他人事 [雑感]

全てを他人事として考えることは効率がいい。

感情など排して、あらゆるものを等質に、フラットに、モニター越しに見るように、「客観的に」俯瞰する。

自分はCCDカメラであり、MP3レコーダーであり、記録されたデータは全てディスクに保存され、CPUが処理する。

主観を消し去って、膨大な情報を集約し、「大局的に物事を見る」

そういう才能に長けた人が、もてはやされ、のし上がり、尊敬もされる社会。

テレビで饒舌に語るその「頭のいい人たち」を見て、人々は自分や家族のことを中心に考えるのは、何か利己的で、恥ずべきものであるかのような不安を覚える。

「おまえも俺ぐらい勉強すればいつか出世できるよ」

そう言わんばかりの彼らが、唯一、絶対に記録も分析も相対化もできないものがある。

いや、むしろ積極的に評価しないように「除外する」対象がある。

それは、彼ら自身だ。

ビデオカメラがビデオカメラ自身を直接写すことができないように、人は自分自身を客体化することができない。

どれほどの言葉を尽くそうとも語ることができず、立ち止まって眺める事も、意思の力で心臓を止めることも、痛みを消す事もできない。

自分が一番よく分かっているつもりで、もっとも不可解なものが己の中心に居座っている。

この世に生まれて来たからには、人間の身体と意識の中でただ流れるがままに変化し、死ぬまで運動を続ける一つの「自然」。

しかし、そんな究極的に個人的な内面など、人を数字として扱うような社会にとってはどうでもいい話だ。

社会に出て、仕事をし、他人に認められ、より多くを稼ぎ、「世界と戦う」ためには、そんな正体不明の「神秘的な力」など邪魔にしかならない。

だから、まず人は、社会化するために、分別を身につけるために、根源的な「自己」を消す。

そして、その存在基盤を、より巨大で社会的なもの、例えば国家、宗教、経済などに置き換える。

またはより分かりやすく、「一流企業に勤めたい」「司法試験に合格したい」「ブランド品がほしい」「アイドルになりたい」と言った通俗的な目標を設定し、際限のない欲望を疑いも持たずに全肯定する。

そういった「移植」(ある種のロボトミー手術?)が完了してしまえば、あとは楽なのだ。

ぺらっぺらの表層的人格が織り成す資本主義のネットワークの中で利益を嗅ぎ回り、他者を押しのけてでも、「豊かさ」のためがむしゃらに泳ぎ切る。

その努力に全身全霊を傾ける。

その時「システム」は道を開き、「ご褒美」を与えてくれる。

それに比べれば自然の方がはるかに冷酷で無慈悲だから、人は「群れ」から外れることをためらう。

「群畜本能」に従い、生き残らんがために、その「ギャンブル」に参加する。魂を捨てて「勝つためのコツ」を身につけ、システムに組み込まれる道を選ぶ。

根源的な自我を消せば消すほど、社会はもう一つの「社会的自我」の方を認めてくれる。

そういった処世術が何世代にも渡って引き継がれる。

つまり、「父」も「母」も、だから「私」も、まるで呼吸から取り込むように、知らぬ間に「会社」は自分の一部になっている。

「自分」が「会社」でできている。

これは幸せなのか?

そう思わないでもない。

時折、自分の無意識に抑え込んだ「自己」が不安を呼び起こす。

それを振り切るために、テレビからネットから、「鎮痛剤」として流されるバラエティー番組の合間合間から、繰り返し刷り込まれる社会的「大義」(そして『絆』)。

何、放射能で病気になったって過労死したってかまうもんか、そこで死ぬのは俺というちっぽけな個人であって、俺の価値を証明するのは、俺じゃなくて「社会」と「歴史」の方だ。それに、死ぬのは俺じゃなくて「他の誰か」だろう?

この「前近代的」でマッチョな世界観、、、。

彼らにとってまず「他人事」なのは、他ならない「己自身」だ。


子供と幸福 [雑感]

あるブログで(男性のブログ主だが)、

「俺は(放射能から)子供を守りたいだけだ」

というような記事を書いていた。

「なるほど」としか僕は思わなかったが、それに対して「ネット何とか」みたいな人たちが総攻撃をしていた。

その中で、ちょっと紳士っぽく振る舞ってる人がいて、僕がいつも想定しているいわゆる保守・容認派の「本音」みたいなのが惜しげもなく披露されてて、ちょっとうれしくなってしまったので引用・要約してみる。

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「子供を守る」とは立派な志だが、保守と左翼は観点が違う。
一概には言えないが、
保守は国家国益の観点
左翼は個人私益の観点
がベースにある。
要するに「子供を守る」考え方が違うから議論は平行線。
あなたやあなたの家族が平穏無事に暮らしていられるのも、社会インフラと国家の安定があってこそ。
自分の子供を守っていたらいつの間にか国家がボロボロでは後の祭り
-------

いやあ分かりやすい。あまりに分かりやすすぎて、多くの人が「そんな単純なものじゃないだろう」と反論したくなるかもしれない。

だけど国家観や人間観なんてのは、一般人にしてみれば「大それたもの」で、保守的だろうが左翼的だろうが、意外に「ざっくりと」していて、「何となくそう考えている」ぐらいの人が多いと思う。

おそらく元々、家庭環境や成長する過程で何らかの影響を受けて、頭の中に漠然とした思考の「根っこ」が出来上がっていて、それが例えば原発事故のような破局的な出来事に遭遇して自分の人生観が問われた時に、その考え方の「方向性」や「傾向」に準じて、急激に一つの思想へと「収れん」する。

