だんだん大人になる [育児]

子供はたしかに「大人になる」。

しかしある日突然大人になるわけでもない。

一体いつから大人になるのか?

そう考えるのも面倒なので、

「子供だって一人前の大人だ」

とか何とか、思いっきり端折って都合良く育児責任を放棄して幼年期から子供に抱え切れない「精神的重荷」を背負わせる親もいる(ネグレクト)。

正確には子供は「だんだん大人になる」のだが、この「だんだん」の部分に注意を払う大人は稀だと思う。

なぜなら、その推移、グラデーションの中に当の大人も入ってしまうから、威厳でもって子供を支配下に置こうとする親には都合が悪い。

混ざり加減は異なるが、自分の中には「子供」がいて、子供の中には「大人」がいる。

子育てを通じて親の中に残る「子供」はだんだん薄れていく。

子供の中の大半を占める「子供」はだんだん「大人」に入れ替わっていく。

そこには心的な相互作用があるのだから、そのインタラクションに即興的に反応できるか否かで親の才覚が問われる。

それができない(それを『楽しめない』と言ってもいい)親が自分を「一人前」として偽装する。

化けの皮がはがれるのが恐いから、子供の前で虚勢を張る。

マニュアルを読んで自己正当化を図る。

自分の不手際で子供が泣きわめくと、その落ち度を子供に押し付けるために怒る。

自分で自分に腹を立てながら怒りの矛先を子供に向けてストレス解消しているわけだし、

本人もうっすら気が付いているのだから申し訳ない気持ちに苛まされる。

にもかかわらずそれを続けるのはあまりに利己的で非人間的で胸が痛むので、未熟な親が自己保身のために集団となり「しつけ」という言い訳を大義のごとくでっち上げて、責任逃れの「総仕上げ」をした。

家庭内暴力というのは「胸が痛まない人」がする「しつけ」で、「胸が痛む人」は「しつけ」に便乗して子供に日々「言葉の暴力」をふるう。

「どうしてそういうことをする?」

「自分が何をやっているか分かるのか?」

「何度言ったら分かるんだ?」

「なんでできない?」

「ちゃんとやりなさい!」

「さっき言ったよね?約束したよね?」

「言うこと聞かないともうやらないよ!いい?」

「あ~あ、、、もう、なんで?、、、」

うっかりすると簡単に口を突いて出てしまうこれら「答えられない問い」をボディ・ブローのように毎日浴びせられ続けると、子供の心の真ん中には取り返しのつかない空虚が生じる。

「親は常に正しく、自分は常に間違っている」

ほとんど意識しない形でそう考えるようになる。

「自己否定」というのは、自我という岩盤の上にポタポタ滴り落ちる水滴によって長い時間をかけて穿たれた凹みのようなものだ。

要するに「取り返しがつかない」。

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子供は「だんだん」大人になる。

「時間がかかる」と分かっていれば、人は諦めてのんびり構えるだろう。

「カッとなる」のはさっさと面倒な育児を終わらせて「自分の時間」を取り戻したいと思っている親の側の問題だ。

怒りというのはどんな形であれ(それが『ため息』であっても)子供にとっては「暴力」なのである。



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「遊ぶ」ということが意味するもの [育児]


僕が子供と遊んでいると妻が「不機嫌」になることがある。

しかし逆に自分のことを考えると、妻が子供とべたべたしていれば何か近づきがたい感じがして「ちょっとあんまりくすぐったりばっかりしないでよ」みたいに苦言を呈して自分の仕事をやってることもあるのだから「お互い様」という感じもする。

妻にとって子供と「遊ぶ」ということは「親密になる」みたいな感じなんだと思う。

だからチューしたりくすぐったりばかりして「二人の世界に閉じこもる」。

これが「遊び」であるならそこには誰も入れないし、父親だって仲間外れになるから「もう赤ちゃんじゃないんだから」みたいにチクリと言いたくもなる。

父親にとって「遊ぶ」ことは子供を「外の世界」に開かせてあげることだから、「ごっこ遊び」や「工作」や「連想ゲーム」をやっているし、その時僕は「言葉」を多用する。

それは「ゲーム」だから参加自由だし、「家族以外の他者」だって一緒にできる「遊び」だ。

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だから僕の「遊び」と妻の「遊び」は相容れない。

妻が「遊んでる」時には僕は「面白くない」わけだから、妻にしてみれば、

「私が遊んでる時あなたは不機嫌なんだから、私もあなたが遊んでる時に不機嫌になって何が悪い?だから私だって勝手に自分のやりたいことやる」みたいな認識になるんだと思う。

一見これは「正論」で「対称」に見える。

だけど「二人だけの世界」に父親は入れないが「ゲーム」なら母親は参加することができる。

だから「平等」を求めるなら母親が「譲歩」するしかないように見える。

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しかし考えてみれば「母親が子供とくっつきたい、一体になりたいという感覚」は、かつて自分の体の中で子供と一体だった「母親固有のもの」だと思う。

父親はその「一体感」に対する欲求そのものがない。父親は生物学的に出産など不可能なのだからそんなものあるはずがない。

つまりこの父親と母親の「遊び」に対する「認識の非対称性」の根拠は「生物学的な非対称性」にあることになる。

いつも思うのだが、子供の出自についてここまで「さかのぼられる」と男は何も言えなくなる。

(ここまで『遡行』して育児分担してるのは家だけのことなのだろうか? 例えば僕は『皿洗い』や『おむつ洗い』についても『こんなこと出産に比べれば屁でもないんだ』というある種『原罪』にも似た『負い目』を感じながら粛々とやっていた。しかしこのあいだたまたま『父親3人だけ』で飲んだ時、他の二人が『俺なんて生まれてからずっと子供の風呂入れてるんですよ』とか『子供の送り迎えは必ずやる』みたいなことをいかにも『育児貢献してる』かのように満足げに話していて『ええ!?』と思ってしまった。『うそ?そんなことで評価してもらえんの?だって出産してないってことは借金1000万背負ってどんなに家事やっても50万ぐらいしか返せないようなもんですよ?』と訴えたが『はあ?』という感じだった)

男は『出産』によって返済し切れない負債を抱えてしまった。

しかし子供とは触れ合いたい。

そのために「ゲーム」とか「言葉遊び」という手段は有効だし、実際子供はそういう「遊び」が「大好き」だ。

それに母親とくっついているだけでは飽きてしまうだろう。

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するとある時点で子供と両親の関係の持ち方の「比率」が少しずつ入れ替わっていくんだと思う。

最初は子供は「母親とおっぱいで結びついている」から父親は泣いてる時に抱っこ変わってあげるぐらいしかできない。

だけど子供も成長して言葉を覚えて、幼稚園、小学校と上がっていくと、「社会性」を身につけるために「ゲーム」や「言葉遊び」が必要になるし子供もそれを楽しむようになる。

この「ゲーム」とか「言葉」というのをある種の「男性性」と考えてみよう。

(人にももちろんよるだろうし、論理的思考が得意な女性とかくっつきたい父親だっているだろう。だけど『父親は出産できない』という非対称性は以前として残るから、それを埋め合わせるために『論理』や『言語』に価値を見出す思考を『男性性』と仮に考える)

するとこの「移行期」において、母親は「おっぱいをあげて満足する」とか「くっついて安心する」みたいなスキンシップによるコミュニケーションから「頭脳的コミュニケーション」にシフトして行く必要に迫られる。

父親は「待ってました!」とばかり「ほら見てみろ、どんどん俺になついていくぞ」と得意になってその「ゲーム」や「言葉遊び」や「スポーツ」をやるかもしれない。

ここで母親が劣勢に立たされると「ぐぬぬ、負けるものか」と今度は「教育」にエネルギーを注ぐようになる。

あるいはこのタイミングで母親は自分を見失って「育児ノイローゼ」や「うつ」になるかもしれない。

その移行期の迷いや不安から目をそらす救済措置が、親子共々資本主義の競争原理に組み込んでいくための「早期教育」で、だからその意味でそれは子供のためというより「母親の父親化」のための下準備なんだと思う。

父親が仕事で「不在」なのだから、母親がやるしかないだろうという考えもあるし、「教育」を通じて「母性」を抑圧して、母親を「社会化」する意味もある。

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ここで僕には一つの疑問が湧く。

つまり、人間の生命を根源的に突き動かしているエネルギーの証である、あの「一体感」はどこへ行ってしまうのだろう?と。

それは「早々」捨て去られるべきものなのだろうか?

たしかに生まれて来た赤ん坊は、いくら母親と一体だったからと言って、母子二人の世界に閉じこもって生きて行くことはできない。

人は社会化されなければ生きて行けないのだから「社会」だって人間生命の一つの表れなのだ。

だけど子供にとって母親が与える安心感は何者にも代え難いものだろう。

人は子供から大人になる。

そこには「移行」がある。

だから、その「移行期間」をどう過ごすか?なんだと思う。

そこではもちろん夫婦の間でも、子供との間でも、衝突があるんだと思う。

母親が子育ての全権を握ったり父親が暴君のように振る舞ったりするのは、その「衝突」を回避する(生じないようにする)ための古い家族モデルなんだ。

親は「自分たち固有の問題」に向き合わずに、理想やマニュアルに振り回されたり逆に家父長制に閉じ込められたり、それでがんじがらめになって怒りを爆発させたり子供の不満を無理矢理抑え付けたりするんだけど、最後のしわ寄せは子供に行く。

そしてその「ツケ」は必ず将来子供が成長した時に「反抗期」として帰って来るだろうし、最悪生涯に渡ってアダルト・チルドレンや人格障害といった症候として現れる。

それは「復讐」であるからより取り返しのつかない手ひどいダメージを親はくらう。

なぜ問題を「先延ばし」するのだろう?

