普通であることの罪 [雑感]

今日車のワンセグで芸人とクリエイター3人の対談というのをたまたま見た。

現代社会で「クリエイターと呼ばれる人間」になるためにはいかに「病んでいなければならないか?」が分かって興味深かった。

各種業界の中に「クリエイター」のステレオタイプがあって、その「型」に知らず知らずにはまっていく人間が社会的に「クリエイター」や「アーティスト」と呼ばれる「居場所」を見つける。

二人の話を総合するとこんな感じになる。

「根底のところで人を信頼していない。根底に『絶望』と『破滅願望』がある。学生時代、いわゆる青春時代に『何もなかった』。人はそこで恋愛したりケンカしたりして『大人になる』と思うが、それができなかった。

だから今その『青春』を取り戻そうとしている。だけどいつまで経っても『お腹いっぱいにならない』。『青春ゾンビ』なんです。

あらゆる『ウケる創作物』『流行もの』は『あるあるネタ』だから、それを作ろうとしている。

他人と一緒に住むなんてできないから一人でいる。人が家にいることに耐えられない。なぜならその人に対して『コスプレ』(演技)をしなきゃいけないから。

電話もかけられない。なぜなら相手が何かやっていてその『邪魔をする』のではないか?と思うから」

そしてこう結ぶ。

「基本的に自意識過剰なんです」

そこで芸人が「だけど、それが創作の源になるんですよね?」と聞く。

クリエイターが言う。

「社会性を取るか創作を取るか?ってことだから、担当者は逆に『電話なんかしなくていい』って言うと思う。だけど『両方できる』ってのが一番すごいじゃないですか?」

するとその芸人が答える。

「僕は両方やってるつもりですけどね。『ちゃんとした』人間ですから。これでも『常識人』だと思ってるので」

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「鏡地獄」みたいにねじれまくったこの現代社会における、「普通」と「創造性」の大変興味深い「対比」がある。

この「クリエイター」たちは典型的な「アダルト・チルドレン」で、それがつまり「業界」にとっては理想的な「生産者」として重宝される。

(彼らは主体的に『創造』してるのではなく、需要に基づいた『あるあるネタ』を『生産』している)

だから、彼らは「チルドレン」のまま「社会的自己実現」をある意味果たしたのだから、現代の幸福基準で言えば「幸せ」なんだと思うし、実際そういう「幸せ」を目指す人間がうじゃうじゃいるだろう。

彼らは基本的に「親」や「社会」を恨んでいて、自分の不幸を「そのせい」にしている。

その「恨み」は「自己嫌悪」へと向かい、それがまた反転して表裏一体となった「自意識過剰」を生み出す。

その自己同一性のアンバランスさこそが「アイデンティティー」となるともう取り除くことはできないから、それゆえ「常識」を身につけることに抵抗する。

「常識的になること」「普通に生きること」を選択した時、「チルドレン」はもっとも許し難い「普通の人間」に堕してしまう。

それは何よりも苦痛で「自己嫌悪」を増幅することにしかならない。

だからこの人たちは「クリエイター」になれて良かったと思うし、現代人の多くは潜在的に「クリエイター」になりたいんだと思う。

そうすれば「チルドレンのまま」でいられるから。

しかし「クリエイター」になんかなかなかなれないし、「日常」や「常識」に無理矢理封じ込められる人間がほとんどなのだ。

そこで潜在的に「子供じみた表現欲求」が抑圧される。

だから家庭内暴力や子供への虐待はそんな人間にとっての「クリエイション」となる。

親からも学校からもメディアからも「すごい人間になれ。すごい人間にならなければ生きる価値がない」と吹聴し続けられたところの「転倒」がそこにある。

その人たちにとって「普通」であることは「罪」なのだ。









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