原発と憲法 [雑感]

「憲法とは権力を持たない『主権者・国民』が、権力担当者すなわち政治家や公務員という、本来的に『不完全な人間』に課した制約です」と今回の安保法案について違憲判断をした憲法学者の一人が語った記事をネットで見た。

「憲法は国家に対する命令」という言葉を思い出したが、ハッとさせられたのは「人間という不完全な存在」という部分だ。

それで全く関係ないが「原発という不完全な存在」ということを考えた。

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原発を「規制」するのは、その安全性を「完全」にするためだ。ところが地震や津波といった自然災害は人智を超えた破壊力を持つから、それゆえそれらに対する防御には「不完全さ」がある。

「不完全」であるならそれは稼働できない。ゆえにその「不完全さ」を「想定外」「予見不可能」つまり「想定する必要がないものにして」取り除くことによって、擬似的に「完全です」と言い張ることでしか「稼働」は可能とはならない。

もしそこに「不完全さ」があれば、それは「規制」とか「法案」に照らせば、論理学的には「稼働してはいけない」ということになる。

その完全性が虚像で、推進する側にとってさえも原子力は「夢想」であったがゆえに、彼らの無意識へと抑え付けられた良心の呵責は「夢のエネルギー」という呼称の中に本心としてうっかり表出してしまった。

そこで憲法について考える。

「人間は不完全だ」ということは、人間は「もしかしたら」あるいは「必ず」間違いや罪を犯す、ということだろう。

だからまずその『罪』を犯してはいけない、という原則を作るからそれが憲法になる。

「人間は不完全だから罪を犯すゆえに罪を犯してはいけない」

これは何か語義矛盾しているように思えるが、前半で「不完全さ」を認め、後半で目指すべき「理念」について語っているわけだ。

つまり「憲法」は一つの「理念」であり、論理学的な厳密さで明文化された人が目指すべき「理想」なんだと思う。

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福島原発事故後の原発の安全基準を巡る議論の中で、「事故は起きるという前提で」ということをICRPら推進派が言い始めた。

最初は「想定外」として「危険性」をひた隠しにし「絶対事故は起きません」と「嘘で塗固めた理念」でだまくらかして来たのだが、原発が爆発して放射能をまき散らした後になったら「ぶっちゃけ危険だから。俺、知ってたから」と開き直り「だから事故起きるよ。そのうちまた、絶対、悪いけど。その時はまたみんなで我慢して手伝ってよ」と民間人に自助努力を求める。

もちろん現実的に本質的に「不完全」だったわけだから、事故後の言い分から取り払われようとしてるのはこの「理念」の部分だ。

こういう話をこの「憲法」の話と繋げてみる。

すると原発問題も憲法問題も、巧妙な形で人々の心理に対して「偽装」していることが分かる。

「人間は不完全だから罪を犯す。だから罪を犯してはいけないという法律を作る」
「原発は不完全だから事故を起こす。だから事故を起こしてはいけないという法律を作る」

こうして二つの言い方を並べてみると、何か似たようなことを言っているようにも見える。

しかし決定的に異なるのは、法律によって規制を受ける対象が「人間」と「機械」であるという点だ。

人は「理念」に従うことができるが、機械は「理念」には従わない。

だから機械に求められるのは、設計上の「完全さ」なのに、なぜか「法律」によって「不完全な原発」が「より安全になる」かのようなニュアンスが作り出されている。

○「不完全な人間が憲法という理念によって完全さを目指す」
×「不完全な原発が規制という理念によって完全さを目指す」

原発が「理念によって完全さを目指す」って何だ? この時原発は「まるで人間のように」扱われている。

そして改憲派は「憲法九条は理想であり現実にそぐわない」と言う。

この時、社会や人間は一つの機械のように「効率性」や「生産性」や「経済性」をひたすらに追求し、その駆動メカニズムから無駄を取り除いてコスト削減すればするほど、それはまるで「永久機関」みたいに「設計上」の「完全さ」に近づけることができるかのような話になる。

今度はこうだ。

×「不完全な人間が経済というメカニズムに従ってより効率性を向上させる」
○「不完全な原発が設計というメカニズムに従ってより安全性を向上させる」

そしてこの二つの文言をシャッフルし、権力に都合のいいようなメッセージを作文する。

×「不完全な人間が経済というメカニズムに従ってより効率性を向上させる」
×「不完全な原発が規制という理念によって完全さを目指す」

改憲には「人間」が邪魔で、原発稼働には「機械」が邪魔だから、

「人間は機械のように、原発は人間のように」扱うのである。

こういった詭弁が可能となるのは、その対象が「人間の心理」であるからで、その「心理攻撃」に対して主体性の希薄な日本人は実に脆弱だと思う。

現政権はその「弱さ」を巧みに利用しているようにも見えるし、それは国民と国家の関係と言うより「消費者」と「広告代理店」の関係に近い。

広告プランナーは「虚」と「実」を巧妙に入れ替えて消費者心理を操作することで「浪費」と「搾取」の片棒を担ぐ。

その術中にはまらないためには創造的リテラシーが必要だ。

原子力は物理の問題であるがゆえに「夢のエネルギー」というコピーは物質にとって「虚像」となる。

憲法は倫理の問題であるがゆえに「夢の憲法」というコピーは精神にとって「実像」となる。


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