津波による塩害で困っている農家を助けるために、たくさんの企業が協力して、「綿」を育て、洋服を作って売る。
素晴らしいプロジェクトだ、、、放射能さえなければ。
土地の土壌汚染を見ると、20-50ベクレル/kgというようなセシウム134、137汚染があるようだ。
綿への土壌からのセシウム移行係数は低いから、
ゲルマニウム半導体検出器を使っても10 ベクレル/kgの検出限界で「ND」らしい。
このコットンから作られる洋服を着て被ばくすることなど「限りなく0に等しい」し、その洋服を着て被ばくするより、飛行機に一回乗った方が外部被ばく量ははるかに大きいだろう。
しかし、本当に、検出限界以下だからと言って、数ベクレルのセシウムを含む衣類を身にまとって良いのか? その綿ぼこりが口に入ったりしても問題ないのか?
そんな疑問に以下のサイトが答えている。
東北コットンプロジェクト 出荷判断に至る過程について
自然放射線、カリウム、バナナ、そんないつもの「原発推進派」の文言が踊るので、たちまち気持ちが萎えてくる。
またその話かよ、、、と思うのだ。
赤ん坊って洋服とかチュウチュウ吸ったりするけど、大丈夫なのか? そんなことには「絶対に答えられない」でしょう。
「何かが起きる可能性は『限りなく』低い」
としか答えようがなく、結局その『限りなく低い可能性』を気にしているお母さんにしてみれば、同義反復でしかない。答えになってないし、結局「気にする方がおかしい」みたいな話になるのだ。
僕は思うんだけど、この手の話はもういいから、もう一歩突っ込んでみてくれないだろうか?
つまり、こういうことなのだ。
「限りなく低い危険性」を「気にしてもしょうがない」ということを言うために、カリウムやバナナを持ち出してくるのではなく、その「限りなく低い危険性」が「なぜ生じたか?」そして「なぜそれを私たちは受け入れなければならないのか?」
そこに言及してもらわなければ、どこまで行っても「たいしたことない」「気にする方がおかしい」で、終わりなのだ。
まさに東電が原発について「安全です。起こり得ないリスクについては考えてもしょうがない」みたいに言い続けて来たことと一緒だろう。
そして、その東電の怠慢のせいで、原発が爆発して土壌が汚染されるようなことになったわけだから、まず、この「原発事故」についてもっと言及すべきじゃないのか?
汚染されるべきではない土地が汚染されたのは、津波のせいでも地震のせいでもなく、「東京電力福島第一原子力発電所」のせいで、その安全対策を怠ってきた東電のせいだ。
それに加えて原子力に無関心だった大人たちの責任を問うてもいい。
そういう「人災事故」のせいで、もうどうすることもできない状況が生じて、それを乗り越えるための「ギリギリの」選択としてこういうプロジェクトがある。セシウム汚染された土壌で育ったコットンを着て、「安全」という保証も、疫学的証明も、過去の事例も何もない。外部線量だのバナナの話で「安全だ」と言い切ることは出来ない。
汚染された農地もあまりに膨大で、一企業が賠償することなど「不可能」だ。そしてその土地を何とかするために「安全かそうでないかはっきりとは分からないもの」を、地域復興のために「やむを得ず」販売するしかないのだから、着る人にもそれぐらいの覚悟を持って欲しい。
そう伝えるべきだと思う。
この服を着たからと言って、白血病になったりガンになったりすることなどないだろう。その服の綿ぼこりが鼻から入って内蔵に蓄積するなど、おそらく0に等しいだろう。
それは認める。
だけど、だからと言って、そういう放射能の危険が「0」になったわけではなく、カリウムやら自然放射線に「上乗せ」される、ということは事実で、
どんな大義名分があっても、それを人間が「我慢」することに変わりはない。
だから「なぜ、それをやらなければいけないのか?」ということに答えるべきではないのか?
それを、
「自然放射線と同じだから、気にしてもしょうがない」
とやったのでは、原発推進派と同じ「安全神話」の繰り返しなのだ。
そして、思う。
じゃあ、そういう「にっちもさっちも行かない状況で、とにかくやるしかないんだ」という「本音」を、包み隠さずウェブサイト上で公表したら、果たして皆その「コットン」を「安全だ」と思うだろうか?
思わないだろう。
思わないから、買わないだろう。
そうしたら売れないから、事業も成り立たない。
だから、「安全」というしかない。
論理展開は完全に破綻しているけど、結局は原子力の広報、原発のセールストークと一緒だ。
本当のことを言ったら、原子力の電気など誰も買いたくないだろう。
だけど、それでもなお、作るしかないし、売らなければならないし、買ってもらわなければならない。
そしてその結果がこの原発事故だ。
だからそこから何かを学ぶなら、その本質的な不条理をまず認識することだろう。
これは「インフォームドコンセント」なのだ。
ガンであることを告知されるのが恐いとか、そんなこと考えたら生きていけないとか、だから「大丈夫だ」と思って深く考えないようにして生きていこう、とする考え方もある。
だけど、もうそんな「先延ばし」が効かない状況に自分たちは陥ってしまったんんだと思う。
まずは、汚染された土地があって、そこから作り出されるものは全てセシウム汚染されていて、検出限界以下でも「絶対安全」とは言い切れないことを告知するべきだと思う。
それでも、復興のために、何とかしなければならない、そういうギリギリの選択として、このコットンは作られている。買う方もその覚悟を持って欲しい。
それを明記すべきだ。
そう認識してもなお、そのコットンを手にする人は、自ずと「脱原発」に向かっていくだろう。
、、、と書きながら、やっぱりまず不可能だと思う。
四面楚歌。
放射能というのは本当に罪深いと思う。ただの塩害だけなら、誰もが喜んで支援するのに。
素晴らしいプロジェクトだ、、、放射能さえなければ。
土地の土壌汚染を見ると、20-50ベクレル/kgというようなセシウム134、137汚染があるようだ。
綿への土壌からのセシウム移行係数は低いから、
ゲルマニウム半導体検出器を使っても10 ベクレル/kgの検出限界で「ND」らしい。
このコットンから作られる洋服を着て被ばくすることなど「限りなく0に等しい」し、その洋服を着て被ばくするより、飛行機に一回乗った方が外部被ばく量ははるかに大きいだろう。
しかし、本当に、検出限界以下だからと言って、数ベクレルのセシウムを含む衣類を身にまとって良いのか? その綿ぼこりが口に入ったりしても問題ないのか?