「私は命が一番大切」
「いや、そうは言っても金がなければどうにもならない」

みたいな思い付きレベルから、だんだん情報を集めていくうちに、イモヅル式に、

方や、原発事故は史上最悪>放射能危険>子供>家族>命>反原発>小出先生>ECRR

方や、原発事故たいしたことなかった>放射能安全>社会的自己>国民>国家>経済>原発容認>中川先生>ICRP

みたいに、信用する識者もデータも、とにかくその出発点を補強するように二股に分かれて、しまいには全く相容れない人生観を「むき出し」にしてしまう。

こうなるともうお互い理解できない。

反原発の人が「なぜ命より経済なんだ?理解できない」と言うと、

このコメントの人のように「なぜ経済より命なんだ?理解できない」と言うのだ。

「命なかったらお金なんて無意味だろう」と言うと

「お金がなかったら命だって守れないだろう」

「子供を守らなかったら国家だって潰れてしまうだろう」と言うと、

「国家が潰れたら子供だって守れないだろう」

「卵が先だ」

「いや鶏が先だ」

と禅問答みたくなる。

でも、僕なりにこの対立を俯瞰すると、

これは男の「観念論」で、観念である限り、ディベートと同じで知識や情報の多寡によって「勝ち負け」なんてどうにでもなる。

それにネット上では相手が誰かも分からないのだから、ますますその観念は実体を伴わずに空転する。

(そして僕も男で、ネット上の議論をさらに『俯瞰』しようと試みているわけだから、これもまた観念論なのだが)

しかし、そこでこのコメント者は「決着」を付けようとして、「国益」と「私益」を持ち出している。「ベネフィット」の観点から論じる時点で、それはすでに『男の視点』で、自分の土俵に相手を引き込もうとしているんだと思う。

つまり、「あらゆる物事は、『利益』を基準に判断される」という経済原則みたいなものを、本当に「あらゆる物事」に適用可能であると、信じている。

これは資本主義の一つの「信仰」なのだが、現実的に今の世の中男性中心社会で、そこでは効力を持つから、「それのどこが間違っている?」と全く疑う機会を持たない。

でも子供を守るのは「ベネフィット」ではない

しかし、そう言ってみたところで、この手の「男」には「全く分からない」

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今ふと思い出したのは、もう一つどこか反原発系のサイトのコメント欄で、

「自分の子供は自分で守る」みたいにある女性が発言したら、

海外在住とかいう妙に冷めた男が、

「子供が失われたら、またどんどん産めばいいんです」

とこれまた教え諭すように言う。

「おまえの一体『どこ』から、何をどうやって産み出すんだ?」

と突っ込みを入れたくなってしまった。

他人事どころかまるで「神」の視点のように語る男というのはいるし、そんなのはお母さん方にコメントでボコボコにされてるんだけど、そういう人はその人の「観念」「脳内」では、本気でそう思っているんだと思う。

「え?俺のどこ間違ってるの?正論言ってるよね?」って感じだろう。

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この部分を読み返して、ふと思ったのは、「神」というのは一つの観念であり、子供を産むのは観念ではないんだと思う。神が何かを「産み出す」なんてことはできない。それは神を「擬人化」している。子供を産み出すのは「女」にしかできない。それを一般論化してしまい、「産めよ増やせよ」なんて言えること自体が、「超越論的な」「男」の視点なんだ。
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もう一つ思い出した。

徴兵制か何かを巡る議論で、「命が大切」みたいに語る人に対して誰か(これは女性だった)が、

「命も大切だが、それ以上に重要なものがある。愛国心=国家>人間なのです」

と書いていた。

こういう等号、不等号でもって、「記号」として「命」や「人間」を捉えられてしまう人というのは、もう頭の中がそれで決定しているから、どんなに語っても、その記号自体を粉砕することはできない。

「そうだと言ったら、そうなの!」としかならないだろう。

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たぶん、官僚や政治家や東電社員もそれぐらい頭が肉体を離れて、はるか天空からまるでゲームのように国家や企業の「戦略」を練っている。もしくは、外科手術か精密工学の「オペレーション」のように、自分が一つの機械として作動することに酔いしれている。

「情熱を胸に秘めながら、その己をすら客体視するこの冷徹かつ精巧な俺の『理性』」

とでも思っているのだろう。

(こうやって多くの男は自分の『お勉強のできる頭の良さ』である『悟性』を、軽々しく『理性』と勘違いしているが、それは理性を見下している。理性はもっと高貴で、人間の認識の頂点に君臨し、早々手に入れられるものではないーーーそう言いたいところだが、本当のところは、人はまず最初に『理性』を手に入れている。そしてそれを悟性で抑え付けている。『理性』が恐いから。)

そこでは人も子供も出産も個人も全部数値や統計に変換されて、それを処理してコスト管理して業績を上げるっていうのが、もう人格そのものになっている。

むしろ、モニターの前の肉体を持つ自分なんか消し去って、資本主義ゲームの中のキャラクターに自己投影して、スコアを上げれば上げるほど、その才能は認められ、「社会的」には存在を肯定される。

そこではその価値を「正当化=justify」するのは、「利益=benefit」だけなんだ。

そして今の時代、男性女性関係なく、ほとんど全ての人間が、そのマネーゲームに参加せざるを得ないわけだから、その生き方のどこが悪い?資本主義以外に何がある?それが人間の作り出した究極の社会システムじゃないのか?きれいごと言って貧乏になってどうする?と思って自己肯定する人は多いのだ。