夫婦も子供も早いところ「衝突」して話し合う習慣を身につけた方がいい。

そして一緒に遊び、笑う。

民主的な家族を目指すとはそういうことだ。








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子供に本音と建前を教える [育児]

レストランでエスニック風チキンみたいなのを食べて、お店の人が「いかがでしたか?」と聞いた。

僕らはもちろん「おいしかったです」と答えたが、子供は「おいしいようなおいしくないような」と言った。

店の人は笑顔のまま行ってしまったが、妻はその後子供に真顔で「そういうこと言っちゃだめだよ」と言った。

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僕はちょっと違和感を感じて「いや、そういう意味じゃないんじゃないか?」と思い、

「〇〇、この味あんまり好きじゃなかった?だけど『おいしくない』って言ったら、作ってくれた人がっかりするでしょう?だから、そういう時は言わない方がいいよ」

と言った。子供はちょっとすねた。

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僕は「だめ」という言葉をあまり使わないようにしているし、「だめ」と言ったら、だいたい「なんでだめなのか?」を説明する。

(『だめ!』とすぐ言うのは母親の特徴だと思う。まあそれは『子供にケガしてほしくない』とか『親のしつけがなってない子供と思われたくない』とかいろんな思いがあるのだろうが)

それで「おいしくないなんてお店の人に言っちゃダメだよ」というのは、ある意味子供には矛盾することなんだ。

まず第一に子どもは味としてたしかに「おいしいような、おいしくないような」と思ったんだと思う。

だから素直に「味の感想」を述べたのだと思う。

その場合それを「言ってはいけない」と言うならそういったマナーなり礼儀作法があるから「建前」として言ってはいけないということだと思う。

そしてそれは「自分の本心」ではなく「相手の立場に立って考えたら」という前提を必要とする。

こういう「人の身になる」という思考は子供にはなかなか難しい、というかほぼ不可能だと思う。

自分の主体もあいまいなところで「人のためを思う」などできるはずもなく、もしできるとすればそれは「パターン」として覚えるということだと思う。

つまりお店に行って味を聞かれたら「とりあえずおいしいと言えばいい」「おいしいと言っておけば怒られない」という具合に。

だけどここでもう一つ考える。

日頃「嘘を付いてはいけない」とか「本当のことを言いなさい」とか「正直に言いなさい」とか子供に言っていないだろうか?

(現実と想像の区別がついてない子供に『嘘か本当か』と追求することにはあまり意味がないのだが)

また「この料理の味どう?」「学校の授業どうだった?」「この本読んでどう思った?」とか感想を求めることもあるだろう。

そういった時には正直に「おいしくない」「つまらなかった」「楽しくなかった」と言うべきだろう。

つまりある時には「正直に言う」しある時には「正直に言ってはいけない」ということを子供は了解していなければならない。

この「ある時に」というのが曲者で、それが「状況」であり「場の空気」であり、子供がまだ持ち合わせていない主体的判断に関わっている。

親はだから「言ってはいけない」「やってはいけない」と「命令」を下すよりは、「それを言ったら他の人ががっかりするよ」とか具体的な状況を説明してあげた方がいいんだと思う。

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あと子どもが「おいしいようなおいしくないような」と子どもなりに自分の味覚の「微妙さ」を表現したことを僕はむしろうれしく思ったし、それは「マナーとして言ってはいけない」というのはちょっと違うと思う。

「僕クミンって苦手なんだけど、このチキンはおいしいですね」とか何とか、自分の本音を匂わせながら相手も立てるみたいな微妙な言い方をすることだってある。

実際「味を楽しむ」ってそういう相反するものがどう組み合わさっているかそのバランスの問題だと思うし、味を見極めるための「センス」を言語化するチャンスなら、それを「マナー」で閉ざすこともないと思う。

「マナーだから言わない方がいい」ってのは社会的慣習だからパターンとして身につけるのはそれほど難しくないんだ。

それを教える前に「どうしてそう感じたの?どうしたらもっとおいしくなる?どうしたらもっと好きな味になる?」と聞いた方がいいと思う。

不思議なのは、社会に出たらマナーなんてあって当然で、重宝されるのは「表現力」の方であることぐらい親にも分かっているということだ。

それでもマナーを優先して「表現の芽」を摘んでしまうのなら、その人は「子供の未来」よりもよっぽど「親の体裁」が気になるのだろう。



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会話と状況判断 [育児]

妻の誕生日に新しいノートパソコンをプレゼントしたら、妻が「これ私にはもったいないよ。新しいのあなたが使って、私が古いのもらうから」と言う。

すると子供が「お母さんの誕生日プレゼントなんだから、もらえばいいんだよ」と言う。

僕は思わず「そうだよねー」と言う。

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子供が学校に行った後で妻に「子供が言う通りプレゼントは素直にもらわなきゃ逆に相手に失礼だよ」と言うと、

「いや、実はプレゼント買うの忘れてて『自分用に買ったパソコン』を持って来たのかと思った」と言う。

「じゃあ何で開封してないの?そんなことあるはずないでしょう」

「いや、もしかしたらと『勘ぐった』だけ。じゃあ自分で使うから。ありがとう」

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僕が不思議に思うのは、プレゼントに対して妻があれこれ言った時に、「プレゼントなんだから素直にもらえばいい」と子供が言ったことだ。

これは言ってみれば僕の心の声を代弁しているし、「素直に喜んでみせること」は礼儀としても正しいと思う。

「勘ぐる」というのは洞察力と同じ分析的思考だから、世の中を生き抜いていくためには身に付けなければいけない能力ではある。

だけど「勘ぐったり」「言葉の裏を読んだり」するコミュニケーションは、注意深く運用しないと(あるいは逆に考えすぎると)「衝突」の原因になる。

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まず「勘ぐり」と言うのは、「真偽不明」の相手の心の状態を類推しているわけだから、「絶対にそうだ」と確信したところでもそのものズバリを言うわけにはいかない。

せっかく買ったプレゼントに対していきなり「これ自分用に買ったんじゃないの?」なんて言われたらがっかりするだろう。

だから妻も「私にはもったいない」とか別な言い方に変える。

するとその言葉には何か「ベール」のようなものがかかって、一見喜んでいるかのようで、その後ろに微妙に沈んだトーンが透けて見える。

子供の恐いところは、こういう「トーン」や「ニュアンス」を敏感に捉えるところだ。

大人が自分の不愉快さや疑念といったネガティブな考えを適当に耳障りのいい言葉でうまく丸め込んだと思ったところで、そんな表面的な「修辞」に子供はだまされない。

だから子供は時に大人が「ギョッとする」ようなことを言う。

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人はたしかに「勘ぐる」し「裏を読む」。

「疑いの目」で世界を見ることは思春期・青年期の特徴的な思考だから、それは「若さ」の表れでもある。

そういう目で見れば大人なんてみんな「嘘つき」に見えるし、世の中「間違った事だらけ」だ。

しかし社会に出てみれば「本音と建前」なんて当たり前で、いつのまにか自分もその「嘘つき」になる。

そうやって常に自分の本心を隠して相手に取り入ろうとする話術が身に付くと、きっと相手も「自分と同じように何かを隠しているのだろう」と思うようになる。

会話は「腹の探り合い」になる。

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注意した方がいいのは、家庭の中にそういう思考を持ち込まないことだ。

だから妻は僕に間違った対応をした。

そう言うと妻は、

「じゃあ『わあ、うれしい!ありがとう!』とだけ言えば良かったのか?」と言いそうな気がする。

しかし逆だ。

本当は第一声でまずこう言えば良かった。

「プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」と。

僕は「『自分用に買ったの?』といきなり聞かれたらがっかりする」と書いたのだから、それはおかしいだろうと思う。

だけど、問題なのはそこに「悪意」があるかどうかなんだと思う。

もし妻に「悪意がない」のなら、「心に浮かんだことはすぐ口にした方がいい」ということだ。

(悪意が『ある』のなら、それはまた別の話だ)

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会話の続きとしてはきっとこうなるだろう。

「ええ?プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」

「え?そんなことあるはずないでしょう?見てみなよ、梱包されてるでしょう?」

「あ、本当だ。ごめん。いいの?ありがとう!」

これで終わりだと思うし、誰も傷つかない。

(僕は投げかけによって妻に『悪意がない』ことを確認した)

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しかし妻にこういう「言い方」ができるのか?と考えると、たぶんできないだろうと思う。

なぜかと言うと、妻は「勘ぐった」と考えている時点で、そこにある種の後ろめたさがあって、それは悪意とは言わないが「まず最初に僕を疑った」という感覚なんだと思う。

「これ自分用に買ったんじゃないの?」という一言はその言葉自体としてはニュートラルなんだ。

例えばこうだ。

「うれしい!すごい!ええ?まさか自分のために買ったの持って来たんじゃないよね?本当に私の?やったー」

と言うのと、

「え?、、、本当は忘れててまさか自分のために買ったんじゃないんでしょうね?、、、」

と言うことのニュアンスの違い。

いきなり後者の言い方をされたら、たぶん僕もカチンと来るし、どちらかと言うと妻にはまず微妙にそういう「疑念」のようなものが生じたから、別な言葉に言い換えたんだと思う。

だけどもし思い浮かんだのが悪意とは異なる「ちょっとした疑念」があるなら(ないなら素直に喜べば良い)、結局どう取り繕おうとネガティブな「トーン」は子供にすら伝わってしまうのだから、積極的に疑念を払拭するためにもむしろ「真っ先に言ってしまった方がいい」んだと思う。

心に忍び込む「疑い」や「不満」を避けることなんてできないのだから、それを会話のやり取りを通じて解消してしまう。

これも一つの話術だ。

(同時に『一見素直に喜びを表現しているように見せかけて悪意を忍び込ませる』というアクロバティックなことをやる狡猾な人間もいるのだが)

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だけど、どっちにしても「ごまかしたり」「言い換えたり」するのは家庭の中ではやらない方がいい。

まず子供はそういうのを見抜いてしまうし、やがて子供も親の真似をして「ごまかす」ようになる。

それは「嘘をつく」ことを勧めるようなものだ。

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心に浮かんだことは、何でも、例えそれが相手を傷つける言葉でも、とにかく「言葉にする」。

それが家庭の中の会話の基本だと思う。

親はそれを見過ごすのでも責めるのでもない。

子供は美味しくない料理に対しては正直に「おいしくない」と言った方がいい。

そして「なぜそれをおいしくないと感じるのか?」「どうやったらおいしくなるか?」と一緒に考えた方がいい。

「おいしくないなんて作った人に失礼だから言っちゃいけない」というのは「マナー」の話で、子供の「心の発育」とは別の問題だ。

人の心の中には、良いことも悪いことも、人を思いやる言葉も傷つける言葉も「同時に」浮かぶものだ。

そして、それは「口から外に出たがって」いる。

他人に伝達されるのを待っている。

(人は伝えたいから思いつく。思いついたら伝えた方がいい)

だから、大人はその言葉を聞いてあげて、マナーに反するものであれば、一緒に補正してあげればいい。

大事なのは会話であり言葉の「やり取り」であって、言葉の「定義」ではない。

言葉は多義的で、会話の流れの中で少しずつ意味は変化するのだから、その「変化」を見極める読解力(空気を読む力)を育むためには家庭内の会話は「自由」な方がいい。

ふと口を突いて出る言葉の首根っこを捕まえて、怒りとともに「言っちゃいけません!」と命じるなら、それは「考えるな!思うな!思うおまえが悪い!」という呪縛となり、生涯にわたってその人の心と想像力を「監視」するだろう。

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うちの子とふざけて遊んでいると時々はしゃいで「この!ばかクソお父さん!」とか言うことがある。