そんな疑問に以下のサイトが答えている。
東北コットンプロジェクト 出荷判断に至る過程について
自然放射線、カリウム、バナナ、そんないつもの「原発推進派」の文言が踊るので、たちまち気持ちが萎えてくる。
またその話かよ、、、と思うのだ。
赤ん坊って洋服とかチュウチュウ吸ったりするけど、大丈夫なのか? そんなことには「絶対に答えられない」でしょう。
「何かが起きる可能性は『限りなく』低い」
としか答えようがなく、結局その『限りなく低い可能性』を気にしているお母さんにしてみれば、同義反復でしかない。答えになってないし、結局「気にする方がおかしい」みたいな話になるのだ。
僕は思うんだけど、この手の話はもういいから、もう一歩突っ込んでみてくれないだろうか?
つまり、こういうことなのだ。
「限りなく低い危険性」を「気にしてもしょうがない」ということを言うために、カリウムやバナナを持ち出してくるのではなく、その「限りなく低い危険性」が「なぜ生じたか?」そして「なぜそれを私たちは受け入れなければならないのか?」
そこに言及してもらわなければ、どこまで行っても「たいしたことない」「気にする方がおかしい」で、終わりなのだ。
まさに東電が原発について「安全です。起こり得ないリスクについては考えてもしょうがない」みたいに言い続けて来たことと一緒だろう。
そして、その東電の怠慢のせいで、原発が爆発して土壌が汚染されるようなことになったわけだから、まず、この「原発事故」についてもっと言及すべきじゃないのか?
汚染されるべきではない土地が汚染されたのは、津波のせいでも地震のせいでもなく、「東京電力福島第一原子力発電所」のせいで、その安全対策を怠ってきた東電のせいだ。
それに加えて原子力に無関心だった大人たちの責任を問うてもいい。
そういう「人災事故」のせいで、もうどうすることもできない状況が生じて、それを乗り越えるための「ギリギリの」選択としてこういうプロジェクトがある。セシウム汚染された土壌で育ったコットンを着て、「安全」という保証も、疫学的証明も、過去の事例も何もない。外部線量だのバナナの話で「安全だ」と言い切ることは出来ない。
汚染された農地もあまりに膨大で、一企業が賠償することなど「不可能」だ。そしてその土地を何とかするために「安全かそうでないかはっきりとは分からないもの」を、地域復興のために「やむを得ず」販売するしかないのだから、着る人にもそれぐらいの覚悟を持って欲しい。
そう伝えるべきだと思う。
この服を着たからと言って、白血病になったりガンになったりすることなどないだろう。その服の綿ぼこりが鼻から入って内蔵に蓄積するなど、おそらく0に等しいだろう。
それは認める。
だけど、だからと言って、そういう放射能の危険が「0」になったわけではなく、カリウムやら自然放射線に「上乗せ」される、ということは事実で、
どんな大義名分があっても、それを人間が「我慢」することに変わりはない。
だから「なぜ、それをやらなければいけないのか?」ということに答えるべきではないのか?
それを、
「自然放射線と同じだから、気にしてもしょうがない」
とやったのでは、原発推進派と同じ「安全神話」の繰り返しなのだ。
そして、思う。
じゃあ、そういう「にっちもさっちも行かない状況で、とにかくやるしかないんだ」という「本音」を、包み隠さずウェブサイト上で公表したら、果たして皆その「コットン」を「安全だ」と思うだろうか?
思わないだろう。
思わないから、買わないだろう。
そうしたら売れないから、事業も成り立たない。
だから、「安全」というしかない。
論理展開は完全に破綻しているけど、結局は原子力の広報、原発のセールストークと一緒だ。
本当のことを言ったら、原子力の電気など誰も買いたくないだろう。
だけど、それでもなお、作るしかないし、売らなければならないし、買ってもらわなければならない。
そしてその結果がこの原発事故だ。
だからそこから何かを学ぶなら、その本質的な不条理をまず認識することだろう。
これは「インフォームドコンセント」なのだ。
ガンであることを告知されるのが恐いとか、そんなこと考えたら生きていけないとか、だから「大丈夫だ」と思って深く考えないようにして生きていこう、とする考え方もある。
だけど、もうそんな「先延ばし」が効かない状況に自分たちは陥ってしまったんんだと思う。
まずは、汚染された土地があって、そこから作り出されるものは全てセシウム汚染されていて、検出限界以下でも「絶対安全」とは言い切れないことを告知するべきだと思う。
それでも、復興のために、何とかしなければならない、そういうギリギリの選択として、このコットンは作られている。買う方もその覚悟を持って欲しい。
それを明記すべきだ。
そう認識してもなお、そのコットンを手にする人は、自ずと「脱原発」に向かっていくだろう。
、、、と書きながら、やっぱりまず不可能だと思う。
四面楚歌。
放射能というのは本当に罪深いと思う。ただの塩害だけなら、誰もが喜んで支援するのに。