だけど、今僕たちが守ろうとしてる「子供」ってのは、やがて社会体の歯車の一つとしてカウントされることを必然と見做すような、そんな観念上の存在じゃないだろう。

本当に僕は、男だけれど、このことを口酸っぱくして何度でも言いたい。

「子供」ってのは、唯一無二なんだ。

女性にしてみれば自分が全身全霊かけて産んだ命で、それが一生のうちのある特別な時間に、二度と繰り返せないたった一度の経験として、その肉体に刻まれた記憶となって、もう何者にも代え難い「わが子」と共に、永遠に自己の内にあり続ける、そんな存在なんですよ。

「存在なんですよ」なんて言ったけど、正確には僕には「そういった存在ではなかろうか?」としか言いようがない。

この感覚はおそらく男には理解不能なものであろう、と僕は想像する。

そういった個人の内面的な価値を理解できないから、子供を未熟な社会的コマみたいに一般化して考えて、「また産めばいい」とか心ないことが言えるのだろう。

「放射脳は親のエゴを子供に押し付けている」
「社会のために喜んで自分を犠牲にする精神は、親が子供にしつけるもの」
「社会貢献によって子供の価値は測られる」

そういった反ー反原発派のよく聞く言葉も根っこは同じだ。

「社会的ルールこそが何よりも優先すべきもの」と教え込まれて来た自分の考えを「正しい」と思うためには、その同じ尺度で、自分の子供も他人の子供も比べて「優劣」を付けるような「社会」が必要だもの。

そういう「競争社会」がなくなったら困るし、それを良しとする自分を肯定できなくなる。

だから、その「社会」「公」に敵対する、「個」「私」を主張するような輩は全力で排除したい。

自分の子供の「価値」なんて測る必要などないと思うのだが、この人たちは「測りたい」。「測って数字にしないと分からない」、その価値が。

子供を愛するのに理由など必要ない。ただそのものとして、ありのままの全てが、肯定されているはずなのに、「愛するための理由」がほしい。

何か成績表みたいなのとか、習い事たくさんしてるとか、いい学校入ったとか、そういう「誰の目にも明らかな順番」や「賞状」がないと、子供を愛せないし、幸せと感じることができない。

なぜなら(ここが重要だが)、

「自分がそうだった」

(そうやって親に愛されてきた)から。

ここが僕にはまったく理解できない。

もちろん、そういう「競争心」っていうのは、それは人間のリビドーの表れだから、それ自体としては否定しない。むしろ社会を成立させるためには、絶対必要だと思う。

僕が言いたいのは、そういった「結果」や「ベネフィット」を基準にした価値判断が、「子供の価値」「子供を愛する心」とは根源的には無関係だと言うことだ。

そんなもの取り払って、ただただ、子供を愛すること。

それが冒頭のブログ主の「子供を守りたい」という言葉になるんだと思う。

母親や父親が唯一無二の存在として子供を絶対的に受け入れる時、子供もまた自己の存在を、自分の命を、自分が生を受けた意味を、全て肯定することができるわけだし、その無償の「愛」を享受することが、生の根源的なエネルギーの奔流となって、その死に至るまで自己を貫いていくだろう。

それはおそらく何者にも代え難い「幸福」なんだと思う。

本当はだから、人間の幸福ってのは無償なはずなんだ。

そして、その無償の幸福に対する悦びが、人を人との結び付きへと、他者への繋がりへと、社会へと、そして自らが強くあらんと欲し、弱者を慈しむことへと、無償に駆り立てて行く(これが本来の『絆』だろう)。

つまり、鼻の頭に「金(かね)」という人参ぶら下げて競争社会で他人を蹴落として成り上がって、その暁に手に入れる物質的豊かさなんてよりもはるか以前に、人はまず「幸福」でなければならないし、本来そうであるはずなのだ。

だから、ここで母親が言う「子供」ってのは、もう何にも増して、一度きりの自分の人生に与えられた(神が授けたもうた、と言ったっていい)純粋な結晶のごとき、「幸福そのもの」なんだ。

その幸福から出発して、それが永遠に続くように努力することが、本来「生きる」ことであるはずなのに(だから、そのために相互扶助システムである社会は構築される)、いつのまにか、その「社会システムのために」人が生きなければならないと強制される。

学校で、家庭で、繰り返し「教育」され、人々はそれを当たり前のこととして、あるいは「しょうがないこと」として、受け入れるようになる。

やがて男がそのシステムの全権を掌握すると、その「速やかな運営」のためには、この「母性」が合理性や効率化の邪魔になる(特に戦争において、個人的愛情など足枷にしかならない)。

だから、まずその「幸福」を奪って、人は生まれながらに不幸であるかのような錯覚を植え付けるのだ。

(これはキリスト教の『原罪』や性のタブー視にも繋がるだろう)

そして、人は幸福を勝ち取るために、社会的に成功し、その過程において自分を犠牲にしなければならないということを、まるで人間の「本性」だ、みたいに言い始める。

これこそ基本的人権に対する冒涜じゃないのか?

