人間」が「国家の気持ちをおもんぱかって」「妄想」してるのが、この、

「ちょっとの犠牲はやむを得ない」ってぶっちゃけてる世界観なんだ。

だけど、ぶっちゃけて済まされないから、憲法があるんでしょう。

個人の生命、自由、幸福追求の権利は「最大の尊重を必要とする」ってのに完全に矛盾するでしょう。

よく内部被ばくの危険性を認めさせたいなら、論文書いてICRP勧告書き換えさせればいいだろう、なんて人いるけど、命より経済、経済言う人は、日本国憲法書き換えろ、って話だと思う。





疎外された自己を肯定する [雑感]

昨日広瀬さんのカンパについて書いた。

反原発派の『お金』のことになると、『どうせ世の中金まみれでおまえも金儲けしたいだけだろう』みたいに、鬼のクビ取ったように罵る人間がいるが、一体何を言いたいんだろう?

他人を卑しめることで『俺は間違ってない』と思いたいのだろうが、とても悲しい人間だと思う。ああ、資本主義社会の『自己疎外』か、マルクスは正しかったんだなあ、と思う。

きっと最初は『無気力』になるんだろう。だって機械みたいに努力して、勉強して、働いて、あげく『自分が自分じゃない』と思えるんだもの。

誰だってある程度はそういう感覚を持っているし、「俺は間違ってない、私は間違ってない」と念仏みたいに唱えて自分を騙さないことには、社会的自己を維持できない場合もあるだろう。

それが度を過ぎて、疎外された自己と根源的な自我が乖離すると、分裂症や鬱病になる。だから、精神病になる人は、その『疎外感を受け入れられなかった』という意味で、普通に生活できる人よりも純粋な心を持っていたのだと思う。

しかし、その精神崩壊を回避するために、『他人を利用する』ってのはいただけない。

会社で上司の悪口言ってすっきりするのも、精神的抑圧を解放するための似たような浄化作用だし、実際どっかの首相みたいに上に立つ人間はバカが多いから(いや優秀な人もたくさんいると思います)、その全部を否定はしないけど、ネット上で匿名で赤の他人を罵るやり方ってのは『ずるい』と思う。

それに、そういう人格が『反原発』を攻撃するのは、そうすることで原子力を推進する『お上の後ろ盾』を得ることができると、無意識に『嗅ぎ当てている』からだ。

『反原発め、気に食わん!』と怒りをぶちまければ、原子力政策の背後に見え隠れする超越的な『国家』が、ひとりぼっちの自我を励ましてくれる。力がむくむく湧いてくる。

「日本が君を応援しているぞ。日本人である君を!」

ある種『精神のドーピング』みたいなものだ。

推進派もそんな人間は大歓迎だろう。

お互いの利害が一致して、

嬉々として『反原発』『反体制』をたたく。

片や『自己救済』、片や『原発利権』ために。

ネットにはそんな『ひん曲がった』人間が溢れている。

いや、むしろ資本主義は、「疎外された自己を肯定する人たち」をその構成要員として必要としているのだろう。

おかしな話、『ひん曲がればひん曲がるほど』『自分のことを疎外すればするほど』、資本主義世界では『使える』人間になる。

テレビは中身のないバラエティー番組やグルメ番組ばかりを流して、自己批判を忘却させ、「現状維持を良し」とする。

子どもの時から「お受験」なんかで資本主義のルールに慣れ親しんで、そのまま究極までのし上がれば、官僚や東電役員や御用学者になれるかもしれない。

だから、反ー反原発派の工作員はお金をもらってやっているわけではなく、社会的に成り上がるつもりができなかった人間が、その「恨み」をはらすべく、自発的にそう振る舞っているのだと思う。

そういう精神を培養する土壌が、メディアを通じて日本の隅々まで行き渡っているのだ。

彼らが「国家」とか「経済」ばかり語るのは、自己を「すっからかんになるまで疎外し切ってしまって」、語るべき「自分」などどこにもないからだ。

だから、僕らが「自分たちの子ども」とか「自分たちの命」ということにこだわっているのが、彼らには何一つ理解できない。むしろ「そんなチッポケなことばかり言ってるから出世できないんだ、怠け者の貧乏人め」ぐらいにしか思ってないか、「俺が捨て去ったものの方に『価値』があると言うのか?俺の人生が間違っていたというのか?世の中金だろう?」と逆ギレする。

ネットで他人の誹謗中傷にいそしむことで、彼らは「国家のお役に立っている」つもりになる。

そうやって絶望的に「自分を救い出す」のだ。


*「自己疎外」=人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態(ウィキペディアより)



広瀬隆:正しい報道ヘリの会 カンパ募金集計結果発表 [雑感]

【広瀬隆:正しい報道ヘリの会】カンパ募金集計結果発表!