どこかで覚えてくるのだろうがまったく悪意がない。

そういった「言葉そのもの」を標的にして「親に向かってそんなこと言うんじゃない!」とか激怒して、それをしつけと考える親の方が多数派だとは思う。

だけど僕は我が子を「他人を信じられない人間にしたくない」ので、

「なんだって?それはあまり良い言葉じゃないなー。お父さんに向かって言う言葉じゃないよ」と笑って応戦する。

むしろ思いついた言葉がどんどん飛び出して来る方がうれしい。

「言っちゃいけない言葉」なんてないんだと思う。

「言っちゃいけない状況」があるだけだ。

そして「状況判断」は冷静な分析能力であって、怒りを通じた「抑圧」では身に付かない。




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言葉にできたらそれだけでほめてあげる [育児]

最近、子供に対する「ダブル・バインド」(板挟み)について考えた。

そして、それが日常「よくあること」に気が付いた。

「よくある」んだけど、その状況を親は問題と思ってないので、単に気がつかない。

いや「気がつかない」と言うより、それが「普通」だから、むしろ「そんなこと考える方がおかしい」ぐらいの感じだと思う。

親が気がつかないのは、その親自身も「ダブル・バインド」によってしつけられ、親になってそれを繰り返し実践するからだろう。

試しに自分の親(たいして口うるさくない方だと思うが)に聞いてみた。

「『勉強しなさい』って言って、それで『いやだ』って答えた子供に『じゃあやらなくていい』と言うのはダブル・バインドなんだよ」と。

そうしたら

「、、、普通そうなんじゃないのか?」

と答える。

たしかにそうだし、僕自身もまったく気が付かずに、別な形で似たようなことをやっていると思うので、少し考えてみる。

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「ダブル・バインド」は親にとって都合がよく、「楽」である。

そして子供にとっては理不尽で、「苦痛」である。

人間は「楽」なことをしたがる。

親が「楽」で子供が「苦痛」だって?

そんなことあるもんか、と大人は思う。

親が「苦しく」て、子供が「楽しようとしてる」の間違いだろう?

子供は「わがまま」言う。それが「間違ってる」ってことを子供に理解してもらわなきゃ困るだろう?

ところが事実は逆で、

子供は正当な理由を持って苦しんでいるのに、「親が楽をしようとして」その苦悩を抑え付けるんだ。

これじゃあまりにひどい話で大人も良心が痛むから、「しつけ」という大義名分を作り出した。

それゆえ一般的に言われる「しつけ」のほとんどが、いまだに間違った仕方で代々受け継がれている。

例えばこんな感じだ。

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「お母さんテレビ見ていい?」

「いいよ」

「やったー」

「あ、宿題やった?その前に宿題やろう」

「なんで、もう!!」

「だって、終わらないでしょう?いいよ、終わらなくていいなら、テレビ見れば」

「分かったよ!やるよ!やればいいんでしょう!」

「何?その言い方?お母さんあなたのため思って言ってるんだよ?いいよ、やらないでそのまま学校行けば?」

「やるよ!やるって言ってるでしょう?」

「そんな嫌そうにやるなら、やらなくいいよ。だって自分のためでしょう?」

(無言)

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これのどこが間違っているか?

お母さんは子供に聞かれて、「(テレビ見ても)いいよ」と自分が「無計画に」返事している。

「計画性」を言うならもっと別な言い方があった。

「テレビ見る前に宿題やる」あるいは「テレビ見てから宿題やる。やるなら時間決める」とか。

親がまず「計画」を明示して、その「選択」を子供にさせてあげるべきだった。

親は自分がまず「無計画」なことを棚に上げて、子供には「計画性」を押し付ける。

子供は「親に許可されて、それから修正されて、さらに押し付けられたから怒った」。

そうしたら今度は「怒るならやらなくていい」とまた押し付ける。

これもよくある「ダブル・バインド」だ。

結局、子供は「親に振り回される」あるいは「親に支配される」と感じる。

あるいは、

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「お父さん〇〇して」

「いいよ」

「やったー」

しばらくして、

「あ、そうだ。ごめん、先に仕事するから、ちょっと待ってて」

「えー!なんでー!今やるって言ったのに!」

「ちょっと待っててよ、お父さん忙しいんだから!」

「やだ!!今やって」

「何で分からないんだ?分かったよ、やるよ。ちょっとだけだからな、ああもうしょうがない、、、」と嫌々やる。

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これも問題は、お父さん自身が最初に「計画」を立てられない。返事をした後でやらなければいけないことに気が付いて、「自分の都合で」変更した。

そして、それに対して子供が文句を言ったら「前言撤回した」。

たしかに、本当に「大事なことを思い出した」というのはあるし、その時はしょうがないだろう。

だけど、意外に人は、何かやり始めると、「やらなければならない用事」を思い出したりする。

だいたい、親が暇そうにしてたから子供が「遊んで」と言って来たんじゃないか?

この場合の修正案としては、子供が「〇〇して」と言って来たら、

「そうだな、、、」とまず立ち止まって考える。

頭の中で予定を組み立てる。しかるべきのちに、

「今仕事終わらせるから、ちょっとだけ待ってて。その間本読んでてくれる?」

とでも言えばいい。

その後「やだ!今すぐやって!」と子供が要求したら、それは親にとって困るのだから、今度はそれを説明すればいい。

「今すぐやってほしいのは分かるけど、これを先に終わらせなければならないから、時計の長い針が一番下に来るまで待っててくれる?そうしたら必ずやるから」とか。

「しつけだから怒ったっていいんだ」と開き直っている人は、こういう「修正案」「第三の方法」を考えることすらしない。

ダブル・バインドの事例は他にもいろいろ考えられる。

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子供が夢中になって本を読んでいる。

親が話しかける。

「〇〇ちゃん、今日学校どうだった?」

(無視)

「〇〇ちゃん?聞いてる?」

(無視)

「〇〇ちゃん、聞いてるんだけど」

(ようやく顔を上げて)「え?なーに?」

「さっきから何回も聞いてるでしょう?学校どうだった?」

(質問の意味が分からない)「え?何が?」(そう言ってまた本を読む)

「学校どうだったの?楽しかったの?」

(本から目を離さず)「うん、楽しかったよ」(と、気のない返事)

「人が話しかけたらちゃんと返事して答えるんだよ?分かった?」

「、、、うん、、、」

こんな風に子供に話したとすれば、親は二重三重に間違っている。

まず第一に、子供が夢中になっていることを妨害した。

「本をたくさん読みなさい」「しっかり読みなさい」と言っておいて、読んでいたらそれを邪魔する。

それなら「本なんて読まなくていい」と言うか、「読み終わるまで待つ」か、「大事な話があるから読んでいるのちょっと止めて聞いてくれる?」と断るべきだ。

そして第二に、「学校どうだった?」とオープンクエスチョンをしている。

これは子供にはとても答えづらい質問だ。「どう?」って言われても、、、という感じなのに、以外にこういう質問をする人は多い。

こういった場合、具体的に「昨日は縄跳びだったけど、今日の体育では何やったの?」とか、あるいはあらかじめ聞いていた「今日の音楽でやるって言ってた笛楽しかった?」とか聞いた方が子供は注意を向けてくれる。

まずは「注意を引きつける」努力を親がしなければならない。

「こっちが声かけたんだから答えなければならない」というのは、親の都合でしかない。

そうやって「状況を無視して」「答えづらい質問をして」、その上だめ押しで、

「聞いてるの?」「何回も言ってるでしょう?」「ちゃんと返事して」と、

「子供に罪を押し付ける」

この「罪」。親が勝手に不条理なことを問いかけて、それができないと「答えないおまえが悪い」みたいに思い込ませることで子供の中に植え付けられる罪の意識。

これが蓄積されると、子供は意識的に親に反抗するようになる。

そのうち「知らないよ!」とか「分かんない!」とか言い出すだろう。

そうすると、今度は「何だその言い方は!」とか「答えたくないなら答えなくていい」とか親は怒鳴って、力でねじ伏せようとする。

子供は面倒になって、だんだん当たり障りのない「答え方のパターン」を学ぶ。

「うん」と適当に返事して、「楽しかったよ」とどうでもいいように答える。

その蓄積によって損なわれるのは、親への「信頼」だと思う。

親を信頼しない子供は、「どうせ僕なんか、、、」「どうせ私なんて、、、」と次に「自己否定」するようになる。

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子供はまず「断り方」を学ばなければならない。

「ごめん、今本読んでるから、もうちょっと待って」

そう言えなければならない。

そのためには「主体性」が必要だから、親がまず「主体的に」、子供の主体を尊重して問いかけなければならない。

これは「子供と大人」の関係より、むしろ「大人と大人」の関係に近い。

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ここで親が子供に掲げる「正当な理由」について考えてみる。

例えば「人が話しかけたらちゃんと答える」というのは社会的振る舞いとして正しいだろう。

しかし、それは「状況次第」だ。

仕事場で、仕事のミスで残業している人間に「仕事どう?」と気軽に話しかけるだろうか?

たった一度「え?」と聞き返した人間に、「ちゃんと人の話聞いてる?」と言うだろうか?

「、、、いや、まあ順調ですけど」と答えた部下に「何がどう順調なの?分かるでしょう?俺が聞いてること」とか言う上司がいたら、相当嫌なやつではないだろうか?