子供は幸福に「なる」のではない。

子供こそが「幸福」なのだ。



参議院選挙2013 投票日 [雑感]

三宅洋平街頭トーク(大宮駅2013.7.18)【参議院選挙2013】

原発が爆発してからはさ。

津波のことについては泣いていいんだけど、

放射能被害については泣くことすら禁じられてきたよね。

国は、経済止まったら困るでしょってことで何も認めてくれなかった。

今日本で起きているのはさ、エコノミックファシズムだよ。




スタジオジブリ「熱風」7月号 特集「憲法改正」 [雑感]

スタジオジブリの小冊子「熱風」7月号を緊急PDF配信 「憲法改正」を特集

「憲法を変えるなどもってのほか」 宮崎駿

より以下抜粋。

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(半藤一利さんの『昭和史』を読んでいるが)もう辛くて。読めば読むほど日本はひどいことやってるわけですから。

(半藤さんの受け売りだが)日本の近代の歴史は40年ごとに区切られる。バブルが弾けた後は、どうしていいかわからないまま没落していく40年になっている。”失われた20年”どころじゃなくて、あと20年ぐらいは失われる(笑)。

堀田善衛さんは「歴史は前にある。未来は背中にある」と言っている。

憲法を変えることについては、反対に決まっています。

96条を変えて、、、というのは詐欺です。やってはいけないことです。

今は、ちょっと本音を漏らして大騒ぎを起こすと、うやむやに誤魔化して「いや、そういう意味じゃないんだ」みたいなことを言っている。考えの足りない人間が憲法なんかいじらないほうがいい。

耳に心地よいことしか言わない奴の話だけを聞いて方針を決めているんですから。それで国際的な舞台に出してみたら、総スカンを食って慌てて「村山談話を基本的には尊重する」みたいなことを言う、まったく。「基本的に」って何でしょうか。「おまえはそれを全否定してたんじゃないのか?」と思います。きっとアベノミクスも早晩ダメになりますから。

憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほがいい。

非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただそれ以上は「ちょっと待て」っていうのがやっぱり正しいと思うんです。本当はガンダムでも造って行進させりゃいいんじゃないかと思っているんだけれど(笑)。「実際の能力は秘密だから白状しない」とか言って、これは冗談です。

(日本にはもともと基本的人権の根拠になる思想がないと言われるが)やっぱり基本的人権よりいい考え方はないんだと思います。東のはずれにある国として、そういうものなしにやってこられたけれど、世界化、国際化する時には、共通の言葉を持たなきゃいけない。人権という考え方を輸入せざるを得ないんです。

今はっきりしなきゃいけないのは、産業構造をどうするかという問題です。「自分たちの食うものや着るもの、住むものは自分たちで作ろう」という思想を持たずに、ただ消費して、あとは全員がサービス業みたいな、そんな国にしたってしょうがないし、うまくいくわけがないに決まっています。

でも、そうなってくると、「徴兵制をやればいいんだ」というようなことを言う馬鹿が出てくるんです。そういう人たちには、「自分がまず行け」と言いたいです。自分の息子を、孫を送れ。そうすれば、徴兵制というものが何だか分かるから。

「自分はちゃんとしているけれど、他の人はちゃんとしていない」という発想を捨てろと。自分がちゃんとしているなら、そのくらいはみんなちゃんとしてるんだと思った方がいい。徴兵制度というのは最低ですよ。韓国でも、徴兵制度がどれほど若者を荒ませてるかということです。

どっかでずるずるずるっと貧乏になって行かざるを得ないんだと思います。それはもう、そういうことだからしょうがないですよ。将来の保証なんかない。でも、本来人間はそうして生きて来たんです。

僕は仕事場の隣に保育園を作って、本当によかった。いちばんよかったのは僕にとってなんです。チビたちがぞろぞろ歩いているのを見ると、正気に戻らざるを得ないんです。この子たちがどうやって生きていくのか、と考えたら、それは暗澹たるものだと思うけれど、じゃあ、生まれてこなければよかったのかって、そんなことは言えない。やっぱり祝福しなきゃいけないし、実際、祝福できる。だから「なんとかなるよ」と言うしかないんですよ。

人口が減っていくから、今後はアニメーションも成り立たなくなりますよ(笑)。「ジブリよ永遠なれ」もありゃしないです。

一言だけ言うとすれば、「流行っていることはやるな」ということ。

今、みんな口を開けば「不安だ」って言うけれど、「じゃあ、前は不安じゃなかったの?」と聞きたくなるぐらい、実は状況はそれほど変わっていないと思います。健康で働ければいい。働く場所がなければ、自分で作りゃいい。

不安が流行っているから不安になる。だから、流行ってることはやらないほうがいいです。

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*一つ、「実は状況はそれほど変わっていない。健康で働ければいい」という部分に関しては、原発事故の影響をあまり考えていないか、「それほどではない」と考えていることだと思う。

おそらく、そこが今までの「不安」とはまったく別な、人類未経験のものになるんだと思う。








黄色い粉 [原発事故]

妻が例の「黄色い粉」のことを心配しているので、たぶん「花粉」じゃないかと思って少し調べたら、震災前のブログに似たような画像を見つけた。見た目一緒。

http://minkara.carview.co.jp/userid/107564/blog/21653940/

http://yaplog.jp/maaya_711181/archive/70

ただ福島原発爆発直後は、花粉も放射性物質も風に乗って同じ動きをするだろうから、花粉が溜まってるところには「いろんな」放射性物質が大量にあったと思うので、「危険な物質」であることに変わりはない。しかし「黄色く目に見えているもの」は花粉だろう。

(これが放射性物質そのものだったら、たぶん即死するんじゃないだろうか?)

それにしても視界が黄色くなるほど大量の花粉が舞うなんて震災前見たことないから、一昨年からその量が増えたとするなら、杉が被ばくの影響で本能的に危機を感じて、「種の保存」のために何かが起きたんじゃないのか?