募金額総計7,878,098円(7月2日時点)
掛かった経費 1,053,550円(ヘリチャーター分など)
福島原告告訴団へ 5,000,000円
残りは7月16日の「さよなら原発代々木大集会」でも、ヘリを飛ばす費用へ

とのことです。以下広瀬さんの言葉より引用。いい話ですね。泣けて来ました。次は僕も寄付しよう。
大飯原発3号機が狂気の再起動に踏み切った翌日、7月2日に城南信用金庫の高円寺支店を訪ねて、カンパの口座を開いた「正しい報道ヘリの会」の記帳をしました。口座名義人の私(広瀬)は内心で、50万円ぐらいカンパが集まっていてくれると助かると思っていました。
すると、記帳がいつまでたっても終わらず、やがて通帳が一杯になったので、窓口に新しい通帳の作成をお願いしたところ、「大変な記帳なので20分か30分かかります」とのことで、待ちました。
ようやく記帳が終ってみると、通帳は5冊目に達し、「残高787万8098円」となっていました。私は驚きの余り、言葉を呑みました。城南信用金庫高円寺支店のみなさんも、ヘリ・チャーターの事情をご存知で、「大変な方の数ですね」とニコニコと笑顔で祝福してくださいました。
帰宅後に、通帳に書かれた、カンパを寄せてくださった人のお名前を全員、1人ずつ見ました。企業の方からも多数ありました。見ているうちに、そのお一人ずつの人生が目の前にまざまざと思い浮かんで、どうしても涙をこらえきれなくなりました。
どのように、この人たちの情熱と、日本政府と報道界に対する怒りに応えられるだろうか、と、、、。
私には、この胸にわき上がる深く強い感謝の言葉を、カンパを寄せてくださったみなさまに、正しくお伝えすることが到底できません。それでも、簡潔に「本当にありがとうございました」と、精一杯の心で述べさせていただきます。
「これで、被曝を強いられた福島原発告訴団の人たちに、たくさんの支援ができます。みなさまの強い愛が福島に届きます」と。






でかい話 [雑感]

原発推進派/容認派っていうのは「でかい話」が好きなんだ。

国家とか経済とか資源とか産業とか国防とか。

それで反原発派ってのは、どちらかと言うと「ちっちゃい話」にこだわってる。

家族、子ども、命、故郷、みたいにだいたい「自分サイズ」の話だ。

それで、推進派からすると、そういう「感情」とか「命」とかにこだわっている人間は、「弱い」やつで、そんなやつに任せてたら「世界経済」とか「国際競争」とかの中で生き残れるはずがないから、「原発」とか「エネルギー問題」とか「安全保障」とか、「俺たちみたいに頭が良くて意志の強いやつ」にまかせとけ、口出すな、という話になる。

まあ意志が強いっていうよりは、ただ単に「金でドーピングされた」守銭奴だと思うが、そういう資本主義的サヴァイバルにどっぷり浸かった人間にとっては、それが「強さ」ってことに何の疑いもないんだと思う。

しかし、国民主権とか、基本的人権とかが憲法で謳われているのだから、まさか「おまえ弱いくせに『自分』とか『自分の子ども』のことばかり考えるな!」なんて国家の側からはなかなか言えないだろう。言えるとすれば戒厳令とか召集令状とか戦争状態の話になってしまう(と思うのだが、それを『がれき受け入れ反対するやつには黙れって言えばいい』とか『がれき焼却が嫌ならこの街を通るな』とか、自治体の首長が平気で言ってしまえるのが日本の不思議なところだ)。

そして、原子力に対してはなぜか盛んにこの「でかい話」が持ち出されてくる。

放射能についても、「国のために被ばくしても我慢しろ」とか直接的には言わないが、

「家族というちっちゃい幸せを守るためにはとりあえず原子力っていうでっかいシステムも大事」

みたいに何となく納得させようとしてくる。

放射能の健康被害が出るのか?出ないのか?っていう問題よりも、自分たちの「家計」と国家の「経済」のために原子力を受け入れるか?受け入れないか?みたいな話になってる。

「お金を稼ぐためにはある程度自分や家族を犠牲にしなければならないし、もしかしたら鬱病になるかもしれないし、過労死するかもしれない。だけど、それを受け入れて働くしかない」

こういうサラリーマン的な感覚の延長上で、

「放射能は身体には決して良くないかもしれない。だけど、それは想定外の自然災害によるやむを得ない事故によるものだし、原子力は国家政策だから、日本人として我慢してそれを受け入れて生きて行くしかない」

みたいに納得してないだろうか?

そう考えてもらうのが国としては一番ありがたいと思うし、被ばくさせられても自主的にそう考える国民がいれば理想的な奴隷だと思う。

しかし、いくら経済、経済言ったって、「原発爆発」させる必要はなかっただろう。

それを起こしてしまった時点でその「でかい話」が間違ってたと思うんだけど、それがいつまでも無限に「でかくなる」。

敗戦するまで「大義」を唱えるのと一緒だ。





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