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思うに、複数の人間が同じ場所にいて、

「人が話しかけたらちゃんと答える」ことが当然とされる場合、そこには「場の共有」「意識の共有」がある。

人々は「話しかけられたら答えよう」と最初から意識している。

そしてその場が、納期ギリギリのテンパった状態なのか、リラックスした昼休みなのか、状況次第で「質問の仕方」も「答え方」も変わるものだ。

「〇〇君!」「はい!」みたいに即答する場合もあれば、「えーと、ごめん、今手が離せない」と言う場合もあるだろうし、「え?今なんか言った?」と聞き逃したことを許される場合だってある。

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子供には、この「場の共有」や「状況次第」という感覚がないか、希薄だ。

子供は自分を「客体化」「客観視」できないし、だから「主体」もあいまいだし、それゆえ常に「自分中心」で物事を考えている。

大人のように「本を読みながら同時に」時間の余裕や予定を考えて、一瞬手を離して「今日学校の体育で、、、」なんて答えてまた読書に戻るなんて至難の業なのだ。

それに、家庭の中で「場の共有」も何もないだろう。何も気にしないでリラックスしていられるのが家じゃないか。

ぼーっとするなんて大人だってあるんだから、子供がそうするのなんて際限がないだろう。

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思うに、多くの子育てのマニュアルに欠けているのは、「状況によって変化する」ことを考慮に入れてない点だと思う。

いや、結局、状況なんて「無限」に個別的だから、それを「こうすればこうなる」なんて断定できるはずがない。

本当に経験上思うんだけど、例えば、宿題をやらせようと思った時、

「やりなさい!」と命令しようが「一緒にやろうか」と優しく声かけしようが、あんまり関係ないと思う。

時間を決めて「何時に始めよう」と言っても、やる時もあればやらない時もある。

問題はその「うまくいったりうまくいかなかったりする」ことにあるんだ。

だから「うまくいったりいかなかったりするから、無理強いせずに適当に済ませましょう」と言われたって、

「どうしてもやらなければいけない宿題」だったらとにかくやるしかない。

それを「やらなくていい」なんて放り出せないから困ってるんじゃないか。

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子供って、大人が考えているように「何にも考えてない」とか「いい加減」とか「あきっぽい」とかじゃないと思う。

むしろ、全てが「真剣勝負」のようだ。

例えば、プロのスポーツ選手が試合に臨む時、突然思いついたように「さあ今から試合やるよ」とか言われないだろう。

その時に向かってコンディション整えて、気分を盛り上げて「気合いを入れる」はずだ。

失敗して「どんまい、どんまい」の時もあれば、悔しくて涙が止まらない時だってある。

親はそういった真剣さを「どうせ子供なんだから」と「低く見積もって」、「たいしたことない、気にするな」なんて上から目線で言ってしまいがちだ。

子供がよく分からない理由で泣く。地団駄を踏んで悔しがる。

「何泣いてんだ!」「いい加減にしなさい!」と怒鳴るのでもなく、「よしよし、いいんだよ、泣いても」と同情するのでもない。

「何で泣く?」と悩みながら、じーっと黙って嵐が過ぎるのを待つでもない。

子供がその思いを言葉にできるように仕向ける。

「悔しかったか?」と聞いてみる。

子供が一言「うん、悔しかった」と答える。

「言葉にしたらそれだけで」心の中でほめてあげる。

そして「悔しかったな、、、」とまず共感してあげる。

この時親は、親と言うより一人の人間として子供に向き合うんだと思う。





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習い事 [育児]

夕方、週に3回、車に乗せて子供を習い事に連れて行く。

学校から帰って来て友達と遊んでいるから、そこで自分だけ抜けるのが面白くない。

「いいなー、みんなは、何もなくて、、、今日これから鬼ごっこやるって言ってたのに、台無しだ、、、」とぼやく。

車に乗ってしばらくしたら、

「もうやだ、やりたくない、習うのはプールだけでいい!」

と言う(プールは好きなので)。

今までも何回も同じことがあって、大抵の場合それは「友達との遊びを中断する時」に起きる。

だから、決して「心底やりたくない!」という訳ではなく、あくまで「まだ遊びたい!」ということだと思う。

それで僕は何と言って来ただろう?

「高いお金払ってるんだからちゃんと続けなさい!」とか頭から命じるようなことだけはなかったし、これからもないだろう。

だから「もっと考えて」言う。

「やりたくないならしょうがないな。どうする?やめてもいいよ、自分のことだから」

「お父さんとお母さんは将来のことを考えるとやった方がいいと思ってる。でも本当にやりたくないなら考えよう。自分で決めていいよ」

この言い方のどこが間違っているのだろう?

そう思うけど、今振り返ると「決定的な誤ち」がうっすら見える。

それは「正論による頭ごなしの決めつけ」なんだ。

「どうだ? お父さんの言うこと間違ってないだろう? おまえもいつか分かるよ」

という「隠れメッセージ」があるということに気付くために、僕はゴードン博士の「親業」を読まなければならなかった。

だから、昨日は少し違った言い方をしてみた。

「やだ!やりたくない!やめたい!」

と言うので、

「そうか、やりたくないか、、、みんなと遊んでた方が楽しいよな、、、それはそうだ」

とまず「共感」してみた。そして

「遊びたかった?」

と聞いてみる。

「うん、、、」と子供は一瞬黙る。

それから、

「でも友達の中にも習い事してる子もいるし、してない子もいるでしょう? 〇〇は3つも習ってるから大変だけど、他にもそれぐらい習ってる子もいると思うよ。習ってない子は毎日遊べるけど、習ってる子はその分いろんなことができるようになるし、習いものがない日はちゃんと遊べる。お父さんは大人になって「いろんなことがやりたいなー」と思うけど、なかなかできない。子供の時もうちょっとやればよかったなと思う。だから〇〇がやっていることは良いことだとお父さんは思うよ。でも、本当にどうしてもやりたくないなら、無理に続ける必要はない。でも今すぐ決めなくてもいいと思うから、もう少し続けて、それから考えてみようよ」

と、何だか長くしゃべった。

こういう「語り」は、通常の大人の会話でもあると思う。

何か、しゃべりながら、その言っていることを「補強」したり「修正」するような言い方。

子供に対してだと、「どうせ長く話しても分からないだろう」という気持ちがあるからなのか、明快に一言でズバッと伝えた方がいいと思っているからなのか、「短い言葉」になりがちなんだ。

「お父さんは『子供のころにもっといろいろ習えばよかったなあ』と思ってる」

以上。みたいな。

たしかにそれも本心なんだけど、同時に、だからと言ってそれを理由に子供に「無理矢理やらせる」ってのも、正当な理由にはならない。

「迷い」が当然あるんだ。

だからもう一言付け加える。

「君はよくやっていると思うよ」

しかし今度は「君は偉い。だからお父さんの期待を裏切らないでくれよ」というメッセージにもなってしまう。

そこでもう一言付け加える。

「だけど、本当にやりたくないなら、続ける必要はない」

これは「やりたくない!」という子供の気持ちを代弁している。

だけど、ここで終わってしまったら、

「やめていい」

というメッセージになってしまい、それは「君は偉い。続けた方がいい」という前言に矛盾してしまう。

だから最後の最後にもう一言付け加える。

「もう少し続けて、それから考えよう」

と、ここで結論を出さないようにする。

そして実際、僕の心の中で起きることは、そっくりその通りである。

ゴードン博士はこういった「迷い」も言葉にして伝えた方がいいと言うんだ。

この考えが僕にとって「画期的」「目からうろこ」なんだと思う。

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こういう話術をこうやって書き出してみると、結構支離滅裂というか、「あいまい」なんだ。

そして大抵の場合、会話とはそんなものだと思う。

子供に対して親は「威厳を持って接する」みたいにシュタイナー教育とかで言われる。

親は常に全てを見通して、具体的で的確な助言を瞬時に子供に与えることができるし、またそうでなければならない。

そういうプレッシャー。

すると自分の中でもはっきりしないままに、

「やりたくないならやらなくていいよ。自分で決めていいよ」

と「子供の主体性」に丸投げしてしまうような時が出てくる。

シュタイナー的にそうだなんてどこにも書いてないだろうし、僕の単なる読み違えなのだろう。

だけど「親の迷い」を子供に見せるのを許されないような感じはある。

「失敗したっていいじゃないの、人間だもの」みたいないい加減さが認められない。

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だけど、やっぱり、「どうしたらいいのかなあ?」とも思うし、「自分で決めていいよって言ったって、もし『本当にやめる!』とかここで即断されたら、『いいよ』とも『いや、ちょっと待って』とも言えないだろう」とか、次から次へと迷いは生じるんだ。

そこで自分を偽ってまで「親の威厳」を示そうとすると、人によっては

「いい加減にしなさい!何で分からないの?」

みたいになってしまうんだ。

もっと自分が当たり前に感じる「迷い」「不安」「期待」を、そのまま言葉にした方がいいんじゃないか?

そこでゴードン博士は「親は人として、人としての子供に接しなさい」と言ってくれる。

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その長いセリフを僕が言った後、子供はチャイルドシートでずっと黙って考えていたんだ。

しゃべらないから、僕もしゃべらなかった。

「カーステレオの曲変えるか?」

と聞いたら、

「ん?、、、いいよ、このままで、、、」

とまた黙っている。

それで、その習い事に着いた時に、

「今日習うやつ、お父さん子供の時おばあちゃんに『やりなさい』ってずっと言われてて、『やだ!』って言ってやらなかったんだ。だけど、大人になってやっておけばよかったなーと思うよ。今度おばあちゃんに聞いてみな。『やだあ!』って絶対やらなかったって言うから。だから君はえらいよ、ちゃんと習い始めた。お父さんとは違う」

と言った。

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それで、帰りは10分ぐらい居残りしてその日の課題を終わらせて出て来た。やる気満々という感じだったので、

「がんばったな」

と言うと、

「えーと、今習いたいのはー、サッカーと太鼓とギター。一番習いたいのはサッカー」

と言う。

「え?そんな習ったら遊ぶ時間なくなっちゃうよ」

と言ったら、

「いいんだよ、それでも、、、」

と「どうにでも好きなようにしてくれ」みたいに投げやりに言う。いや、それはいくらなんでも極端だろう。何か反動的なスイッチが入ってしまったみたいだ。

「いや、遊ぶのだって大事だよ。あんまりたくさん習いすぎると疲れちゃうから。でもサッカーやりたいなら、週一回ぐらいならやってもいいと思うけど」

と言った。

「やれやれ」

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結局、子供のやる気は「場当たり的」だから、それを親が導いてあげる必要がある。

しかし、その「導き方」が一筋縄ではいかないんだ。

子供が自力で「ほどほど」を知るには、まだまだ時間がかかるのだろう。










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子育てマニュアル [育児]

何冊も子育てマニュアルを読んだ。

いつも「参考程度」と思っている。

というより、マニュアル通りにやってうまく行った試しがないし、何よりもそういったマニュアルにはだいたい落とし穴がある。

人はインターネットでも本でも、情報を探す時その中に「自分のほしいもの」を求めてしまう。

例えば「怒らない方がいい」と考えている人が子育てマニュアルを開けば、そこに「怒ることはしつけにはならない」と書いてある。

「いやいや、怒る時には怒らなきゃ、叱らなきゃ」と思っている人が見れば、同じ本の中に「親は時には自分の感情を素直に子どもに伝えることも必要」とか書いてあるだろう。

だいたいマニュアル本には、「〇〇した方がよい。なぜなら、、、」としばらくその効用について書かれた後で、「しかし行き過ぎた〇〇は時にマイナスになる」だから「時には正反対と思われる××も必要になる」とか書いてあるのだ。

一つの方法とその逆の方法を並べて書くことが許されるなら、何だって可能な気がするんだけど。

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子どもが2歳ぐらいの時だったか、朝食の時に出したものが気に入らないと「ギャーッ」と泣くことがあった。