いずれにせよ、花粉だろうが黄砂だろうが煙霧だろうが、以下の市民測定所の検査で分かるように、セシウムが含まれていることは間違いないので、その量はどうあれ、吸い込んで良いものではないと思う。

埼玉県草加市で採取した「煙霧で飛来した砂」4362Bq/kg(日暮里放射能測定所-にっこり館)

強風などによって廊下、階段などのマンション共用部分に吹き込んだ砂埃セシウム合算1866Bq/k(Relationship座間)

ところで、こんな花粉や砂埃を放ったらかしにしておいていいのだろうか?と思うが、

国的には「全く問題ない」ということらしい。

林野庁は平成25年度のスギ花粉は90000ベクレル/kg(9万!)で、それを吸い込んでも、1時間あたり最大0.0000715マイクロシーベルト(!)と言っています。

スギ雄花に含まれる放射性セシウムの濃度の調査結果について(林野庁)

スギ雄花の放射性セシウムは半分(NHK『かぶん』ブログ 2013年03月08日 )
最も濃度が高かったのは(...)浪江町小丸で採取したスギの雄花で、前回の調査のおよそ3分の1の1キログラム当たり9万500ベクレルでした。同じ濃度のスギ花粉が、これまで国内で測定された最も高い密度で4か月間飛散し続けたとすると、吸い込んだ人の被ばくは0.206マイクロシーベルトになる計算だということです。これは、現在、東京・新宿区で屋外に4時間半いたときに受ける放射線量とほぼ同じ値で、林野庁は「吸い込んでも、放射線による健康への影響はないと考えられる」と話しています。
9万ベクレル/kgの花粉がバラまかれて、それ4ヶ月間吸い込んでも大丈夫って言ってるんですよ、、、。

1800の埃だ、4000の煙霧の砂だ、なんて歯牙にもかけないでしょう。

(『同じ濃度のスギ花粉がこれまで国内で測定された最も高い密度で飛散した場合』というのに注目してください。大気中に拡散すれば問題ない、『薄まればたいしたことない』っていう話なんですよ。9万ベクレルが薄まれば、それ4ヶ月吸い込んだって、新宿で4時間歩くより被ばくしない、って言ってるんです。どうです? すさまじくないですか? 呼吸による内部被ばくも放射性物質の毒性も何にも関係なし。全部シーベルト。すごい国だ、ほんと)




「放射能は薄まればたいしたことない」という信仰 [被曝]

ここ数日低線量被ばくについて考えて来て、

遅ればせながら、ようやく今回の福島原発事故による放射能問題の核心に気が付いた。

何で今まで気が付かなかったんだろう?

それは「放射能は危険か?危険じゃないか?」の議論じゃないんだ。

原発推進派だって放射能たいしたことない派だって、

「放射能は危険です」

とはっきり言うのだ。

問題の核心は、

「低線量被ばくによる健康被害は存在するか?しないか?」

であり、

国はそれを、

「存在しない」

と疑いを持たずに断言しているのだ。

それはもはや「信仰」みたいなもので、この低線量被ばく問題は、「科学論争」ではなく、その信仰対象を巡るほとんど「宗教戦争」に近いものなんだと思う。

僕は今まで、

・低線量被ばくは危険であることは国も電力会社も分かっている

・それを認めれば、広大な地域を避難区域にしなければならず、その補償によって国家が崩壊してしまう

・しかし加害者にとって幸いなことに、低線量被ばくと健康被害の因果関係は科学的に証明できない。

・それをいいことに、国は自己保身のために腹を決めて「低線量被ばくによる健康被害は考えにくい」と意図的に嘘を突き通すことにした。

、、、そんな風に考えてきた。

さらにその結果として健康被害が全国で平均化すれば、福島だけが突出することもなくなるから、補償を最小に抑えることができる、と。

そして多くの反原発派はそう考えていると思う。

だからネット上で「国はバカだ」「国は国民の健康よりも経済を優先した」「国民の命を犠牲にして自分たちの利益を守った」「国は嘘をついている」「電力会社、官僚、政治家、御用学者は悪を認識しながら、ごまかせると踏んで犯罪行為を続けている」と国を責め続けてきたのだ。

しかし、彼らは「嘘なんてついていない」んだ。

それどころか、

「低線量被ばくによる健康被害は存在しないと、心の底から信じている」

そこなんだ。

その「一点」だ。

それを「心の底」から認めてしまえば、後は霧が晴れるように、さーっと目の前に道が開ける。

己を苛み続けた忌まわしい原発事故が忘却の彼方に消え失せ、まるで絶望的な病から回復した後の歓喜が全身を包むように、未来へ向かう意気揚々とした活力がみなぎってくる。

この放射能不安からの解放。

原発災禍における自己啓発。

全てをひっくり返す魔法の信念。

見えない原子核の不確定性に捕われた心の「解脱プロセス」。

それらのカギがそこにある。

さあ、唱えろ。マントラのごとく何度も、何度も繰り返して、心の中で叫べ。

低線量被ばくによる健康被害は存在しない、、、低線量被ばくによる健康被害は存在しない、、、低線量被ばくによる健康被害は存在しない、、、

低線量被ばくによる健康被害は存在しない!

何度でも言う。

それは「存在しない!」

「存在しないんだよ!!」

ああ! 俺はとうとう救われた! 俺には何も起きない!

そして俺の家族にも! どこにも! 誰にも! 何も起きない!

全ては今まで通り、あるがままの輝きに満ちている。

生きること、このすばらしさ。

命万歳!

そうだ、だから、何も恐れるものはない。

「存在しないもの」を怖がってどうする?

がれきも、食品も、広げれば広げるほど、薄めれば薄めるほど、

それは「消える!」

消えて「なくなる!」

だから、広げよう。

そうだ、薄めよう。

100ベクレル/kgの食べ物を、一人で全部、一度に食べることなんてないだろう?

それだってたいしたことないのに、それを100人で10gずつ分けたらどうなる?

たった1ベクレルだ。

つまり「0」だ。

福島原発から1日2.4億ベクレル漏れてるって?

