低線量被ばくに備える [被曝]

あるブログコメント欄より。

「低線量放射線の健康影響については専門家の間でも論争がある」というコメントに対する某「大学教員」のコメント。

・(低線量被ばくの影響はほとんどないのだが)自称専門家が議論を吹っかけ続ければ、一応「専門家の間で論争になっている」という形にすることが出来る

・低線量被爆の議論は、タバコを1日100本吸ったら肺癌になることが疫学調査で認められているとして、1日1本ならどうなるか?という議論と同じ話

・日焼けは紫外線による細胞死だから、大量の日焼けは避ける必要はある。しかし1日3分外出するか10分外出するかで揉めている人がいたら「そんな細かいことは気にしなくていい」と言う

・福島の避難勧奨地域以外の放射線量の増加はそういうレベルである

だそうだ。

原発事故さえなければ、ごもっとも、と思ったかもしれない。

だけど国も東電も原発事故を起こしてどうすることもできなくなって、そこで「放射能気にするな」と行政判断せざるを得なかったわけだから、それを擁護する「科学」って一体何?と思う。

(子供はタバコ吸わないだろう、、、とか)

だから、このコメントにも低線量被ばくの「可能性」は暗に示されているわけで、僕はやはり対策を取ると思う。

この例え話で言うなら、

「1日1本のタバコ」も断固吸わない。

そして子供に「1秒でも」副流煙を浴びせない。

必要以上の日焼けは避けるし、日差しが強い日は子供にも日焼け止めクリームを塗り、長袖シャツを着せる。

別に対策でも何でもなく、ごく当たり前に日常的にやっていることをする。

しかし、この「大学教員」が想定している状況はもっと特殊なんだな。

また例え話を借りれば、

福島の一部がタバコ工場の大火災を起こしてニコチンまみれになって、そこから「副流煙」が流れて広大な地域を覆っているとする。

もうどうやったってその煙の中で生活するしかない。

するとそこで初めて「1日1本ぐらいタバコ吸っても死なない」みたいな話になる。

これを東京の人間が、「あの副流煙でみんな死ぬ。子供は特に危ない」と言ったとすると、

それに対する逆切れが出てくる。

「東京だって大気汚染で肺がんリスクは変わらない。子供もたくさん住んでるだろう。そこで1本2本のタバコ気にしてもしょうがない」みたいな。

そういう状況にみんなが巻き込まれて、もうみんな諦めて「吸うしかないか?」となっている時に、

「いや、俺は1本も吸わんし、1秒も子供に吸い込ません」と躍起になってる僕みたいな人間がいると、

「自分だけ助かろうとするのか!いやならここから出て行け!」

と村八分みたいなことになる。

この「大学教員」の例え話はそういった汚染状況に住まざるを得ない大量の人々を前提にしていて、その中で「1本も吸わん」と意気込んでる人間をたしなめているんだと思う。

「意味ないよ」とか「どこも同じぐらい汚れてるから無理するな」と。

だけど、統計上0.1%とか0.001%とか「健康被害のリスク」は上昇しているんだろうから、リスクを取り除くためにはむしろそこから逃げ出したり、可能な限り汚染されていない食品を選んだ方が、科学的には「正しい」ことになるんじゃないか?

それにいつもそうだが「ガン」に影響を限定するけど、「ガン」を1人過剰発生させるリスクがあるなら、それ以外に数人数十人が「肺炎」や「ぜんそく」を発症するリスクもあるのではないか?

それを「意味がないから気にするな」っていうのは、そこに「留まらざるを得ない住民」に対して国や自治体がする行政的なカウンセリングみたいな話で、科学とは別なのだ。

だけどおかしいのは、その事故が自然災害と同じで「しょうがない」と諦めなければいけない話になっていて、大火災を起こした工場の責任を問わないことだ。

原因がすり替えら得れて認識がずれまくって、「気にする」「気にしない」で住民同士の対立が激化する。

「低線量被ばくは存在しない」と主張する人は、「気にする人」を攻撃する時は、「この放射脳め!とっちめてやる!」とまるで自警団のように勇ましいのに、東電の責任問題になると「専門家におまかせします」と途端に小さくなる。

被害者のケアと事故責任の追求は同時に行われなければならないのに、「もう原発事故のことは考えるな」と言わんばかりのその「慰め」は、原子力産業や電力会社を擁護しているとしか思えない。



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