基本的に僕は怒らないようにしてたから、そんな時はしばらく放っておく。

するとどこかのタイミングでケロッとして食べ始めたりしていたので、「まあ怒らなくてもいいか」と思っていた。

しかしさすがに「それもどうなの?」と思って「シュタイナー本」を図書館から借りて来た。

細かいことは忘れたけど、「子どもに寄り添い、子どものペースでゆっくりと一つ一つ丁寧に一緒に行動する」みたいなことが書いてあった。

基本的に共働きで忙しいから、食事は僕らが徹底的に冷ましたり、食べやすい大きさに切ったりして、子どもはすっかり準備が整ったのを「食べるだけ」みたいになってたし、出かける時はジャケットのボタンを止めてあげて靴を履かせて、そのまま抱っこして車に乗せる。寝る時も布団の中でDVD見たり絵本読んだりして、寝る直前に電気消す、みたいに、とにかく何もかもが「慌ただしかった」と思う。

「うわあ、これ全然だめだ」と改めた。

するとどうなるかと言うと、やること全てに「時間がかかる」。子どもにやらせながら、できないところは手伝いながら、何もかもゆっくりやる。

最初は良かったと思うし、そういう「子どもに合わせて行動する」という知識を身につけたことはよかったと思う。

だけど、やっぱり「ギャー」ってなる時はなる。

すると、こっちが必死に時間かけて、自分を抑え付けてやっている分、

「え?今ちゃんとゆっくりやったよね?僕せかしてないよね?何で?間違ってないよね?何で泣く?」

みたいな「不安」は増大する。

同時に、

「いやいや、ここまでやってるんだから、ここで『怒ったり』したら元の木阿弥。我慢、我慢」

と泣き叫ぶ子どもを見ながら、「じーっと」耐える。

次はうまく行くだろうと「あの時自分が手を出したのがまずかったのか?」「『こうやったらうまくいくよ』の一言が余計だったか?」とか、細かい修正を加えて再チャレンジする。

結果は同じか、別なタイミング別な状況で、また同じように「ギャー!」。

妻に思わず言ってしまった。

「、、、あのさ、これシュタイナー本に書いてある?」

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マニュアル本を通して僕らが情報として得る「子育て理念」みたいなものはシンプルで力強い。

本を読んで、なるほど、その通りだ、がんばってみよう、と思う。

しかしそれに比べて現実の生活や子どもが持っている気質のバリエーションなんて無限なんだと思う。

そのケースに全て対応する本なんてこの世に存在しないか、存在するとすれば地球が丸ごと一個収まるような百科全書になってしまう。

そんなのドラえもんの四次元ポケットにしか入らない。

だからその「理念」と「現実」がどんどんズレて来る。

そのズレを埋め合わせるために「さらなる努力」「我慢」を重ねる。

そして一番の問題は、その「やり方」を巡って夫婦の間にも「ズレ」が生じることだと思う。

「あの『言い方』はよくないでしょう」とか「そこはもっと我慢しなきゃ」とか「いやもうちょっと厳しくしてもいいんじゃない?」とか。

何とも言い表しようのない微妙な一言、微妙な「程度」、微妙な「さじ加減」が火種となって、二人の足並みがさらにずれる。

だいたいそういった説明しがたい「すれ違い」みたいなものはどの夫婦にもある。

人の性格や考え方を簡単に「他人が変える」なんてできないから、お互い「干渉しない」ようになる。

子どもがいなくて二人だけだったらそれでうまく回る。だけどそこにそれ以上にコントロールの効かない(またコントロールしてはいけない)「子ども」が関わってきて、共同作業しないわけには生活が回らないのだから、とにかくやるしかない。

衝突するのを無理矢理ごまかし、とにかくがんばる。

全く別なタイプの「ストレス」が重くのしかかってくる。

これは仕事のストレスとはかなり違うし、それに比べれば「仕事の方が楽」と考えてもおかしくない。

(質が違うのだから比べることは不可能なのだが)

「育児を巡るストレス」については、その全てではないにしても育児本に参考例が書いてある。

しかし「育児を巡る夫婦の間のストレス」についてどこかに書いてあるのだろうか?

世間では「育メン」とかもてはやしているが、男が育児に参加することで、問題がより悪化したケースもあるのではないか?

人はそれぞれ個別の、その家族なりの「育児のやり方」を「発明」しなきゃならないんだろう。





原発事故「起こる」前提に教訓生かす [原発事故]

3年経った。

事故から。そして避難と移住から。

事態は、予想した通りに動いている。

今回の福島原発事故で、最も恐ろしい期間は、爆発から10日ぐらいの間だった。

そこで、今後起こるべきこともほぼ決まった。

「神風」が吹いたので、東日本が壊滅するような汚染は逃れた。

だから、「急性放射線障害」は目に見える形では起きなかった。

ということは、「晩発性障害」も「低線量被ばくによる健康被害」も、それに比例して「目に見える形では起きないだろう」と僕は予測した。

いやもちろん僕も「起きている」ことは分かっている。

しかし、いわゆる「隣の人がバタバタと倒れるような」「目に見える形で」は起きていない。

(そう見えるとすれば、twitterやブログなどネットによって突然死などのデータが集約されるからだろう。反対に『全く何も気にしてない』twitterやブログの数と比べてみればいい)

そして、原発を推進する人間も、容認する人間も、気にしない人間も、「目に見える形で起きない限り」、それを『起きる』とは呼ばない。

だから、彼らにとっては、今回の事故に関して言えば、永遠に「原発事故による健康被害は起きない」ということになるし、実際そういうことになっている。

つまり、これほどの「原子力災害」「過酷事故」が起きても、結局「健康被害は起きなかった」というのが、彼らが、この福島原発事故から学んだ「教訓」なのだ。

恐ろしく単純なことなのだ。

原発事故が起きて、例えば100人の村の癌死が1人から2人に増えて、心筋梗塞が5人から7人に増えて、脳梗塞が3人から6人に増えたところで、91人いた健康な人間の数はいまだに85人もいるのだから、「全体としては健康」なのだ(例えその中の30人が原因不明の体調不良に悩まされていても)。

「健康被害が起きた」と認定されるのは、社会活動に従事出来る程度に健康な人間が50人を下回ったりした場合だろう。

今後30年ぐらい、放射性プルームを吸い込んだ人間の追跡調査をすれば、そういった統計も出るのかもしれないが、まず不可能だろう。

どの道、死因や病因は「特定不可能」なのだから、今回の福島原発事故による健康被害は「知りようがない」ので、そういうことなら、「また事故が起きたって大丈夫」と彼らは思っている。

たしかに今後必ず「原発事故は起きる」だろう。

だから、推進派は言い方を変えて来た。

「事故は起きる。だけど、起きてもたいしたことない。だから次は逃げなくていいし、逃がさなくていい」

転んでもただでは起きない。

反省するどころかさらにずうずうしくなって息を吹き返して来た。

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下のニュースで奇妙に感じる部分。まず、

「原発事故の本質は避難させられたことで人々が亡くなっていることだ」

というところ。

これは「本質」を「死」と同義にして、「急性放射線障害で人が死んでないから、この事故はたいしたことなかった」という事故直後から繰り返されて来た推進派の紋切り型の口上だ。

心筋梗塞による死人がちょっと増えようが、子供の甲状腺異常が増えようが、今後5年10年と出生率が下がって病人が増えようが、それは「原発事故による直接的な死」ではないから関係ない。

だから「逃げない方がマシ」と言う。

原発推進派にとって一般市民など、被ばくしても「即死」さえしなければ、じわじわ死んでくれる分には痛くもかゆくもない、電気代と税金を搾り取るための虫けらのような存在なのだろう。

そう考えているのでなければ、こういう形での「開き直り」はできないと思う。

そしてもう一つは、アメリカ合衆国原子力規制委員会前委員長のグレゴリー・ヤツコ氏の2013年9月の話。

「『原子力発電所では事故が起きるもの』だという前提で私たちは議論を進めなければならない」

と言っておきながら、

「いかなる事故であれ、ただの1人も避難させるということがあってはならない」
「原子力設備以外の土地を汚染する、米や麦などの主要穀物を汚染する、などということがあってはならない」

そのために、「世界中の原発でそのような安全基準を求めなければならない」

と言う。

「『事故が起きる前提』で考えて安全対策すれば『一人の避難者も出すことはない』」だから「事故は防げる」

と言うことだろうか?

「原発事故は起きる」だけど本気でがんばれば「原発事故は防げる」

と言うなら、単純に「だから事故は起きない」と言ってるのと変わらないじゃないか。

こういう自己矛盾した「詭弁」はまったく推進派の常套句で、形を変えて同じことを言う。

しかも

「もう1つ重要なことは、市民の側が行動を起こし、関与していかなければならないということです」

とか何とか、まるでICRP勧告の「自助努力」よろしく、

「放ったらかしに国や電力会社にやらせておいたおまえらにも責任あるだろう。だからこれからはちゃんと監視しろ」

といわんばかりだ。

「一人の犠牲も避難者も出してはならない」と本気で思うなら、こういう論理学的に意味不明な文言など並べ立てられるはずがないだろう。

正直に「原発事故は起きるし、避難者も出るし、土地も汚染される。だけどそれもみんなおまえら自分たちの責任だから我慢しろよ」と言えばいい。

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今その100人の村で、健康な人間は85人もいるが、今後それは70人、60人と減少していくだろう。そこで健康を害して行く人間の多くは現在の「子供たち」だ。

それでも60人も健康な人間がいるのだから、「健康である確率の方が高い」と考えられる人間は、避難も移住も必要はない。

それが電力会社と国の考えることなのだから、胸を張って国家に身を捧げて、彼らが望む通りに、一市民として「我慢」すればいいと思う。

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原発事故「起こる」前提に教訓生かす(NHKニュース 3月10日 22時27分)

東京電力福島第一原子力発電所の事故から11日で3年となるのを前に、事故の調査や検証を行った政府、国会、民間の3つの事故調査委員会のトップが討論会に参加し、「事故は起こる」という前提で3年前の教訓を生かすよう訴えました。

討論会には、福島第一原発事故の調査や検証を行って報告書をまとめた、政府、国会、民間の3つの事故調査委員会のトップが参加しました。
まず民間事故調の北澤宏一元委員長が原子力規制委員会について、「形のうえで政府から独立したが、政治や経済に左右されず国民の安全を守ることだけを使命としていけるかは未知数だ」と述べたうえで、その役割の大きさを指摘しました。
また、政府事故調の畑村洋太郎元委員長は原発の運転再開を巡って「原発事故の本質は避難させられたことで人々が亡くなっていることだ。原発の安全対策を強化しても事故は起こるという前提で、避難の計画を確認すべきだ」と述べ、3年前の教訓を生かすよう訴えました。
そのうえで国会事故調の黒川清元委員長は、企業や社会でものが言いにくいために問題が見過ごされたことが3年前の教訓だとして、「一人一人がおかしいと思うことに見て見ぬふりをせず、何ができるかを考えることが重要だ」と指摘しました

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9月23日に特定非営利活動法人原子力資料情報室の主催で開かれたグレゴリー・ヤツコ氏の講演

「原子力発電所では事故が起きるもの」だという前提で私たちは議論を進めなければなりません。そのような基本を認めなければオープンな議論はできません。いつ事故は起きるのか、どのくらいの規模で、どのくらい深刻なものになるか、は予測がつきません。けれども、どこかのある時点で事故は必ず起きるものだということです。

残念なことに原子力の業界では、原子力は技術的に安全なもの、決して事故は起きないとされてきました。原子力業界に携わる企業の行動は、事故は起きないという信仰の域に近いものがありました。

事故が起きると安全システムに対して何らかの修正・変更・改善を加えようという動きが出てきます。しかし、本来なすべきことは、原子力の安全性に対する根本概念を見直すことにあるのです。

(...)