なーに、それがもし日本中にばらまかれたって、日本人全員で分ければ、一人当たりたった2ベクレルじゃないか?

つまり「0」だ!

誰も苦しまないし、誰もそれが原因で病気になんてならない、、、そしてみんなが幸せになれるんだ、、、。

え?

「0」じゃないだろうって?

君はまだ分からないのかい?

だまされていたんだよ、俺たちは!

いいかい、見てみろ、地球誕生から46億年、生命が生まれてから35億年、世界中放射線に満ちあふれて、俺たちはその中で、「放射能まみれ」で生きて来たんだ!

そこで耐え抜く力を備えているからこそ、今ここに俺たちは存在するわけだ。

つまりこういうことさ。放射能なんて、水や塩と同じなんだ。

君の体の70%が水で出来ていて、その0.85%が塩分だ。

水分も塩分も生きるために絶対に必要だが、だからといって1度に100リットルや100kgの塩を摂取したら、そりゃ人間は死んでしまうさ。

だけど、1日に必要な量、例えば塩が1.5gだとして、そこで0.001gあるいは0.01g多く料理に使って、1.501g食べたからと言って、病気になるかい? ならないだろう?

水を1日に1リットル飲むのと、1.01リットル飲むので、何か違いがあるかい?

それと一緒さ、低線量被ばくってのは。

さらに言うなら、人体には元々放射性カリウムが6000ベクレル存在して細胞を破壊しているんだ。それでも細胞は自己修復するし、傷ついたDNAだって日々修復される機能を人間は持っているんだ。

まあガンになる時はなるだろうが、そればかりは運命、「神のみぞ知る」ってとこだ。

そこにセシウムが「数ベクレル」増えたからって、一体何が起きるっていう?

「何も起きない」

それが答え。

低線量被ばくなんて存在しないってのはそういうこと。

つまり人間が細胞レベルで認識し得る世界の限界において、

それは「0」なんだよ!

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もちろん本当の「嘘つき」や影の「悪人」は存在するのだろうが、こういった洗脳のような「安全神話」を官僚や政治家や国民の多くが信じ切って、心理的に「共有」して、国家全体が動いているんだと思う。

いや、「神話」とかじゃないな。

中途半端に合理的な、ご都合主義的効率主義、、、「立場主義的」思考というか、、、

おそらく個人的には勤勉に、0.0001のリスクが存在することを割り出しても、立場上「0」がよければ「0」にして、それを信じることができる。

全身に分散して存在し、細胞の自己修復機能とバランスを取っている自然由来の放射性カリウムと、臓器のある一カ所に蓄積して、集中的に周辺細胞やDNAを破壊し続ける人口放射性核種であるセシウムの違いを認識しても、立場を守るためだったら、都合良く主張をアレンジして疑念を取っ払い、「同じです」と断定できる「軽やかな」思考。

人類史上最悪の原発事故を経験したにもかかわらず、未来のためにそれを直視し、反省し、変革を遂げるための意志を継続することができない、幼児的な「こらえ性」のなさ。

「忘れること」を信条に、今ここの刹那的享楽に耽溺することでしか生を実感できない消費者的心性。

極めて日本人的思考が、この低線量被ばく問題に如実に表れている。

やはりそれを「改宗」させることは極めて難しいだろう。

だから、己の身は己で守る。

そして今まで通り、家族を第一に考えることにする。




低線量被ばくは放射能問題の核心 [被曝]

昨日書いた某「大学教員」の低線量被ばくとタバコの話は、原発事故直後から盛んに繰り返されて来た放射能安全派の紋切り型の例えだ。

そして、この例え話が意味を持つとすれば、

「東日本全体がタバコの煙でもくもくになっちゃった」

っていう状況を想定しているわけだから、「放射能たいしたことない」という安全派の人たちも、多かれ少なかれ原発事故によって、

「健康に影響を及ぼす可能性のある危険な放射能が広範囲に拡散した」

という事実は認めているんだと思う。

漏れて広がっちゃった、だけど

「薄まってるから大丈夫」って話をしたいのだ。

つまり、

原発推進派や容認派、放射能安全派の主張は、

「放射能は安全」ってことじゃない。

薄まれば安全」ってことなんだ。

「放射能」それ自体の問題で言えば、「危ない」んだ。

これはもう誰もが認めざるを得ない事実で、そうであるから原発の格納容器も原発作業員の防護服や防護マスクも存在する。

そしてこの点は原発推進派も安全派も認めているんだ。

反原発派はそこを取り違えてよく安全派にたいして、

「放射能が安全だ安全だって言うなら、福島原発の原子炉の中覗いてこい」

とか

「福島原発の隣に住んでみろ」

と言うが、すると彼らは、

「は?原発敷地内は危険って言ってますけど何か?」とすっとぼけるのだ。

放射能は「ごっそりまとまって存在すれば恐ろしい」わけで、

「薄まればたいしたことなくなる」っていうのが原発推進派の「錦の御旗」なんだ。

(それと同じで『食品汚染たいしたことないって言うなら600万ベクレル食ってみろ』とかも的外れな要求だ。むしろ安全派でなくても日本人のほとんどが近所のスーパーで普通に食材を選んで食っているのだから、彼らの『薄まれば安全』という主張は、日本中で日々実践されていることになる)

