低線量被ばくは放射能問題の核心 [被曝]

昨日書いた某「大学教員」の低線量被ばくとタバコの話は、原発事故直後から盛んに繰り返されて来た放射能安全派の紋切り型の例えだ。

そして、この例え話が意味を持つとすれば、

「東日本全体がタバコの煙でもくもくになっちゃった」

っていう状況を想定しているわけだから、「放射能たいしたことない」という安全派の人たちも、多かれ少なかれ原発事故によって、

「健康に影響を及ぼす可能性のある危険な放射能が広範囲に拡散した」

という事実は認めているんだと思う。

漏れて広がっちゃった、だけど

「薄まってるから大丈夫」って話をしたいのだ。

つまり、

原発推進派や容認派、放射能安全派の主張は、

「放射能は安全」ってことじゃない。

薄まれば安全」ってことなんだ。

「放射能」それ自体の問題で言えば、「危ない」んだ。

これはもう誰もが認めざるを得ない事実で、そうであるから原発の格納容器も原発作業員の防護服や防護マスクも存在する。

そしてこの点は原発推進派も安全派も認めているんだ。

反原発派はそこを取り違えてよく安全派にたいして、

「放射能が安全だ安全だって言うなら、福島原発の原子炉の中覗いてこい」

とか

「福島原発の隣に住んでみろ」

と言うが、すると彼らは、

「は?原発敷地内は危険って言ってますけど何か?」とすっとぼけるのだ。

放射能は「ごっそりまとまって存在すれば恐ろしい」わけで、

「薄まればたいしたことなくなる」っていうのが原発推進派の「錦の御旗」なんだ。

(それと同じで『食品汚染たいしたことないって言うなら600万ベクレル食ってみろ』とかも的外れな要求だ。むしろ安全派でなくても日本人のほとんどが近所のスーパーで普通に食材を選んで食っているのだから、彼らの『薄まれば安全』という主張は、日本中で日々実践されていることになる)

彼らの主張の大前提は「低線量被ばくは存在しない」ということだから、それは絶対にあってはならない。

試しに思考実験のつもりで、その大前提に立ってみよう。

とても恐ろしい展開になることが分かる。

「薄まればたいしたことなくなる」とするなら、がれき拡散も食品流通も何も問題ないどころか、逆に、拡散した方が日本はどんどん「安全になる」

「薄まっても何か問題が起きるんじゃないか?」と微塵でも思ったら、「ちょっと様子見た方がいいかも」と拡散を躊躇する。

しかし「薄めれば無害。薄めれば放射能は少なくとも人間の健康に影響を与えるレベルでは存在しなくなる」と確信するなら、「薄めよう、広げよう、除染しよう、食べて応援しよう」は汚染を広げるどころか、汚染を限りなく無害化していることになる。

これは僕が考えていた政府の態度、

「ごめん、どうすることもできないから、経済を優先して健康被害がちょっと出るの我慢して100ベクレル以下の食品流通させて補償しないようにして、がれき処理で業者儲けさせてくれ」

っていうのと全く別だ。

むしろ、拡散させることで後ろめたさを感じるどころか、

「日本をきれいにして、より安全にしている」と善行を施しているつもりなのだ。

つまり、もっとタチが悪い。

「薄まれば安心」という立場の人にすれば、危ないのは「濃い放射能がたっぷりある」強制移住区域の中だけで、その外であれば怖いものは何もない。

福島も関東も危険なものは限りなく元々「0」に近く、薄めれば薄めるほど完全に「0」になるのだから、もう「どんどん、どんどん拡散すればいい」ということになる。

「薄まっても危険」と考える人にすれば、怖いものは日本中にあふれ、それが福島原発に近くなればなるほど増大する。

だから「もっとも危険な場所である福島原発に全てを封じ込めろ」という主張になる。

まったく真逆の「確信」が、この原発事故、放射能に対する態度をまっぷたつに分けている。

低線量被ばくこそが今回の原発事故による放射能問題の核心だと思う。




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