これらを踏まえて私の意見を述べると、原子力発電所はまず安全性に関する基準を満たさなければなりません。この新しい基準は、福島第一の事故が私たちに教えるところの教訓に合致したものでなければなりません。いかなる事故であれ、ただの1人も避難させるということがあってはなりません。また原子力設備以外の土地を汚染する、米や麦などの主要穀物を汚染する、などということがあってはなりません。日本だけでなく、世界のどの国の原子力発電所であってもそのような安全基準が求められていかねばなりません。

私たちは日本で起きた悲劇から学ぶという機会を生かさなければなりません。もう1つ重要なことは、市民の側が行動を起こし、関与していかなければならないということです。今度は皆さんが公職にある議員、首長、政府などに働きかけて、討論の場を設け、説明責任を求めていくことが求められています。

子供の主体性 [育児]

子供の主体性を「育む」ことは難しい。

なぜなら、多くの「大人」は、正しい意味で「主体性」を持っていないから。

おそらく、多くの「親」が持っている主体性は、ほとんどの場合その「親の親」から、自分が子供の時に、「強制」や「命令」や「服従」を通じて、心の奥底に「無理矢理」植え付けられたものだ。

そして、そこに「抵抗」「反抗」することを許されなかったために、「真の意味での自発的な主体性」を「抑圧」され、その「自己防衛」のために、「親を喜ばせる」ことで、「偽りの」「コントロールされた主体性」を身につけてしまった。

この「コントロールされた主体性」を暴くことは、当の本人にはまずできない。

分かるはずがないのである。

「コントロールされた主体性」を持つ人は、自分で自分を「客体視」することができない。

なぜか?

簡単だ。

子供の頃にそうやって「自分で自分を客体視して」「自発的な主体性を得る」大事な過程で、その人は「そうすることを許されなかった」。

親に「禁じられた」。

なぜか?

そこで「客体視」すれば、自分が「抑圧」されていることに、子供は必ず「気づく」から。

(多かれ少なかれ、親は子供を『人として成長させる』過程で、子供の際限のない『欲望』を『抑え付け』なければならないから、子供には基本的に『しつけ』は『押しつけ』でしかない)

だから必ず子供は「気づく」から、そこでまず「親に抵抗し、反抗する」はずだ。

この「抵抗」こそ、「人として必要な主張」であるのだから、親だって「おお、いいぞ、いいぞ」と喜んで受け入れるべきことなのに、

「コントロールされた主体」を作り出してしまう親は、その「抵抗」を快く思わなかった。

だから「客体視による主体の形成」を、その親は「許さなかった」「禁じた」。

「主体の芽」を摘んだのだ。

では親はそれを「反抗するな!」とか「抵抗するな!」と言って、禁止したのだろうか?

全く逆である。

親はきっと、子供が例えば「お父さん嫌い!お母さん嫌い!」とか言うことに対して、「悲しい顔」をして見せたのだ。

ではなぜその親は「悲しい顔」をしたのか?

その親はこう思ったのだ。

「私はこんなにこの子を愛しているのに、一生懸命育てているのに、何でそんな心ないことを言うのだろう?何で親の苦労が『分からない』のだろう?」

と。

それがその母親の「悲しい顔」に表れて、それを子供は「読み取る」。

あるいは、「俺はおまえのために自分を犠牲にして働いているのに、何でそんなこと言うんだ!!」という強い怒りをあらわにする父親に怯える。

では子供は「親ががんばっている」ことを「分かってない」のだろうか?

「分かってない」から、「嫌い!」とか言うのだろうか?

これも逆である。

子供はむしろ「完全に理解している」。

「お父さんお母さんはがんばっている」

そう思っている。

だけど、「しつけ」と称して「ルールに従う」のは、人間誰だって嫌なのだ。

僕だって嫌だし、幼い子供ならなおさらだ。

だから、『ヤダ!』『できない!』『嫌い!』と言わせてもらいたい。

子供はそう思っている。

しかし、がんばってる親は、その「嫌い!」とか「やだ!」とか「もうやらない!」とかいう「口答え」に、過剰に反応してしまう。

なぜか?

「自分ががんばっているから、子供にもそれに完璧に応えてもらいたい」から。

誰に見られても恥ずかしくない「良い子」であってほしいから。

そして「良い親」として「自分が見られたい」から。

だから、その「反抗」に、イラつき、がっかりし、「まあいいや~」とのんびり構えられない。

「悲しみ」「怒り」を、薄らとした「表情」で、子供に暗示してしまう。

そして子供は、少しずつ「学んで行く」。

同時に、「蝕まれて行く」。

「親を喜ばせるためには、自分を抑え付けた方がいい。言いたいことを言わない方がいい」

と。

そして自分を抑え付け、笑顔で言う。「お父さん、お母さん大好き!」

「悲しい顔」を見せていた母親、「怒っていた」父親は、たちまち笑顔になる。

そして、「表面上は」万事うまく回って行く。

「子供の我慢」とその「犠牲」の上に、家族の仲は一見うまく行く。

しかし、そうやって「コントロールされた主体」を身につけた子供は、大人になってから、また同じことを繰り返す。

つまり、時に満面の笑みで抱きしめ、時に「悲しい顔」を見せ、「怒り」をぶちまけ、その不安定さによって子供を「服従」させ、同じ「コントロールされた主体」を子供に植え付ける。

なぜか?

その人にとっての「主体性」は、「偽りの」「コントロールされた主体性」であるのだが、当の本人にとっては、それは全く知りようのないことなのだ。

だから、悲しいことに、取り替えの効かない、その「唯一無二のコントロールされた主体性」を「正当化」して、「自己肯定」するしかないのである。

その「主体」を否定するほどの「自己の客体視」を、その主体は「できない」のである。

「できない」のではなく、「許されてこなかった」から「できなくなってしまった」。

だから、本当にそれを乗り越えるためには、自分(その『コントロールされた主体性』)を「犠牲」にするしかない。

しかも「子供のために」「悦びを持って」。

だから、正確にはそれは「犠牲」ではない。

『犠牲』と感じるのは、『コントロールされた主体』の感覚でしかない。

(『コントロールされた主体』は、自分の『犠牲』とその見返りとして子供が『服従』して『笑顔』を見せ、それによってもたらされる『親自身の悦び』という屈折したプロセスで、子育てを『我慢』する)

「真の主体」はまず「犠牲」を感じない。「悦び」しかないし、自分が「楽しい」と感じることしかやりたくないのである。

そしてそれが自ずと子の「主体性」を育む。

果たしてそんなことが、子供を持って初めて、その「コントロールされた主体」に可能なのだろうか?

何をやろうが結局その「犠牲」から逃れられないのではないか?

まるで禅問答のようだ。

だから、僕には分からない。

分からないから、僕は直感で、自分に対しても、子供に対しても「経験」を与えるように、努力する。

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先日こんなことがあった。

仕事仲間の家族と一緒に、今度子供たちも一緒にカラオケに行きましょうということになった。

だから、その日は学校が終わったら、うちの家族だけでカラオケの練習に行こうということにした。

子供を学校に迎えに行ったら、帰り道、何かつまらなさそうにしている。

「今日カラオケ行くよ」と言ったら、「うん、、、」と気のない返事。

そしてしばらくしたら、「今日カラオケ行かない、、、」と言う。

僕は、ちょっとカチンと来て、「分かったよ。じゃあ今日はカラオケ中止。行かないよ」とあっさり言って、そのままカラオケの話はしなかった。

家に着いてから、子供は何かベソをかいたようになり、一人でレゴを始めた。

それを僕の母、つまり「おばあちゃん」が見ようとしたら、逃げたり無視したりした。

それもかなりしつこく。

子供は「おばあちゃん」に対して、そういう意地悪なことをすることが時々あるので、その日は僕も怒った。

「そんな風に人を無視してると、自分も友達に学校で同じことされるよ」と。

それでもまったく意に介さず、一人で床でゴロゴロしているので、僕もそれ以上言うのを止めた。

僕はイライラして、無言になった。

おじいちゃんおばあちゃんが帰る時も、子供はあいさつもせず、僕の足にからみついてくる。

「許して」とでも言いたいのだろうが、僕も今日ばかりは我慢ならなかった。

その手を無言で振りほどき、二人が帰った後、はっきりと、きつい口調で、

「〇〇!人のこと無視するなよ!」と怒った。

(そう言いつつ、『おまえ、自分だって子供のこと報復とばかりに無視しただろう?』と思った)

子供は玄関のところでいじける。

妻にも「何であんなことするのかな?やっぱり父と僕が、母(おばあちゃん)に対してそういう態度取ってるから、その力関係を子供も分かっていて、一番弱い母をいじめるんだ。だから、そういうところから修復していかないとだめだ」と言う。

妻は「もっとちゃんと言わなきゃだめだよ」と言うが、「いや、『言う』だけじゃだめなんだよ」(つまり僕らの態度、振る舞いも変えなければならない)と僕は言う。

妻は「おばあちゃんだって悲しいよ、、、」みたいに話す。

子供は「テーブルの下」に隠れたりして、僕の顔色を伺っている。

そして、だんだんと僕も、自分自身について考え始める。

実は僕自身、今日は「面白くないこと」があって、ずっと「不機嫌」だったのだ。

だから、「実はさ、、、」と言って、今日あった「理不尽な出来事」を妻に話す。

(仕事場の『水道』が、『手違い』で止められてしまったことについて)

それがもうとんでもない勘違いが伝言ゲームのようになって、おかしなことにおかしなことが重なった話なのだが、おかげで僕は一日不便で、問い合わせなどで無駄な時間も過ごしてしまった。

その一部始終を僕は夢中で話して、

最後に、水道を開栓しに来た「罪の無い」若い水道局の人に対して、僕が怒りもあらわに「はい、分かりました、、、」とぶっきらぼうに言ったシーンを演じてみせたら、

それを子供がえらく面白がって、とうとうテーブルの下から出て来て、

「もう一回今のマネやって!」とせがんで、自分もそれを真似して、大笑いし、険悪な雰囲気は一掃した。

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その夜、家のステレオを聞きながら、カラオケで歌う歌の練習をしていたら、子供がポツンと言った。