彼らの主張の大前提は「低線量被ばくは存在しない」ということだから、それは絶対にあってはならない。

試しに思考実験のつもりで、その大前提に立ってみよう。

とても恐ろしい展開になることが分かる。

「薄まればたいしたことなくなる」とするなら、がれき拡散も食品流通も何も問題ないどころか、逆に、拡散した方が日本はどんどん「安全になる」

「薄まっても何か問題が起きるんじゃないか?」と微塵でも思ったら、「ちょっと様子見た方がいいかも」と拡散を躊躇する。

しかし「薄めれば無害。薄めれば放射能は少なくとも人間の健康に影響を与えるレベルでは存在しなくなる」と確信するなら、「薄めよう、広げよう、除染しよう、食べて応援しよう」は汚染を広げるどころか、汚染を限りなく無害化していることになる。

これは僕が考えていた政府の態度、

「ごめん、どうすることもできないから、経済を優先して健康被害がちょっと出るの我慢して100ベクレル以下の食品流通させて補償しないようにして、がれき処理で業者儲けさせてくれ」

っていうのと全く別だ。

むしろ、拡散させることで後ろめたさを感じるどころか、

「日本をきれいにして、より安全にしている」と善行を施しているつもりなのだ。

つまり、もっとタチが悪い。

「薄まれば安心」という立場の人にすれば、危ないのは「濃い放射能がたっぷりある」強制移住区域の中だけで、その外であれば怖いものは何もない。

福島も関東も危険なものは限りなく元々「0」に近く、薄めれば薄めるほど完全に「0」になるのだから、もう「どんどん、どんどん拡散すればいい」ということになる。

「薄まっても危険」と考える人にすれば、怖いものは日本中にあふれ、それが福島原発に近くなればなるほど増大する。

だから「もっとも危険な場所である福島原発に全てを封じ込めろ」という主張になる。

まったく真逆の「確信」が、この原発事故、放射能に対する態度をまっぷたつに分けている。

低線量被ばくこそが今回の原発事故による放射能問題の核心だと思う。




低線量被ばくに備える [被曝]

あるブログコメント欄より。

「低線量放射線の健康影響については専門家の間でも論争がある」というコメントに対する某「大学教員」のコメント。

・(低線量被ばくの影響はほとんどないのだが)自称専門家が議論を吹っかけ続ければ、一応「専門家の間で論争になっている」という形にすることが出来る

・低線量被爆の議論は、タバコを1日100本吸ったら肺癌になることが疫学調査で認められているとして、1日1本ならどうなるか?という議論と同じ話

・日焼けは紫外線による細胞死だから、大量の日焼けは避ける必要はある。しかし1日3分外出するか10分外出するかで揉めている人がいたら「そんな細かいことは気にしなくていい」と言う

・福島の避難勧奨地域以外の放射線量の増加はそういうレベルである

だそうだ。

原発事故さえなければ、ごもっとも、と思ったかもしれない。

だけど国も東電も原発事故を起こしてどうすることもできなくなって、そこで「放射能気にするな」と行政判断せざるを得なかったわけだから、それを擁護する「科学」って一体何?と思う。

(子供はタバコ吸わないだろう、、、とか)

だから、このコメントにも低線量被ばくの「可能性」は暗に示されているわけで、僕はやはり対策を取ると思う。

この例え話で言うなら、

「1日1本のタバコ」も断固吸わない。

そして子供に「1秒でも」副流煙を浴びせない。

必要以上の日焼けは避けるし、日差しが強い日は子供にも日焼け止めクリームを塗り、長袖シャツを着せる。

別に対策でも何でもなく、ごく当たり前に日常的にやっていることをする。

しかし、この「大学教員」が想定している状況はもっと特殊なんだな。

また例え話を借りれば、

福島の一部がタバコ工場の大火災を起こしてニコチンまみれになって、そこから「副流煙」が流れて広大な地域を覆っているとする。

もうどうやったってその煙の中で生活するしかない。

するとそこで初めて「1日1本ぐらいタバコ吸っても死なない」みたいな話になる。

これを東京の人間が、「あの副流煙でみんな死ぬ。子供は特に危ない」と言ったとすると、

それに対する逆切れが出てくる。

「東京だって大気汚染で肺がんリスクは変わらない。子供もたくさん住んでるだろう。そこで1本2本のタバコ気にしてもしょうがない」みたいな。

そういう状況にみんなが巻き込まれて、もうみんな諦めて「吸うしかないか?」となっている時に、

「いや、俺は1本も吸わんし、1秒も子供に吸い込ません」と躍起になってる僕みたいな人間がいると、

「自分だけ助かろうとするのか!いやならここから出て行け!」

と村八分みたいなことになる。

この「大学教員」の例え話はそういった汚染状況に住まざるを得ない大量の人々を前提にしていて、その中で「1本も吸わん」と意気込んでる人間をたしなめているんだと思う。

「意味ないよ」とか「どこも同じぐらい汚れてるから無理するな」と。

だけど、統計上0.1%とか0.001%とか「健康被害のリスク」は上昇しているんだろうから、リスクを取り除くためにはむしろそこから逃げ出したり、可能な限り汚染されていない食品を選んだ方が、科学的には「正しい」ことになるんじゃないか?

それにいつもそうだが「ガン」に影響を限定するけど、「ガン」を1人過剰発生させるリスクがあるなら、それ以外に数人数十人が「肺炎」や「ぜんそく」を発症するリスクもあるのではないか?

それを「意味がないから気にするな」っていうのは、そこに「留まらざるを得ない住民」に対して国や自治体がする行政的なカウンセリングみたいな話で、科学とは別なのだ。

だけどおかしいのは、その事故が自然災害と同じで「しょうがない」と諦めなければいけない話になっていて、大火災を起こした工場の責任を問わないことだ。

原因がすり替えら得れて認識がずれまくって、「気にする」「気にしない」で住民同士の対立が激化する。

「低線量被ばくは存在しない」と主張する人は、「気にする人」を攻撃する時は、「この放射脳め!とっちめてやる!」とまるで自警団のように勇ましいのに、東電の責任問題になると「専門家におまかせします」と途端に小さくなる。

被害者のケアと事故責任の追求は同時に行われなければならないのに、「もう原発事故のことは考えるな」と言わんばかりのその「慰め」は、原子力産業や電力会社を擁護しているとしか思えない。



強制避難区域の低線量被ばく [原発事故]

「強制避難区域」はそこに立ち入ったらただちに急性放射線障害になるような場所ではない。

「住み続けることで継続的な被ばくをするとやがて明らかな健康被害が出る」という意味では「低線量被ばく」が問題となる場所だ。

そこに住んでいても「ただちに影響がある」わけではないのだから、強制移住などさせなくてもよかったはずだ。

原発事故からの避難者が避難生活中に亡くなったことで、「避難などさせる必要はなかった」と言う安全派がいるが、国は「原発関連死」で亡くなる方を出してでも、「強制避難区域」を作らざるを得なかったのだ。

彼らはリスクとベネフィットを鑑みて(コストとベネフィットか)、住民を放射能汚染地帯に留まらせて何割かに健康被害が出る方がマシ、と「行政的判断」を下すこともできたし、程度の差はあれ「放射能による健康リスク」が広がっている大都市ではその選択をした。

しかし「強制避難区域」だけは別で、そこに人が住み続ければ放射能の影響が隠し通せないほどはっきりとした形で健康被害が出てしまう。

つまり、強制避難区域は「ある一定量以上の継続的な低線量被ばくは健康に影響を与える」と国も認めざるを得ない場所なのだ。

その『ある一定』がどれぐらいのレベルなのかは別にして、そこに放射能のリスクは科学的に厳然と存在している。

だから、自主避難した人はその「行政的判断」には従わなかったが、代わりに、国家の科学的知見は正しく理解しているのだ。

(かなり楽観的で『安全寄り』の見方だとは思うが、その国ですら低線量被ばくの危険性は認めているということだ)

それゆえ国は、住民の健康を守るなどという理由ではなく、原子力への負のイメージを作り出さないためにも、強制避難区域など作りたくはなかった。

「警戒区域」「帰宅困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」と、やたら細かく区切って住民を引き戻そうとするのは、補償を打ち切るのもさることながら、国はできればこの「低線量被ばくの健康への影響」をないものにしたいからだろう。

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「この日本に放射能汚染による強制移住区域が存在する」

その事実だけで、原子力は否定されるのに十分なのだ。





避難と死 [原発事故]

原発爆発から2年。

もうすっかり全てを忘れた人が9割9分。

1%ぐらい(0.3%ぐらいか)の人が、あの日を境に全てが変わって、「変わってしまった日常」をずっと生きている。

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原発 福島に負の連鎖 県外避難5万7000人(東京新聞 2013年3月11日)

この記事を読んでいて、少しおかしなことに気が付いた。

福島、宮城、岩手の被災三県で、津波や建物の倒壊といった震災の直接的な原因で亡くなった方のうち、

福島の人は10%。

それが震災後の関連死2554人のうち、

福島の人は1337人で52%になる。

そしてその9割が66歳以上だという。

つまり、避難途中、避難生活中に亡くなった年配の方が福島では多い。
この数字の異常さこそ、原発事故の恐ろしさを示している。放射能で身体をむしばまれる死だけが、「原発事故による死」ではない。
と、福島の震災関連死が多いのは「原発避難」が原因だ、という論調で、別に間違ったこと言ってないように見える。

しかし何か変だ。放射能の影響について一切触れられていない。

例えば、「福島の震災関連死は5割に跳ね上がる」と言うが、

今年2月現在の避難者数は、

宮城 11万7000人
岩手 4万2000人
福島 15万4000人

宮城・岩手合わせて15万9000人で、福島15万4000人。

だから「震災関連死」が半数でも何らおかしくないじゃないか。

すると、

「宮城、岩手は県内避難が大半なのに、福島は5万7000人が県外避難をしている」

とあたかも「福島の避難者の多くは、住み慣れた地元から全く離れた場所で生活せざるを得ず、そんなストレスだらけの生活を2年も続けているうちに年配の人がたくさん亡くなってしまったのだ」と言いたいかのようだ。

しかし同記事のこのグラフを見ると、

PK2013031102100086_size0.jpg

おそらく1年目は、震災直後に病院からの避難や持病の悪化などで亡くなった方が多いのだろうが、

事故後2年目の震災関連死は宮城で減っているのに、福島はあまり変わらない。

仮設住宅暮らしなど県内も県外もあまり関係なく「ストレス」がたまると思うし、岩手も県内避難者がほとんどなのに関連死は減っていない。

これを「福島は県外避難者が多いから」という理由にするのはちょっと無理ではないか?

最初何も疑わずに「そうだ、そうだ、避難者も原発事故の犠牲者だ」とうなずいて読んでいたが、

これは一見反原発風の、「ひねり」の効いた「サブリミナル御用記事」だ。

東京新聞は時々こういうのを書く。何なのだろう。

この統計は何か重要なのではないか?

ある意味避難区域からの避難者は被ばくの状況も似ているから一つの統計的な母集団になると思う。そこで他地域よりも突出して何かが起きれば、その死や病気自体を『被ばく』に容易に関連づけられる。そこに一切触れずに、『県外避難のストレス』と『結論づける』御用記事を、東京新聞のような良心的なメディアに「書かせる」ということは、逆に興味を引く。

この統計は来年以降も出るのか。

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