「あ~あ、咳早く治らないかなあ、、、」と。

(子供はここ一週間ほど咳が出て、声がおかしくなっていた)

「そうだね、、、歌えないもんね」と僕。

「歌も歌えないし、学校もつまんない」と子供。

「どうして?」

「だって、遊んでても、お話してても、ゴホンゴホンってなって、つまんない、、、」

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そこで僕はようやく分かった。つまり、今日子供が「つまらなさそうに」学校から帰って来た「原因」は、その「咳」にあった。

そして僕は、そんな子供の「咳」のことも気遣わずに、「今日カラオケ行くよ」とぶっきらぼうに言って、それに対して「行かない」と言った子供に対して、「じゃあいいよ。行かないよ」と「子供のせいに」して、行かないことを決めた。

「だから」子供は、その理不尽な怒りを「おばあちゃん」という弱者にぶつけた。

本当は僕も、子供が「つまらなさそうに帰って来た」時、「どうした?咳大丈夫か?カラオケ行けるか?」とでも聞くべきだったのだが、その日は僕もその「嫌なこと」があって、最初から不機嫌だったのだ。

そういう諸々の連鎖があって、こういう出来事が生じてしまった。

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そして次の日、子供の咳はほぼ治ったので、また学校からの帰り道に僕は言った。

「今日カラオケ行くよ」

すると子供はまた、

「カラオケ行きたくない」

と答える。

僕は「何だよ、またかよ」と思う。

(うちの子供は大抵最初に『やだ』と言う。どこの子でもそうなのかもしれないが)

それで「どうして?」と聞く。

「行きたくない」と子供。

「分かった。じゃあいいよ。行きたくないなら、行かなくていいよ」と僕。

「、、、、分かったよ!じゃあ行けばいんでしょう!」と子供。

僕はそういう言い方をした時は、まず乗らない。

「いや、行きたくないなら行かなくていいよ。お父さん無理矢理行かせたりしないから」

と言う。

すると子供が、

「、、、だって、、、ずっと公園行ってないから、、、カラオケ行きたくない」

僕は「しめた」と思う。

「そうだね。風邪治って、久しぶりに公園行きたいよね。じゃあ公園で遊んでから、カラオケ行く?」

「うん」

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そして僕らは公園でたっぷり遊び、夕方からカラオケで練習をし、子供も楽しそうに歌った。

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この出来事で重要なことは、子供が「カラオケに行きたくない理由を自分で言ったこと」だ。

そして、それはとてもはっきりした、正当な理由であり、それを子供は「主張」した。

僕もたしかにイライラして怒ったりしたことはあったけど、「理不尽に子供に責任を押し付けたり」「無理矢理やらせる」ことはしなかった。

だから、結果として、子供は心を開いてくれたと思う。

人間は、お互いの心を読み合わなければならないが、それはとても難しい。

全て以心伝心というわけには行かない。

だから、我慢したり、譲ったり、逆に主張を通したりする。「言葉」を通じて。

そのためには、自分がどこまで譲歩し、どこから譲らないのか、その「境界」を自分で知らなければならない。

そして、それを「毅然として」他者に伝達できなければならないし、それが「主体性」と呼ばれるものだ。

人は「権利」として、「反抗」を許される。

そして、それは子供が「経験」で学んで行くことだ。

まず最初に、「親」という他者との関係と、それへの「抵抗」を通じて。

そのためには、親もまた、子と一緒にトライ・アンド・エラーを繰り返し、その「経験」をセットアップして行く必要がある。

その時、親の「主体」と、その「境界」が試されている。

それが不安定なままなら、試行錯誤そのものが、単なる混乱にしかならず、それが子供の主体の不安定さとして植え付けられてしまうだろう。

心してかからなければならない。









子育てと運命 [育児]

今朝妻と話していて、

「君は血液型やDNAもそうだけど、自分の性格や人生について運命論的に考える傾向がある」

と言ったところ、

「あなただって『俺には無理』とか言って、できないことを自分の境遇のせいにすることあるんだから、同じ運命論者だ」

と言われて、何だか混乱してしまった。

このことを、子育てに対する自分の考え方と一緒に、整理して説明してみようと思う。

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まず、自分は運命論者(人生はあらかじめ神や運命によって決定されたものと考える)ではない。

だけど、だからと言って、「運命を信じない」のかと言えば、まったくそうではない。

逆にむしろ「運命を信じている」ぐらいだ。

こんなこと言うとまるで矛盾したことを平気で言う分裂症みたいに聞こえる。

しかし、これは「運命」という言葉の持つ意味を、明確にしていないために、そう聞こえるだけで、僕の中では筋が通っている。

つまり、こういうことだ。

僕は、

「『すでに起きてしまったこと』は『運命』として受け入れる。しかし『これから起きること』は『いまだ決定していない』から、自分で変えることができる」

そう考えている。あるいは、

過去は「決定したものとして受け入れるしかない」

未来は「決定していないものとして変えることができる」

と考えている。

そして、僕が言う「未来」とは、絶えず「過去=運命」になっていく「現在」のことだ。

だから、僕はやがて「過去=運命」となって僕とその人生を変えて行く「未来」へ突き進んで行く「現在」にアプローチする。

結局僕が自分の「意思」で変えられるものは、「現在」しかない。

そして「現在」を変える僕自身の行動が、「過去=運命」を次から次へと作り出して行き、それがやがて「未来」を変えて行く。

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先日こんなことがあった。

僕たちが住む市内の子供たちとその父母を集めたイベントがあって、そこで最後に豪華景品が当たる「抽選会」があった。

イベントは一部二部に分かれていて、何か役所関係の偉い人や、どこかの小学校の校長先生があいさつしたり、教育アドバイザーみたいな人が子育ての講演みたいなことをした。

たいして面白い話ではなかったし、皆ざわついて、走り回っている子供もいた。

ただ、その「校長先生」がユーモアのある人で、説教くさいことをまったく言わずに、クイズを出したりアンパンマンの真似をしたりして子供を笑わせ、そして最後に「お父さんお母さんにお願いがあります。この二つをぜひお家で実践してください」と言った。

一つは「子供を早く寝かせる」

もう一つは「子供を抱きしめてあげる」

何て事ないことだが、僕はとても深い言葉だと思った。

その意味については最後に書く。

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一部と二部の間で休憩があって、妻はその時に「どうする?もう帰る?」とため息まじりに言った。

こういう義務的に参加しなければならないようなイベントに「うんざり」するのは妻の「悪い癖」(僕はそう思っている)で、今まで何度も「いや、行こうよ」「やった方がいいよ」と僕は言って来たのだが、そうやって「がんばって参加する」と、妻は極端に疲労してしまう。

何でそんなに「大変」なんだろう?と思うのだが、おそらくこれは、妻の母親が、そういった「義務的」「強制的」な「参加型イベント」のようなものを「避けて来た」せいがあるのだろうと思う。

なぜ「避けて来た」のかと言うと、まず「義務的である」ことが「不毛」と考えているからだ。

そして、「不毛だ」と思っているから、そこに参加することは「苦痛」になる。

ところが、多くの父母はそんなことを考えない。

「義務だから」「みんな行っているから」「賞品もらえるから」

そんな理由で参加しているに過ぎない。

だから、僕もそんな非主体的な人間と一緒にぼけーっと参加することは「不毛だ」と思う。

同時に、「それを言ったらあらゆるものが不毛だし、人間社会そのものが不毛だ」とも思ってしまう。

(そして妻の母には、そういった極端なペシミズムと、その対局にある理想主義が同居していて、妻もその考えを引きずっている)

しかし僕はそこで、「だけど」と思う。

「だけど、そこに生きざるを得ないのが人間じゃないか」と。

そしてまた考える。

「俺がもし、このつまらないイベントの『あの壇上』に立たされたら、果たしてあのユーモラスな『校長』のように、気が効いたことを話せるだろうか?」

そしてこう思う。

「いやいや、できない。むしろ、あの教育何とかアドバイザーみたいに、パワーポイントで誰も読まないようなグラフやら文字でいっぱいのスライドを用意して、会場がざわつこうが子供が走り回ろうが気にもせず、『ご清聴ありがとうございました』などと満足げに締めくくって、自分では『いい仕事をした』などと思うタイプだ」

だから、一応はそういう場を作った役所関係のオーガナイザーやらイベントスタッフには敬意を表すし、結局、そういう場に自分の子供も「巻き込まれていく」のは分かり切ったことなのだから、「えーい、なるようになれ!」という感じでむしろ「飛び込んで行く」。

「なるようになれ!」という諦めた感覚よりは、「まあ別にいいんじゃないか?」ぐらいの脱力した感じだが、僕はそこに「ゆるい好奇心」みたいなのを持っていて、微妙にワクワクしてしまう。

そして、たいていその「ワクワク」は、良い結果を生む。

それは今回はこんな感じだった。

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妻は「どうする?帰る?帰ってる人もいるよ」と僕に聞いた後、子供に「帰りたい?」と聞いた。

こういう聞き方をすれば、たいていの子供は「帰りたい」と言う。

なぜかと言うと、「帰りたい」のは子供ではなく、「妻」の方だから、子供はその気持ちを反映して「帰りたい」と言うからだ。

だから僕は言った。

「いや、帰らないよ。帰らない方がいい」

そして

「ほら、あそこにお友達いるよ、行ってあいさつして来なよ」

そう子供を「焚き付ける」。

子供は「やだ、はずかしい」と言って最初は行かない。

しかしこれもいつものことだ。

するとその友達がこちらにやって来て、声をかけてくる。たちまちうちの子も一緒に会場を駆け出す。走り回る。

これだけでも僕は「残って良かった」と思う。

そして第二部が始まる。さらに輪をかけてつまらない話が続く。子供はもう飽きて通路を上ったり降りたりしている。

しかし最後にみんなで歌や踊りをしたところでは、とても楽しそうにしていた。

いよいよ最後のイベント。抽選会。

これが、今回僕がもっとも気に入った、「運命的な出来事」だった。

賞品はかなり豪華で、自転車やCDラジカセなんかが当たったのだが、とうとううちの子供の名前は呼ばれなかった。

うちの子はビンゴとかくじ引きとか、割と「くじ運」は良い方で、今までにも何度か「一等」を当てている。

だから今回も「きっと当たる」と妙な自信を持っていたのかもしれない。

途中「当たったら、一人で行くのやだ。お母さん一緒に行って」と、すでに「当たったかのような気分」になっている。

しかし、結局、最後まで、何も、一番安い文房具セットみたいなものすらも、当たらなかった。

しかも途中、知り合いの、うちの子供が「好きな子」が、「図書券5000円分」みたいなのを当てたものだから、余計にショックがでかかったのかもしれない。

根拠の無い、誇大妄想的な「自信」、子供が誰でも持つ「全能感」は、もろくも崩れ去った。

子供はポロポロと涙をこぼし始める。

「なんで、、、、なんでだよお、、、なんで当たらないんだよお、、、」

こうなることは分かっていた。だから僕もできれば「当たってほしかった」。

子供の喜ぶ顔を見たかった。

だけど、これもまた「人生」だ。

そういう時もある。

だから、僕はそこで気持ちを切り替える。

「よし、この『不運』に最後まで付き合おう」

と。

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子供は帰りの車の中でも「当たらなかったー!」とずっと泣き続けた。

「当たる時もあれば当たらない時もあるんだよ。しょうがないんだよ」とか「次は当たるよ」とか、僕たちなりに慰めたけど、どうすることもできなかった。

ここで「じゃあ、〇〇買ってあげる」とか「おいしいの食べよう」とか言うこともあるだろう。だけど、僕はそんなバーター取引みたいなことはしない。

そんなことで、せっかく僕らとその子供に与えられた「運命」を無駄にしたくない。

だから、とりあえずスーパーに「買い物」に行くことにした(もしかしたらその買い物の最中に『甘いものぐらい買ってあげてもいい』と思いつつ)。

そうしたら、本当に、さらに神がいたずらをしたかのような運命的なことが起きた。

さっき「図書券5000円」を当てた「うちの子が好きな子」が、まったく同じタイミングでそのスーパーに来て、入り口のところで鉢合わせしたのだ。

僕はそのお父さんのことも知っているので、「すごいですね。何か当たってましたね?」と話しかけた。するとそのお父さんは「いやあ、何か商品券みたいなの当たって、、、」と答えて、その「うちの子が好きな子」が「〇〇ちゃん!」とうちの子供に呼びかけたのだ。

この状況にうちの子供は脳天を打ち砕かれるようなショックを受けたのだろう。

自分は何ももらえず、打ちのめされ、さらに自分の父が自分の好きな子の父に「すごいですね!」などと話しかけ、あろうことか今度はその子に「話しかけられ」、言ってみれば「傷口に塩を塗られた」のだ。

僕が振り返ると、子供は背中を向けてスーパーの裏口の方へスタスタと歩いている。

もういても立ってもいられないのだ。

僕が追いかける。追いついて、顔を見る。今にも泣きそうな顔で一心に歩き続けている。

「〇〇、何やってるんだ?どこ行くの?雨に濡れるだけだぞ。戻ろう。買い物行くよ」

とたんに「うわーん!」と泣き出す。僕は手を引いて店の裏にある入り口に戻る。

妻も待っていて、慰める。

だけど、もうだめだ。どうすることもできない。僕も何度も言う。

「当たることもあれば、当たらないこともあるんだよ。しょうがないんだよ」

子供は靴を脱ぎ捨て、僕らにぶつけようとする。

妻が耐えられなくなったかのようにとうとう言う。

「じゃあ、おいしいもの食べる?何が食べたい?」

そこで僕はそれを制する。

「ごめん、ここは僕が何とかするから。大丈夫だから。買い物して来て」

妻も今回は諦めて僕らから離れた。

子供を抱きしめて、もう一度僕は言う。

「これはしょうがないことなんだよ」

子供は裸足で、自動ドアの隣に寝転び、恐ろしい叫び声を上げて泣く。

自分の頭を叩き、袖を噛み、自分の指を噛み、

「当たりたかったあ!!当たらなかった自分は馬鹿だあ!!バカだあー!!」と泣き叫ぶ。

今までスーパーやおもちゃ屋で、床に転がって「買って買って!!」と泣き叫ぶ「ヨソの子」を何度も見て、「うちの子はこういうことはないな」と思って来たけど、こんなことは初めてだった。

スーパーの店員が時々覗きに来たし、店内で声を聞いた客も、何か虐待でもしてるんじゃないか?という感じで、興味津々で裏口から出て来て、僕らを憐れな目で見て通り過ぎた。

とうとう最後に子供はしゃくり上げながら、「お母さん、、、お母さん、、、」と泣き始めた。

そこで僕も耐えきれずに、何も言わないで抱き上げた。

妻も戻って来て、声をかける。

それでも子供はまだ泣き続けている。

ふと店内を見ると、「うちの子の好きな子」のお父さんが、レジで会計をしていて、一瞬僕の方を見て目を伏せた。

おそらく、僕らの子が「くやしくて泣いている」のが分かっているし、それが自分の子供が景品を当てたせいでもあるということが分かって、何かバツが悪い感じを覚えたんだと思う。

だけど、その後また僕を見て、帰り際に「にっこりして」会釈をした。

僕も子供を抱きかかえながら、微笑んで会釈をした。

僕は、そのお父さんを「とてもいい人」と思った。

これもまた、ある種の運命的な出来事だと思った。

------

その後、子供は「お腹が減ったー!」と泣いたので、いつものパン屋で好きなクリームパンを食べて、ようやく機嫌が直り、そしてその後珍しく2時間ぐらい寝てしまった。よっぽど疲れたのだろう。

子供が寝ている間、僕らはその出来事について話し、僕は、

「このあと、もう一度、『当たることもあれば、当たらないこともある。それはもうしょうがないことなんだ』ときちんと言葉にして伝える。例えそれが子供にとって、『もう思い出したくないこと』であり、それによってもう一回子供が泣いたとしても、僕はその話をする」

と妻に言った。妻は「私には分からない」と言った。

おそらく、わざわざ抽選会まで残って、そこでハズレて嫌な思いをして、それをさらに掘り返すような僕のやり方に、納得が行かないのかもしれない。

だけど、そういう「不運」を直視して、自分で乗り越えて、その思考プロセスを自分で「体験」する、神が与えたかのような「運命」を、僕は無駄にしたくないし、むしろその「運命」を呼び込むために、僕はあの場に「留まった」のだ。

だから、僕は最後まで付き合う。そう決めた。

-------

その夜、僕と子供は、「いつものように」一緒に湯船につかり、「いつものように」レゴの船で「ごっこ遊び」をした。

僕は「今がチャンスだ」と思って、今日の話を切り出した。

「〇〇、今日クジ当たらなくて、スーパーの外で泣いたでしょう?悔しかったの?」と僕は聞いた。

すると子供は、レゴを持った手を止めて、真剣な顔になって、「、、、うん、、、当てたかった」と涙ぐんで答えた。

「そうだね。当たったらよかったよね。だけど、当たる時もあれば、当たらない時もある。それは〇〇のせいじゃないんだよ」

子供は一点をじっと見つめて、返事をしない。

僕は話を続ける。

「△△ちゃん(うちの子が好きな子)は当たったね。だけど次は△△チャンがハズレて、〇〇が当たるかもしれない。それは分からないんだよ。だから、明日学校に行ったら、△△ちゃんに『当たって良かったね』って言ってあげなさい」

(この『当たって良かったねって言ってあげなさい』という言葉は、言うつもりはなかったけど、何となく流れで口から出てしまって、僕は自分で気に入った)

子供は何も言わない。一点を見つめたままだ。

だけど、僕には分かる。この子が「ちゃんと理解した」ことを。

だから、僕は、「ごっこ遊び」に戻った。

「今日の海は静かだなあ。潜水艦はいないのかな?どこだ、どこだ?」

子供はしばらく、その世界に入れないかのようにまじめな顔をしていたけど、すぐに、

「どかーん、ばしゅーん」とか言って、僕のボートを「攻撃」してきた。

-------

そして次の日の朝、僕は「いつものように」、学校に向かう道を途中まで一緒に歩いた。

雨上がりで、道路は濡れて、ところどころ水たまりができていた。

そして「いつものように」、子供は、「ただいま雨雲の中を飛んでいます」と飛行機の真似をして、水たまりのところに来ると、「あ、台風です」と言ってそれを避けた。

すると子供が突然、とても明るい声で、

「△△(好きな子)すげえな」と言った。

だから僕も「おっ」と思って、

「すごいよね。当たったもんね」と答える。

子供は「最初住所が呼ばれて、名字が呼ばれて、絶対△△って思ったら、やっぱりそうだった」

とうれしそうに言う。

「そうだね。今日会ったら、『よかったね』って言ってあげな。△△ちゃん、きっと喜ぶよ」

「うん」

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子供が本当にその子に「よかったね」と言うかどうかはどうでもいい。重要なのは、子供が自分の力で、その心の中のコンフリクト、矛盾、不運、理不尽さを乗り越えて、そして「笑顔」でそれを言葉にできるようになったことだ。

そのために、その「経験」を与えてあげるために、僕はあの場に「留まった」。

だけど、何が起きるかなんて、僕には予測も予想もできなかった。

ただ直感的に、「ゆるい好奇心」を持っていただけで、結局「つまらないまま」何も起きず、「不毛なまま」家に帰ったかもしれないし、もしかしたらまた「一等」をうちの子が引き当てて、歓喜の中で、さらなる「全能感」をうちの子は持ち続けたかもしれない。

だから、結局は「起きたこと=過去=運命」を僕は作り出すことはできなかった。

ただ、その入り口を変えたのは、僕ら親の行動であり、その判断なのだ。

そしてもう一つ重要なのは、そうやって生じた「運命」を生かすも殺すも、僕ら親が日々の生活を通じて築く、子供との「何気ない会話」をできるかできないか?なんだと思う。

そういった親子関係が築かれてなければ、それを伝達する言葉も単なる「説教」にしかならない。

「運命」を子供に伝え、納得させ、子供の身になるようにするための全ては、「日常」にかかっている。

だから僕は、毎日同じように子供と風呂に入り、毎日同じようにごっこ遊びをし、いつも同じように、雨上がりの道路にある水たまりを「台風に見立てて」歩く。

生きた言葉を伝えるために。

-------

そして最後に、僕が今回感じたもう一つ重要な出来事である、「校長先生」が言った、「子供を抱きしめてください」というあの言葉。

今回の出来事でどんなに僕が「運命」を「言葉」で子供に伝えたとしても、結局僕は子供を本当の意味で「安心させる」ことはできなかった。

スーパーの裏口で子供が地面を転がり回って泣き叫んだ時、父親の僕がどんなに「説明」しても、僕にはどうすることもできなかった。

そして子供は最後に「お母さん、、、お母さん、、、」としゃくり上げたのだ。

だから、僕は「抱き上げた」。

だけど、本当の意味で「抱きしめる」ことができるのは、ただ「母親だけ」なんだと思う。

母親の存在は言葉ではない。

だからあの「校長先生」は最後に、

「子供を抱きしめてください」と言ったのだ。



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